高度経済成長期、地下水汲上げが河川を干上がらせた

訪れるタイミングによっては池の底が見えることもある訪れるタイミングによっては池の底が見えることもある

「水と安全はタダ」。今では聞くことが無くなった、ちょっと前の日本では当たり前だった言葉がある。自然の豊かな日本では何もしなくても水は無尽蔵にあり、タダ。多くの人はそう思っていたのである。

因果関係は別として、静岡県三島市の人たちが最初にその言葉が嘘であることを知ったのは昭和30年代だ。三島市は富士山と箱根山の裾野に位置し、自然の湧水に恵まれた土地だった。古くは室町時代の連歌師宗祇に始まり、松尾芭蕉、太宰治や井伏鱒二、大岡昇平などこの地の水の清冽さを描いた文学者は多く、市内には多くの碑が残されている。

だが、昭和30年代からの国を挙げての工業化は三島市の河川から水を奪っていった。富士山に降った雨水は地下を流れ、三島市の辺りで湧水となって地表に現れ、市内を流れて海に注ぐのだが、その上流にあたる地域で工業団地が立地、地下水の汲上げにより湧水量が減少し始めたのだ。昭和33(1958)年には首都圏を始め、日本の各地で歴史的な大渇水が起こるが、あれほど豊かな水量を誇った三島市でも深刻な水不足が起こったのである。

三島駅の正面に明治維新で活躍した小松宮彰仁(あきひと)親王の別荘跡で国の天然記念物及び名勝に指定されている「楽寿園」という公園がある。親王の別荘だった建物、楽寿館に臨んで小浜池という湧水を利用した池があるのだが、昭和37(1962)年4月6日、池の水位はゼロセンチと観測されている。干上がってしまったのである。

干上がったのは池だけではない。市内を流れる河川、水路も同様に水量が減り、悪臭を放つどぶ川化し始めたのである。劇的な湧水の減少に驚き、楽寿園小浜池を水源とする源兵衛川の管理者である「中郷用水土地改良区」は三島市や地下水汲上げを行っている企業等に働きかけ、農業で水を必要とする5~9月には工場から排出される冷却水を源兵衛川に流してもらうことになるが、冬季には流量が激減する。加えて当時は下水道が整備されてはいたものの、費用負担を嫌がって接続する家が少なく、河川に雑排水が混入。そこにゴミが不法投棄され……。かつて三島市民の誇りだった清流は徐々にまちの厄介者、恥と思われるようになってしまったのである。

川に生首が!衝撃の風景が20数年に渡る戦いの始まり

長らく行政マンと市民活動の二足の草鞋を履き続けた渡辺氏。地元ではその巨体からジャンボさんと呼ばれている長らく行政マンと市民活動の二足の草鞋を履き続けた渡辺氏。地元ではその巨体からジャンボさんと呼ばれている

それから30年近く。ある日、立ち上がった人がいた。その頃から今に至るまで三島市の各種市民団体・地域団体等を繋ぎ、まちを変える原動力となってきたNPO法人グラウンドワーク三島の渡辺豊博氏である。当時、静岡県庁に勤めていた渡辺氏が三島市の川に目を向けるきっかけになったのはある月の明るい夜、酔眼で見た川の姿だった。「干上がった川に捨てられたゴミ袋が月の光に照らされ、まるで生首のように見えた」。

三島市で育った渡辺氏も河川がひどい状況になっていることには気づいていた。だが、1988年のその日までは見て見ぬふりをしていた。社会人になって16年目、仕事も、家庭もある程度落ち着き、足元に目を向け始めたタイミングだったから見えたのだろうと渡辺氏。翌朝、気になって行ってみた川から漂う臭い、川に向けられていた人々の冷たい視線は今も忘れられないという。

そこから渡辺氏の挑戦が始まる。最初は一人でゴミ拾いを始めた。かつて市も何度かゴミ拾いを行っていたが、ある時だけ拾ってもゴミが無くなることはない。無駄と批判する人が出て事業はすぐに終わった。渡辺氏の場合も同じだ。拾っても拾っても次から次に捨てられる。だが、行政と違ったのは渡辺氏が諦めなかったことだ。

拾い続けること1年7ヶ月。初めて近所の人が渡辺氏に声をかけ、アイスコーヒーを差し出した。よく、続くね。そして2週間後、今度は手作りのケーキをふるまわれ、やがて町内会長から「手伝うよ」という声も。だが、その時点で多くの人たちは自分たちにできることはゴミ拾いまでと思っていた。

26年かけて63カ所を変え、まちは大変貌

しかし、渡辺氏が考えていたのはゴミ拾いの先、水の都三島の再生だった。「行政マンはゼロから10を生み出すのが仕事。誰がどこにどんな権限を持っているかも知っている。時間をかけ、輪を広げていけば実現できると思ったのです」。

そのために渡辺氏は繰り返し、三島の清流を取り戻そうと勉強会などで訴え続けた。7年ほど続けた水の勉強会は130回、源兵衛川再生のためのワークショップは3年間で200回、市がまち中せせらぎ事業を始める際には市が中心になって100回……。運動立ち上げ時だけでなく、以降延々と対話を続けてきた結果だろう、生首事件から4年後の1992年に立ち上げた前述のNPO法人には現在20の地域活動団体が加盟、200社以上の法人が協賛する。オール三島といっても良いような陣容である。

スタート時に目標としたのは30年でまちの100カ所を変えるというもの。26年経った2018年時点では63カ所、6割くらいを達成してきており、三島市中心部の風景は大きく変わった。生首と錯覚したゴミ袋が置かれていた源兵衛川には川の中に踏み石が置かれており、清流の中を歩けるようになったし、子ども達はそこでじゃぶじゃぶ水遊びをしている。絶滅した三島梅花藻(みしまばいかも)を近くの柿田川で保護育成、移植した池は新たな観光名所になった。放置された雷井戸や鏡池などを蘇らせたのも市民の力だ。今も10年かけて整備しようと松毛川の河岸で工事が行われているなど地道な努力があちこちで続けられている。

「多くの人はまちづくりに特効薬=公共事業を求めたがるが、そこには必ず副作用がある。対してグラウンドワーク三島の活動はまちづくりの漢方薬。時間はかかるけれど、副作用はなく、体質自体からまちを変えてくれます」。

源兵衛川以外にも宮さんの川、三島梅花藻、雷井戸その他名もないまちなかの清流まで市内にはグラウンドワーク三島の手で甦ったせせらぎ、名所が多数あり、数々の賞を受賞してもいる源兵衛川以外にも宮さんの川、三島梅花藻、雷井戸その他名もないまちなかの清流まで市内にはグラウンドワーク三島の手で甦ったせせらぎ、名所が多数あり、数々の賞を受賞してもいる

水辺だけに留まらない活動でまちに人を集める

活動が変えたのは水辺だけではない。水辺がきれいになっても、そこに人が集まり、消費をしてくれなければ、まちは潤わず、活動は続かない。「行きたくなる場を作り、それを川と道で結んで回遊性を作る。さらにそこに食べる、飲むを繋げれば一度では回りきれないから、また来る。何度も来る。そうすれば飲食業が潤い、波及効果が出てくる。グラウンドワーク三島には青年会議所、商工会議所を始め、商店主なども多く参加しており、その人たちが名物を生み出したのです」。

最初に手掛けたのは鰻だ。研究会を作り、店によってバラバラだった味を底上げしたのである。米の種類や炊き方、焼き加減、甘さ加減などのルールを作り、さらに湧水の中で1週間から10日ほど鰻を絶食させ、身を締めて臭みを抜く「鰻の化粧水」なる手法を共有。それで一気に人気が出た。当時数軒だった鰻専門店は20軒余に増え、人気店には行列ができるようになった。続いて三島コロッケ、サツマイモを中心にしたスイーツ、さらにからあげグランプリで東日本味バラエティ部門最高金賞を受賞した唐揚げなど様々な名物が誕生。訪れる人を楽しませている。

そうした相乗効果により、活動を始めて以来、三島市の観光入込客数は25万人から350万人にまで増えた。もちろん、中心部以外にも観光名所があるため、全てが水辺の魅力というわけではないが、大きな部分を占めていることは間違いない。渡辺氏の目論見通り、リピート率も高く、平均5回。東海道沿いにある大通り商店街では236店舗のうち、30数%あった空き店舗が今はほぼゼロというから、間違いなく水辺の再生がまち全体に賑わいをもたらしたのである。

歩いてみて羨ましいと思ったのは子どもたちの楽しそうなこと。暑い夏もこれだけ身近に清流があれば涼しく過ごせるというものだ歩いてみて羨ましいと思ったのは子どもたちの楽しそうなこと。暑い夏もこれだけ身近に清流があれば涼しく過ごせるというものだ

子どもたちが自慢する、誇りに思うまち

甦った清流もあるが、一方で干上がった場所も。ここは三島大社へ参る人が身を清めたとされる鏡池。昭和60年代からゴミが捨てられるなどして荒れていたが、掃除をし、今は公園に。だが、水が湧くことはもうない甦った清流もあるが、一方で干上がった場所も。ここは三島大社へ参る人が身を清めたとされる鏡池。昭和60年代からゴミが捨てられるなどして荒れていたが、掃除をし、今は公園に。だが、水が湧くことはもうない

もうひとつ、まちの未来のために嬉しい変化がある。子どもたちだ。「三島の子どもたちはこのまちが好きで、必ず三島に帰ってくると言うのです。水辺で遊び、蛍や魚などに触れているからでしょう、知っているだけでも10人以上が地元で生物や理科の教師になっています。川で魚を捕まえても持ち帰るのは一匹だけと自然を大事にしていますし、川に煙草を捨てる大人を堂々と注意する子どもも。愛郷心は大人以上です」。

着々と計画が進み、ほぼ達成しかけている感のある水の都三島の復活だが、不安材料もある。企業の協力などもあって水量は戻りつつあるものの、すべての湧水が復活したわけでない。かつては1,200を超す湧水、井戸があったと言われるが、現在確認されているのは半数以下の580ほど。マンション建設で干上がったケースもある。開発行為には地下の水の流れを変える危険があるのである。

しかも、その三島の駅前で再開発が予定されている。駅の左右にホテル、商業施設なども入るタワーマンションが建つという計画だ。予定地は富士山からの地下水が市内の各河川に流れ込む入口にあたり、うっかりすると水流を止めてしまう懸念がある。もちろん、これだけ長い時間をかけてせせらぎを取り戻し、それを誇りに思う人がいるまちで、それを捨てるような計画を市が進めるとは思えないが……。市内の河川や水路が再度干上がる日を望んでいる人などいないだろう。行政には地下水に悪影響を及ぼすことのない計画で、子どもたちが自慢できる、帰ってきたくなるまちを残していってもらいたいものである。

2018年 08月16日 11時05分