江戸時代の長屋は誰のもの?

江戸時代の長屋は密集しており、火事になると延焼が起きた江戸時代の長屋は密集しており、火事になると延焼が起きた

江戸時代の町人の暮らしを想像するとき、まず思い浮かべるのは、その住居、長屋ではないだろうか。時代劇の中でも、主人公の友人たる町人たちは長屋に暮らしている。そこで事件が起きれば、いろいろな人がやってきては好き勝手な意見を言い合うといった光景はおなじみだろう。
落語には大店の旦那衆も登場はするが、八っつぁんや喜ぃ公など、多くの人物は長屋住まいだ。

しかし、長屋以外の住まいはなかったのだろうか?答えは「長屋以外はほぼない」だ。立派な城郭を建造する技術があったのに、なぜ庶民の住まいはみすぼらしい長屋なのだろう。実は、江戸幕府の政策や人口密集が際立つ江戸の町事情に理由がある。

江戸時代の土地は、基本的にはすべて幕府の所有物だった。つまり、個人が土地を持たなかったのだ。幕府は大名に土地を貸し、大名は地主などに貸し、地主はそこに長屋を建てて庶民に貸すという構図だった。つまり、一般庶民にとって土地は借りるものであり、「財産」ではなかったのだ。

もちろん例外もある。江戸の町人が住む「町人地」と呼ばれる地域は土地の私有が認められ、売買もできたが、そこでも建物の価値はほとんど認められていなかった。
「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉もある通り、紙と木でできた家屋は、火事となればすぐに燃えてしまい、ただでさえ密集して建てられた町の中では、すぐに延焼が広がった。
いつなんどき家がなくなってしまうかわからない家屋に、工夫を凝らしても仕方がないわけだ。
しかも当時の消火活動は、火が燃え広がる方向の家を取り壊し、燃えるものをなくしてしまうという、いささか乱暴な方法だったため、いざ火事が起こった場合、すぐ壊してしまった方がよいのだ。そのため、当時の家屋はわざと安普請に作られていたのだ。

長屋の作りと当時の家賃

現代のようにプライベートが重視されなかった江戸時代、風呂は銭湯が一般的だった。といっても湯船がある風呂ではなく、いわゆる蒸し風呂で、湯浴みの衣装……つまり浴衣を着て入浴していた。当時の人は、裸ではないのに男風呂と女風呂を分けるのは不合理と考えたのか、男女混浴にすることで、銭湯を交流する場所として利用していた。
トイレも共同だから、各家にはついていない。

裏路地に建てられた裏長屋には「割長屋」と「棟割長屋」があり、割長屋は棟と垂直方向に部屋を仕切った作りだ。「長屋」と言われて連想するのがこのタイプではなかろうか。部屋は土間とは別に六畳間があり、梯子をかけた中二階もあった。
棟割長屋は、割長屋の屋根の棟の下にさらに壁を作り、背中合わせに部屋を設けたタイプ。広さは平屋建ての「九尺二間」が一般的だ。つまり、間口が九尺(約2.7m)で、奥行きは二間(約3.6m)だから、現代でいう六畳間と同じ程度の広さだ。そのうち土間が一畳半分ぐらいあるから、居住スペースは四畳半程度、住むには少し窮屈だろう。また、採光は玄関の一方向のみで、風通しもよくなかったはずだ。そのため貧しい小作人や職人などが住むことが多かった。
表通りに面した表長屋は、比較的裕福な小商人などが住んでおり、日当たりも良いうえ、八畳と四畳の部屋に土間があるなど間取りも広く、四畳の部屋で小間物や荒物などを商う住人もいた。

裏長屋の家賃は安く、現代の価値に換算して1万円もしなかったと言われている。
しかし、特に上方では、長屋を借りる際、畳も家財道具も用意されていない「裸貸し」が一般的だったため、家財道具をそろえようとすれば、決して余裕があるとはいえない。また、電気やガスのない時代、暖房や調理など、日々消費する薪代もバカにならず、収入も現代の価値で10万ちょっと。生活は楽ではなかったようだ。

農民の長屋事情

農村の長屋事情は、地主や大名によって違ったようだ農村の長屋事情は、地主や大名によって違ったようだ

上記は江戸町民にとっての長屋事情だが、農村になると少し事情が変わる。
大名たちは地主に畑や土地を貸し付け、地主はそこに長屋を建てる。小作人たちは割り当てられた畑で働き、収穫したものを年貢として納めることで、家賃を納めることとなった。だから、地主が慈悲深い性格ならば、大名に納める量より少し多く小作人に納めさせ、少しでも楽な生活をさせようとするが、小作人からは多く取り立てながら、大名に対しては「少ししか採れなかった」と申告し、私腹を肥やす地主もいた。もちろん、厳しい取り立てを行う大名もいただろう。
天候による不作・豊作の影響も大きいが、大名や地主の人柄によって農民の生活は大きく違ったようだ。

家賃とコミュニティへの参加

町人たちの家賃の流れも、基本的に農民と同じだ。長屋に住んで家賃を支払えば、地主にお金が入り、それが元貸し主である大名、ひいては幕府に入る。つまり、家賃は税金の意味合いが強かったわけだ。そのため、家賃を支払えば町内会の祭りなどのコミュニティや政治的な集会にも参加できるようにもなったらしい。
つまり、長屋に住んで家賃を支払うことで、「町人」と認められたといってもよいだろう。

このように、江戸時代の町人の暮らしに長屋はなくてはならないものだった。しかしそれは「愛着ある終の住処」ではなく、火事でいつなくなるかわからない「ただ生活するだけの場所」ともいえる。

長屋の暮らしを楽しんだ江戸の町人たち。
現代人の目には狭すぎるかもしれないが、家を私有財産としない自由さがあったのではなかろうか。

2016年 03月05日 11時00分