江戸時代は10両以上盗めば死罪、では交通事故は?

年々交通事故の死亡者数は減り続けていると発表されているが、事故原因の悪質化が問題視されてもいる年々交通事故の死亡者数は減り続けていると発表されているが、事故原因の悪質化が問題視されてもいる

交通事故の発生件数および死亡者数は年々減少傾向にあるが、悲惨な交通事故のニュースは後を絶たない。先日、高齢ドライバーが引き起こした事故では、加害者の処遇についても大きな話題となった。さまざまな意見が交わされる中、気になったのが「江戸時代はたとえ事故でも人を殺してしまったら死刑だった」という意見が飛び交っていたことである。

確かに江戸時代の刑法罰は、見せしめにすることで犯罪を抑制する意味合いが強かったため、罪に比べて罰が重くなりがちな傾向があった。例えば江戸幕府の基本の法典である「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」には、10両以上盗めば死罪と記されている。お金を盗むだけで死罪というのは、今の感覚では重過ぎる気がするが、当時は泥棒が多く、抑止の効果を期待してのことである。当時の江戸市民たちも10両盗めば首が飛ぶと当然のごとく認知していた。

では交通事故に対する罰はどうだったのだろうか。ちなみに現在は「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律」により最高刑は15年以下の懲役である。これが重いか軽いかは別として、江戸時代では本当に交通死亡事故を起こすと死刑に処せられたのだろうか。今回は、江戸時代の交通事情や当時の罰則規定、事故の加害者の処遇などについて考察してみよう。

現在の東京をしのぐ過密都市江戸、左側通行が既に定着

江戸時代は1603年から1867年まで265年と長きにわたっている。この間、江戸の町は軍事拠点から商業拠点へと変化、拡大し、それに伴い交通事情も変化し続けた。なかでも注目すべきは江戸の町の人口密度である。狭い地域で人口が増え、物流が活性化すればそれだけ事故は起こりやすくなる。実は江戸時代の人口密度は現在の東京のそれをはるかに超えていた。

江戸初期の正保年間(1647年頃)の記録には、江戸の町人地の面積は約4.4km2に対し人口は約20万人とあり、人口密度は4万5,454人/km2と計算できる。中期の享保年間(1725年頃)では、享保通鑑による町人の人口は約49万人で、同時代の分間江戸大絵図から類推した町人地の面積は約9km2。この時点での人口密度は5万4,444人/km2とさらに過密化している。現在の東京の人口密度は6,310人/km2であるからして、途方もない過密都市である。

この過密都市江戸の交通の要となっていたのは、運河を巡らせた町割りを生かした「舟運」と、人力を駆使した「陸運」である。舟運の主流は高瀬舟と呼ばれる平底の川舟で、米俵を1,000俵も積むことができたという。また、人を運ぶ専用の猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる小型のタイプも多く存在した。

陸運の主役は車力(しゃりき)が引く大八車であった。名前の由来は、大人8人分の仕事ができる、荷台の大きさが8尺あるから、芝高輪牛町の大工の八五郎が発明したからなど諸説あって定かではない。元禄16年(1703年)の調査時点で1,273台の運行が確認されている。

町が発展するに従って、交通ルールが整備され、道路の拡幅工事も何度も行われた。元禄の頃には目貫(目抜き)通りや大通りの道幅は、五間道や十間道と呼ばれる幅9mや18mもある道路が存在したと記録に残されている。

また現在、日本は世界でも数少ない左側通行の国であるが、江戸時代には既に左側通行が定着していた。江戸は武家の暮らす軍事拠点が出発だったため、右側通行だと武士同士がすれ違う際に左腰にさした刀がぶつかってしまう。これを鞘当てと呼ぶのだが、鞘当ては殺し合いに発展するほど武士の体面を傷つける行為とされていた。人口密度が高い江戸では、すれ違いも多かったことであろう。むやみに殺人事件が起きないよう、自然に左側を歩くようになっていったと目されている。

江戸というと雑然とした未開な町をイメージする人もいるだろうが、これらの記録からも分かるように、物流の円滑化や事故防止のために緻密に整備がされた先進的な巨大都市であった。しかし急速な発展に伴う人口の増大、それを賄うための物流の増加に加え、300諸侯といわれた大名たちも独自の輸送手段を駆使して江戸へ物資を輸送するなど、ありとあらゆるものが江戸へと集中。事故が起こらないほうが不思議な状況となっていったのである。

江戸の町は、火事とケンカは江戸の花の言葉が示す様に、幾度も大火の被害に晒された。しかしその復興を通して新たな都市計画のもと、道幅も広く改修されていったのである江戸の町は、火事とケンカは江戸の花の言葉が示す様に、幾度も大火の被害に晒された。しかしその復興を通して新たな都市計画のもと、道幅も広く改修されていったのである

社会問題となった交通事故、本人だけでなく雇い主も重罰に

実際のところ、江戸時代では交通事故がかなり頻発していたようである。交通事故は当時大きな社会問題となっていて、八代将軍吉宗が制定した基本刑法集である「公事方御定書」にもその影響が見て取れる。

江戸時代初期においては、奉行所の裁決は慣例主義に則り、過去の判例をそのまま踏襲することが多かった。しかし江戸の都市化が急激に進み、経済活動や市井の暮らしが激変する中で、そのようなやり方では対応できない犯罪や事故が多発するようになった。そこで吉宗主導により、当時の勘定奉行、寺社奉行、町奉行が中心となって1742年に基本法令集である「公事方御定書」が編纂されたのである。

この時に、初めて交通事故の加害者に対する罰則規定ができた。それ以前には、牛馬や車、舟での過失致傷の加害者に対しては、被害者に対して傷養生代として銀1枚の支払い命令が下るだけで済んでいた。しかし、交通事故の多発が社会問題化し、取り締まりを強化しても車力や馬子たちには効果が薄く、たとえ死人を出したとしても銀1枚とうそぶく輩もいたと、当時の風俗本などに残されている。

そこで、新法令では、乗り合い舟が転覆して死者が出た場合、その船頭は死罪、舟主は遠島。怪我人が出た場合は、船頭は遠島、舟主は重き過料と定められた。陸上交通では、大八車で人を引っかけて死亡させた車力は死罪、その荷主は重き過料、家主は過料、牛馬で人を死亡させた馬子は死罪とかなり罰則が強化された。事故を起こした者の家主まで過料とはかなり厳しい罰則である。

過料、重き過料とはいわゆる罰金刑のことで、過料は3貫文から5貫文、重き過料は10貫文から金30両程度であった。当時、幕府が定めた公定レートは一貫文が銅銭1,000枚で、金一両は銅銭4,000枚、今の貨幣価値で換算すると、過料はおおよそ8万円から12万円、重き過料は25万円から300万円程度だったと推察される。

加えて、追放の刑以上を課せられた者には闕所(けっしょ)と呼ばれる財産刑も付加された。これは田畑、家屋敷、家財が没収されるというものである。重大な交通事故を起こせば本人だけでなく、雇い主も重罰に処せられ、稼業の継承が許されず一家離散の憂き目にあったのである。

江戸の物流は川と堀を利用した水上輸送が主流で、各所に拠点となる河岸が設置され、そこから大八車などで配送された江戸の物流は川と堀を利用した水上輸送が主流で、各所に拠点となる河岸が設置され、そこから大八車などで配送された

混雑した道を暴走すれば死罪、突風にあおられての不慮の事故なら遠島

荷台の大きさが約2.4mで四斗樽が10樽積めた。1トン近い重量の荷車を3人の車力で運行したのだから、坂道の多かった江戸の町では事故が多発したのもうなずける荷台の大きさが約2.4mで四斗樽が10樽積めた。1トン近い重量の荷車を3人の車力で運行したのだから、坂道の多かった江戸の町では事故が多発したのもうなずける

このように吉宗が定めた公事方御定書では、交通死亡事故を起こしたものは死罪となっている。しかし実際の運用ではケースバイケースで柔軟に判断が下されたようである。当時の奉行所の判決にも、有意犯と無意犯の区別がなされ、その中でも責任の重さや悪意の多寡により、有意犯は「巧」と「不斗」、無意犯は「不念」と「不斗」に区別されていた。

これは現在の過失割合の考え方とよく似ていて、例えば人通りの多い時間帯に車を勢いよく引き回した結果、人を死に至らしめた場合は有意犯の「巧」として死罪、ゆっくりと車を引いていたにもかかわらず突風にあおられ、荷崩れを起こし人を死なせてしまった場合は無意犯の「不念」として、罪一等が減じられ、つまり一段階減刑されて遠島になった。

現代で生きるわれわれからすると、突風にあおられての不慮の事故にもかかわらず、かなり重い刑罰が課せられるのは違和感を覚えるかもしれないが、当時の江戸の刑法は「結果責任主義」から「過罪責任主義」への移行期にあり、無意犯の中から偶然の出来事を区別して除外するほど進歩はしていなかったのである。

見せしめで重罪になることも、江戸の昔から変わらないこと

墨田区両国にある浄土宗回向院に現在も残る鼠小僧次郎吉の墓。博打の神様としても有名で墓石を削って持ち歩くとツキが向くと信じられてきた。誰が言い出したのかも分からない都市伝説の類なのだが、実際に次郎吉の墓石を削る人は後を絶たない墨田区両国にある浄土宗回向院に現在も残る鼠小僧次郎吉の墓。博打の神様としても有名で墓石を削って持ち歩くとツキが向くと信じられてきた。誰が言い出したのかも分からない都市伝説の類なのだが、実際に次郎吉の墓石を削る人は後を絶たない

一罰百戒という言葉がある。罪を犯した1人を罰することで多くの人の戒めとするという意味だが、江戸の刑法はまさにこの見せしめ的な要素が多く見られ、社会的に頻発しそうな犯罪行為に対しては自然と刑罰が重くなる傾向にあった。

例えば窃盗刑なら、初犯は入れ墨のうえ50叩き、2回目に捕まると入れ墨のうえ所払い、3回目に捕まると死罪になった。義賊で名を馳せた鼠小僧次郎吉は実在の人物だが、悪質として再犯で捕まった時点で引き回しのうえ、獄門に処せられている。

物語の上では大義賊の次郎吉だが、実態は庶民の味方というわけでもなく、初犯で捕まった時の入れ墨をごまかすために全身に雷竜の彫り物をするようなずる賢さがあったと伝えられている。北町奉行の記録には、武家屋敷ばかり狙ったコソ泥で、入った屋敷98箇所、盗んだ回数122回、金額3,220両を「飲む・打つ・買う」の遊興で全部使い切って捕まったとある。

しかし実情はどうあれ、金持ちから痛快に金を奪うということで次郎吉は世間の人気を博し、芝居の演目になったり、「天が下 古き例は しら浪の 身にぞ鼠と 現れにけり」という句が彼の辞世の句として広まったりしていくこととなる。突出した犯罪者は、時にヒーロー視されるきらいがある。それゆえ後追いの模倣犯を防ぐために、また幕府の威信にかけても極刑をもって臨む必要があったというわけだ。

このように江戸時代には、現代社会にも繋がるさまざまな社会問題が発生し、それに対応するべく新たな法律が生まれ、町の形も徐々に変化していった。それから時は流れ、われわれは成熟した現代社会を謳歌しているが、それでも日々問題が起こり未決のまま山積し続けている。しかしながら車の運転で大切なことは、有意犯はもちろんであるが無意犯にもならないよう、起こりうる可能性を十分に吟味して安全に運行することであり、それは江戸の昔から変わらないことである。

2019年 11月27日 11時05分