招き猫やだるまなどの縁起物のご利益とは?江戸幕府が仕組んだ政策が見え隠れ

1265年11月の酉の日、日蓮上人が国家平安を祈った故事が由来だとされる酉の市。縁起物の熊手を売る屋台が所狭しと立ち並ぶ1265年11月の酉の日、日蓮上人が国家平安を祈った故事が由来だとされる酉の市。縁起物の熊手を売る屋台が所狭しと立ち並ぶ

日本人は縁起物好きである。お土産売り場に行けば、ご当地物の招き猫やだるまがついたストラップが必ずといっていいほど売っているし、テレビの選挙速報ではだるまの目入れの儀式がつきものだ。またこれらを見掛けることが多いのが、社長室、そして旅館の帳場である。

中でも招き猫は、日本人に猫好きが多いゆえんだろうか、そのバリエーションは多岐にわたっている。まずは色柄で、白猫、黒猫、三毛猫、金猫、それから花柄猫に着衣猫、おなかに大入りなどの文字が入った猫もいる。手の上げ方も、右手上げか左手上げ、もしくは両手上げもいる。

何かを抱えている招き猫もいる。例えば小判持ち、鯛担ぎ、鈴つきの首輪をしている猫もいるなど、とにかくありとあらゆるものが存在する。その可愛らしさに、筆者もつい購入してしまうことがあり、どこの土産物屋でも見ることから、人気商品のひとつと思われる。

さてこれら招き猫やだるまはただの人形ではなく、縁起物と呼ばれる品々である。果たしてどんなご利益があるのだろうか。その意味と由来について考察してみた。実は、これらの縁起物の歴史をひも解いていくと、そこには江戸幕府が仕組んだある政策が見え隠れしているのである。

招き猫が縁起物になった理由、三毛猫派、白猫派、黒猫派それぞれに由来が

まずは招き猫がなぜ縁起物となったのか、その歴史をたどってみよう。招き猫の起源には諸説あるが、有力な説のひとつに、今戸焼の三毛猫を模して造られた「丸〆猫」から派生したらしいというものがある。らしいというのははっきりとそうだと言えるだけの資料は見つかっておらず、またそれより古い出土品が見当たらないからである。

江戸時代の書物によると、浅草の裏道に住んでいた老婆の夢枕に猫が現れ、「我の姿を真似た泥人形を作り祀れば福徳自在になるであろう」と神託を受けたとして、浅草寺辺りで売ったところ大評判になったという。

このようなことが話題になった背景には、江戸の元禄期以降、仏縁を表す郷土玩具や泥人形を飾る習慣が流行し、型取りした粘土で焼成した仏像や狛犬、神馬、鳩、鶏などが、日本各地で製造されるようになっていたことがある。これにあやかり、猫型の縁起物が今戸焼から売り出されたというわけだ。

招き猫の起源には他にも、手招きによって彦根藩主の命を救ったとされる白猫をモチーフとした豪徳寺の「招福猫児(まねぎねこ)」説や、手招きによって太田道灌の戦を好転させたとされる黒猫をモチーフとした自性院の「猫地蔵」がそうだという説など、どれもそれらしいいわれがあり甲乙付け難い。どこが元祖でどこが本家なのかは別にして、何にしても各地で盛んに招き猫が作られ売られたのである。

これらのことから見ると、現代に受け継がれている招き猫は、三毛猫が浅草寺派、白猫は豪徳寺派、黒猫は自性院派と組織化できそうである。

招き猫の他にも江戸時代には数多くの縁起物が生み出されている。羽子板、熊手、笹飾り、朝顔、鬼灯、七福神、破魔矢、お守り、おみくじ、絵馬、お札、犬張り子、赤べこ、そしてだるまなど挙げればきりがない。また地方ごとにも独自の縁起物が多数あり、その由来も多岐にわたっている。

豪徳寺に奉納されている招き猫は、白猫で右手招きが基本パターン。ここに座っているのは、それぞれの家に福を招いて仕事を全うした証豪徳寺に奉納されている招き猫は、白猫で右手招きが基本パターン。ここに座っているのは、それぞれの家に福を招いて仕事を全うした証

江戸時代の縁起物ブームの2つの背景、身近な死と幕府が推進した格差社会

作者は美人画で有名な喜多川歌麿。歌麿が妖怪画を?と疑問に思う人も多いことだろう。しかし、歌麿の師匠は妖怪画で有名な鳥山石燕であった作者は美人画で有名な喜多川歌麿。歌麿が妖怪画を?と疑問に思う人も多いことだろう。しかし、歌麿の師匠は妖怪画で有名な鳥山石燕であった

このように江戸時代に縁起物が大ブームとなった背景には2つのことがあった。1つは、日常的に死を感じさせる社会不安があったことである。

実に江戸という都市は多くの犠牲者を出してきた。疫病の蔓延で、大火で、洪水で、犯罪被害で、そして以前「江戸時代の大きな社会問題だった交通事故とその罰則、混雑した道を暴走すれば死罪」でも書いたように、当時大きな問題になっていた交通事故などでも多くの人が死んだ。

これだけ身近に死が蔓延していると、ちょっとした加減でいつ何時、禍が降りかかってくるか恐ろしくなる。「宵越しの金は持たない」とは当時の庶民の生活感ともいえる地口だが、これも常に死が身近にあることによる自虐の念が言わせていたのかもしれない。

そして2つ目が、江戸幕府の思想政策によるものである。幕府は江戸時代の初期に「諸宗寺院法度」を制定、各宗派に対し活動方針や布教のあり方などを個別指導的に細かい規制を行った。

この法は、キリスト教の思想根絶を大義名分にしてはいるが、その実、各宗門の政治的な介入を牽制し、学問の奨励と民衆の教化を促進させ、治安の安定に一役買わせようとする政策であった。

また、諸宗寺院法度のもう1つの目的は、身分や職業による格差構造を確立し、将軍を頂点としたピラミッド型の格差社会を作り上げることで、社会秩序を保とうとするものだった。つまり寺社の布教を通してその格差社会を推進、根付かせようとしたのである。

しかし仏教思想には、本質的に身分の上下や貴賎の別は無い。出家信徒か在家信徒の別しか存在せず、在家と出家にも身分上の差などは無かった。しかしこの江戸幕府の政策は意外にも多くの仏教宗門が受け入れた。

教義から考えれば大きな抵抗があって然るべきだと思うのだが、実際にはあっさり従った感が否めない。特にこの時代に公認教団になるために奔走していた真宗本願寺派は、教団組織に積極的にこの思想をとり入れた。

諸兄姉もお盆やお彼岸、そして法事などで菩提寺に出向き、僧侶の読経を聞くことがあると思うが、その時に僧侶の装束の違いに気付くこともあるだろう。着ている衣の色が黒だったり、茶だったり、黄だったり、緋だったりと色分けされている。

もちろんそれまでも装束の差はあったが、このように厳格に階級分けがされるに至ったのは、江戸幕府の格差政策の名残である。他にも本寺と末寺といった格式による序列化や寺院規模の大小、檀家・支援者の身分などによって格差化が進められることとなったのである。

心理的な抑圧を掛けられた江戸市民、心の拠り所となった縁起物たち

張り子のだるまは、日本各地で生産されている。写真のように白目のだるまに左目だけを描き入れ祈願する風習は文化年間(1804-1818)から始まった張り子のだるまは、日本各地で生産されている。写真のように白目のだるまに左目だけを描き入れ祈願する風習は文化年間(1804-1818)から始まった

仏教界が宗門の信徒に対して格差を推進する教化と流布に手を貸したことは、江戸市民の宗教観や信仰の方向性に変化をもたらした。

その際、仏教界は教化の方便として「ケガレ」を用いた。ケガレとは呪術的な忌みと排除を伴う社会観念のことで、個人的な思想ではなく、社会的・政治的に作られたものである。つまり今世の格差は前世の業報であると肯定することで、民衆をコントロールしようとしたのである。実際、江戸幕府をはじめとする封建領主たちはこのケガレを積極的に利用し、領地経営に取り入れている。

このような身分制度を肯定した教説が、真宗大谷派の僧侶妙音院了祥が記した「非人格化」である。その一節に「今日乞食非人となりたるをみれば、過去の世は善根をつまず悪因のみつみたりしことのしられ、今生冨貴の人をみれば、前世に善因をなせることのしらるるなり」とある。

もしかしたら明日にでも死んでしまうかも分からない時代である。当時の死生観では、死=生まれ変わりなのだから、悪因を積めば生まれ変わったときに下賤の身に落とされる。この宗教観は、来世で地獄に落ちると言われるより、リアリティを持った脅し文句として江戸人の心深くに根付くこととなったのである。

心理的な抑圧を掛けられた人々が、鳥居を見つければちょっとお参りして行こうという気になるのも当然だ。縁起が良さそうな物があれば、すぐに飛びついたことだろう。招き猫やだるまといった縁起物はもちろん、縁起が良いとされるイベントがあれば大勢が殺到した。

縁起物は、幕府の徹底した思想政策と宗教界からの心理的な抑圧を受けた人々にとって、心の拠り所だったのである。

だるまの由来と意味、目入れではなく片目の状態に成就の力があるという思想

だるまの由来についても少し触れておこう。だるまのモデルとなった達磨大師は禅宗の開祖で、洞穴の壁に向かい座禅修行すること9年で悟りを開いたと伝えられる聖人である。その姿を尊んでデフォルメされ、起き上がり小法師として縁起物化された。

だるまの置き物がよく見られるようになったのは、江戸後期である。経済が成長した元禄期以降になると、町民経済も安定期に入り、庶民も縁起物を買うようになった。泥人形の製造年代別の変遷を見ると、初期には仏像や仏塔が多く、中期には神馬、鳩、鶏、後期になるとだるま、招き猫、天女がよく見られるようになる。

現在は目無しだるまにまず片目を入れて、祈願が成就したらもう片方を入れて両目にするというのが一般的だが、当時は微妙に風習が異なっていた。制作時期の早いものは、片目のだるまが主流であり、現在のような目無しだるまに目を入れていくスタイルは、かなり後から始まったようである。

というのも、本来、成就の力を持っているのは片目の状態のだるまだからである。日本は古来より不完全なものに呪力を感じてきた。青森で出土する遮光器土偶が必ず体の部位が欠損しているのも呪具として用いられたからであり、東照宮の陽明門の逆さ柱も同じ呪法によるものである。つまり片目の状態であることが重要な意味を持っている。

民俗学者柳田國夫の研究に一つ目小僧を扱ったものがある。それによると、大昔のいつの時代かに神を祀るために人を生贄(いけにえ)とする風習があり、その際に片目と片足を奪われ、神に眷属(けんぞく)として捧げられたのが一つ目小僧の正体であると言うのである。だるまの強請誓願の根本には、このような方法で誓願成就を願う古の風習があり、古代社会では世界各地で見られ、そう珍しいものではない。

最近では、だるまは選挙の守神の如き役割を担わされているが、本来は祈願成就のための呪具である。願う内容には特に縛りは無いようで、つまりはどんなご利益でも期待できるということになるが、主には商売繁盛や合格祈願、必勝祈願など現世利得を願うことに利用されてきたようである。

招き猫も片手である。猫が顔を洗う様子が、人の手招きと似ているからという単純な理由で生まれた物だとしても、片手であることが呪具として意味を持つのである。ちなみに、右手招きの招き猫のご利益は金招き、左手招きは人招きと言われているが、これは左尊右卑思想が根底にあると考えられる。日本では古来より左が上位で右が下位という習慣があった。舞台の上手は演者の左側だし、内裏雛では左大臣のほうが偉い。

つまり、不浄な金を招くのは右手であり、左手で招く人心のほうがずっと大切で重要だということであろう。最近の流行の両手を上げているバージョンは、「金運全開招き猫」などと呼ぶらしいが、江戸っ子からすれば、両方なんて欲をかいたらお手上げだくらいは言いそうである。

いずれにしても、縁起物とは心の拠り所であり、今世の利得を祈願する呪具でもある。処分する際にはお焚きあげに持って行くなど、大切に扱うことを心掛けたいものである。

7月10日は観世音菩薩の縁日にあたり、その日に参拝すると46,000日分のご利益があると信じられている。鬼灯(ほおずき)は明和年間(1764-1772)に雷よけとして売られ始めたが、始めは鬼灯ではなく赤トウモロコシだった7月10日は観世音菩薩の縁日にあたり、その日に参拝すると46,000日分のご利益があると信じられている。鬼灯(ほおずき)は明和年間(1764-1772)に雷よけとして売られ始めたが、始めは鬼灯ではなく赤トウモロコシだった

2020年 10月25日 11時00分