広い中庭、通路に低層の木造建物が点在

十数年に及ぶ小田急線の複々線化工事は終わったものの、それに伴う駅周辺の整備が続く下北沢駅と世田谷代田駅の間に2020年4月、新たな商業施設が誕生した。線路があった場所にお店を開くことができる「ボーナス」と線路跡地を表現した「トラック」をかけあわせた「ボーナストラック」である。レコード業界で使われるボーナストラックという言葉には本来のアルバム構成に含まれない追加曲という意味があり、作り手が自由にできる部分ともいえるのだとか。この場がさまざまな人たちがチャレンジする場になって欲しいという願いも込められているわけである。

実際の空間は線路跡の細長い敷地の南側に区道を取り、それ以外の土地に木造の2階建てが5棟点在するというもの。下北沢に近い部分に中央棟といわれる延べ床面積500m2ほどの建物があり、その奥には中庭を挟んで100m2ほどの小規模な建物が左右に並ぶ。建物の1階は店舗、2階は住宅となっており、各階ともに5坪(16.5m2)というコンパクトさである。建物の面積に比して考えると中庭や通路などの緑の部分が多く、のんびりとした雰囲気のある空間である。

小田急線下北沢駅南西口から直線距離にして150mほどの場所にあり、現在は途中が工事中のため、遠回りせざるを得ないが、それでも数分とかからない。整備完成後は駅のすぐ近くの立地でありながら、非常に贅沢ともいえる土地の使い方がされているのは用途地域の問題を逆手にとっているから。商業施設が立っている部分までは第一種中高層住居専用地域、そして小規模な併用住宅が並ぶエリアは第一種低層住居専用地域なのである。

左上から時計回りに、駅からのボーナストラック遠望、通り沿いからボーナストラック中央棟、下北沢駅を背に左側にある区道、世田谷代田側から見たボーナストラック左上から時計回りに、駅からのボーナストラック遠望、通り沿いからボーナストラック中央棟、下北沢駅を背に左側にある区道、世田谷代田側から見たボーナストラック

家賃高騰で失われたまちの面白さを再生

一種住専エリアの中庭と建物。容積率を残した余裕ある使い方となっている一種住専エリアの中庭と建物。容積率を残した余裕ある使い方となっている

ご存じのように第一種低層住居専用地域(以下一種住専)は主に住宅を建てることとされている地域で、店舗やオフィスだけという建物は建てられない。敷地いっぱいに建物を建てることもできない。

「収益を上げるための建物が作れない場所というわけです。一種住専エリアには建物の面積の半分までしか店舗が作れないため、1階は店舗ですが、2階は住宅という併用住宅になりました。一般的な店舗募集ではあまり歓迎されないスタイルで、家賃もそれほど高くは設定できない。であれば、ここだけで稼ぐのではなく、近年の開発の間に下北沢から失われてきたものを復活させる場を作り、ここから周辺を変えていくことを小田急電鉄と一緒に考えました」とボーナストラックの運営に当たる株式会社散歩社の小野裕之氏。

それが個性豊かな若い店主たちが営む商店街のような空間である。かつての下北沢は渋谷からも新宿からも少し離れた穴場的な場所で、家賃が安く、個人でも店を出すチャンスがあった。新しい業態、営業方法にチャレンジするゆとりもあった。それがまちの面白さに繋がっていたわけだが、駅周辺ではこの10年ほどで店舗などの家賃が高騰、特に南口の商店街ではチェーン店が目立つようになった。さまざまな業種が混在する「何があるのだろう」というわくわくした賑やかさが失われてきているのだが、ボーナストラックはかつてのそれを人工的に作り出そうという場なのである。

そのため、出店している店は他の多くの商業施設の既視感のある店とは異なり、それぞれに個性的。30代の、知る人ぞ知るファンのいる経営者が中心でスタッフも若い。店自体がコンパクトなので若い人でも一人で回せるのだ。

脱マニュアル化できる人が育つ、学ぶ場

それは新しさに繋がると小野氏。
「飲食であれ、物販であれ、世の中は新しさを求めていますが、それがなかなか実現できないのは多くのビジネスがマニュアル化され、均質化してしまっており、人をきちんと育てられていないから。個人が現場で自分で考えたことを実践する権利がないからです。『その場、その場でやってみていい』が許されるようになれば、面白いことは生まれてくるはず。ここはそんな人、ビジネスが育つ場、学ぶ場でもあってほしいと考えています」
かつて下北沢を面白いまちにしていた個店の「とにかくやってみよう」という前向きなパワーをこの場で再生、街全体に広げていこうという、これまでにない試みなのである。それができるのは鉄道の地下化で新しく使える土地が生まれたことに加え、鉄道会社が目先の利益に捉われずまちづくりに取り組んだからだ。他のまちでは家賃が上昇、店が均質化して面白くなくなってきていても、そこに若い人を入れる手がほとんどないことを考えると下北沢周辺の有利さ、ポテンシャルが分かる。

そして、この場で生まれた面白い人、ビジネスをまちに広げる、あるいはこの場にあるような店を周辺に作りたいなどの要望に応えるため、ボーナストラックには不動産会社が入っている。敷地内の5坪の店舗で満足するのではなく、さらに大きな舞台を求めて巣立っていくことを期待、その応援ができるようにという意味である。

駅近くの商業施設と考えると不動産会社の入居は不思議だが、ボーナストラックをここで生まれ育った人やモノをまちに送り出していく場と考えると、そこには不動産会社が必要になる。場と人を結び付けるのが不動産会社の仕事であり、どんな人を入れていくかでまちは変わる。不動産会社はまちの入り口であり、まちの人材採用担当なのである。

入っているのは古家の再生、DIY可能賃貸、空き家の企画運営やリノベーション再販事業などを手掛ける松戸市のomusubi不動産。単にすでに市場にある不動産を右から左に動かす、言われた通りの不動産を探すのではなく、自ら物件を発掘、企画、運営できる不動産会社である。

左上から時計周りに、中央棟入口にある敷地図、中央棟、このエリアを紹介するチラシが敷地内に点在、個性的ながら小さな店が並ぶ左上から時計周りに、中央棟入口にある敷地図、中央棟、このエリアを紹介するチラシが敷地内に点在、個性的ながら小さな店が並ぶ

世田谷区内の空き家解消を目指すという目的も

世田谷区そして下北沢は人気のある自治体、地域ではあるが、同時に空き家の多い地域でもある。ボーナストラックの周辺もちょっと歩けば空いているのではないかと思われる家、アパートが点在しているとomusubi不動産の殿塚建吾氏。

「ボーナストラックはサブカルの聖地としての下北沢と、閑静な住宅街の世田谷代田が交わる地点にあります。世田谷代田駅の周辺にはシャッターが閉まった店が目立つ商店街がありますし、古いけれど雰囲気のある空き家と思われる店舗付き住宅も多数。これらが活用できれば、個性的な店舗に転用できそうな可能性があり、下北沢との2つの異なる魅力を拡張できる気がします」

ボーナストラック内にはコワーキングスペース、シェアキッチンがあり、その中には新しく店をやりたいという人も多く集まってきている。物件を探して欲しいというニーズは確実にあるのだ。そうした人たちを周辺の空き家とマッチングできれば地元の課題解決に繋がり、また外周部からまちを面白くすることにも。地域全体を変える装置としても不動産会社には期待が寄せられているのである。

ひとつ、気になったのは全く地縁のない土地での物件掘り起こしは大変ではないかという点だが、それについては鉄道事業者である小田急電電鉄が大きな存在だという。

「敷地の植栽にモノを置いていたら、ご近所の方にせっかく小田急さんが緑を植えてくれたのに申し訳ないよと声を掛けられました。そこは入ってもいい植栽だったのですが、地元を大事に思っている人が多いのです。そして小田急電鉄さんが開発にあたり、丁寧にコミュケーションを取ってきたので、とても信頼されている。その小田急さんとも空き家探しを進めていく予定です」

右が不動産会社の入っている建物。この辺りで不動産を使って何かやりたいなら相談に行こう右が不動産会社の入っている建物。この辺りで不動産を使って何かやりたいなら相談に行こう

店の個性を楽しみ、中庭で寛ぐ

商業施設というより、まちを変える場としてのボーナストラックの話ばかり書いてきたが、最後に個性的な店舗をいくつか紹介しよう。

まずは日本でも初めてだろう日記の専門店「日記屋 月日」。カフェを併設した店内には書籍になった日記のほか、レトロな装丁の日記、自費出版された日記が置かれており、棚を眺めていると「これも日記だったのか」と新しい発見がある。月日会という日記を読み書きするのが好きな人のコミュニティも作られており、実際に店を訪ねる以外にもオンラインで交流する楽しみもある。コロナ禍も含め、変化の大きい時代だけに自分のため、後世のためも含め、改めて日記を見直してみてもよいかもしれない。

飲食店も多数あるのだが、個人的に興味を引いたのはお粥とお酒「ANDON」。朝8時からという他店が開いていない時間から営業、おむすびや味噌汁、お粥などのヘルシーな朝食が頂ける。オフィス街のモーニングの多くが飲み物は別として、水分の少ない、冷たいもの中心であることを考えると、温かく、優しいものは胃が喜ぶはずである。特に飲んだ次の朝には欲しくなること間違いなし。秋田の知られていない食材も多数揃っている。

中央棟1階に入っている「発酵デパートメント」は日本中の発酵食品、発酵に関する日用品や書籍等を集めたショップ、レストラン。他の店舗が店内に席が少なく、テイクアウトあるいは中庭などでの飲食になるのに比べるとゆったり食事ができる場でもある。醤油ひとつでもいろいろな種類が扱われており、それぞれの説明を聞きながら購入できるようになっており、料理に関心のある人ならいろいろ買いたくなってしまうだろう。地元の人を中心にすでにリピーターもいるそうで、醤油、みりんを変えるだけで料理がぐんと変わりますよと副店長の長田夏奈氏。現在はオンライン開催している味噌や麹を作るワークショップなども、今後は店舗でも実施していく予定だ。

それ以外にも店舗はあり、不動産会社も入れて全部で13。天気の良い日に中庭で寛げば、気分はまるでリゾート地。ゆったりした中庭に癒されるはずである。

左上はANDON外観、左下は月日店内、右2点は発酵デパートメント店内左上はANDON外観、左下は月日店内、右2点は発酵デパートメント店内

2020年 08月07日 11時05分