リノベーションの力を信じて築50年前後の傾いた家を購入

料理人が振る舞う賄いが食べられると人気の賃貸住宅・クロスコート向ヶ丘があるのは、小田急線向ヶ丘遊園の駅から歩いて9分ほど。丘陵地の坂が目につき始めるあたりで、同物件もエントランスからは細い坂道を上る。敷地内には2棟の建物があり、高台にある黒い外観がスタイリッシュな1棟は2階建てで各階に5戸、全10戸のワンルームアパート。昭和48 (1973)年築というから、築46年である。

もう1棟は1階にアパート10室があり、2階に元所有者の自宅である母屋があるという作りで、こちらは昭和44(1969)年築で築50年。いずれも今の賃貸市場では、あまり見ることのない古い建物である。

しかも、現所有者の夏山栄敏氏が2017年12月にこの物件を見に来た時には敷地はジャングル状態で、擁壁の一部は崩れて、建物は傾いていた。2011年の東日本大震災で崖が崩れたことにショックを受けた前所有者が入居者を退居させ、自分も慌てて出ていき、以降、空き家になっていたのである。

しかし、旗竿地ながら土地面積は850m2あり、土地価格だけで1億円以上はする。それが建物も含めて3,000万円という破格値で売られており、夏山氏は手を入れれば大丈夫と判断し、購入を決めた。「谷中で有名な古いアパートを利用したHAGISOその他リノベーション物件を多数見ており、古い建物でも適切に手を入れれば再生できること、古さが独特の味わいになることを知っていました。だから、やってみようと判断できたのです」

公道沿いの入り口から階段を上ったところに2棟が離れて立つ。右下の2階が元母屋で食事の場はこちら公道沿いの入り口から階段を上ったところに2棟が離れて立つ。右下の2階が元母屋で食事の場はこちら

想定の3倍以上の費用をかけてようやく工事終了

改修前の状態。周囲の人たちには「これを買ったの?」とちょっと驚かれたとか改修前の状態。周囲の人たちには「これを買ったの?」とちょっと驚かれたとか

覚悟していたとはいえ、再生までの道のりは山あり、谷あり。「部屋の中にはムカデやゲジゲジ、ゴキブリ、白アリもいれば、外廊下の天井にはスズメ蜂の巣も。屋根裏にはハクビシンが住み着いていて、うんこの山がありました。なぜか、扉やタンクのないトイレも複数。建物以外で大変だったのは広大な敷地の除草。刈っても刈ってもすぐに生えてくる。そこで除草剤を撒いた上に除草シート、さらに200袋近い砂利を購入、軽トラで10往復くらいかけて運んで敷き、ようやく雑草に悩まされなくなりました」

プロに任せるだけではない。砂利敷設以外にも作業をした。大家仲間を誘い、ワークショップ形式で砂壁に漆喰塗料を塗ったり、夫婦二人のDIYで襖や障子を貼ったり……。夏にエアコンのない室内での作業は大変だったと夏山氏。だが、そのかいあって建物は徐々に甦っていく。ただ、さすがに費用はかかった。当初は1,000万円くらいでなんとかなると踏んでいたそうだが、最終的には3,300万円かかったというから、古い建物の利活用は資金的に余裕を見て始めないと大変なことになりそうだ。

2018年1月に購入し、当初は1~3月でリフォームを終わらせる予定だったそうだが、人手が確保できず。そのため、1室だけを仕上げてもらい、それをモデルルームにして4月以降に募集を開始した。その後、ようやく母屋も含めてリフォームが完成したのが2018年夏。そこからせっせと募集、物件の情報を不動産会社等にPRするもあまり決まらない状態が続いた。

火が点いたのは賄い開始以降。今では空き待ちも

室内は一般的なワンルーム。5~6畳ほどの居室にクロゼットと水回りがある室内は一般的なワンルーム。5~6畳ほどの居室にクロゼットと水回りがある

「全20室のうち、2018年中に決まったのは5室のみ。大きな理由は地元の不動産会社には単に古い木造アパートとしてしか認識されなかった点でしょうか。フルリノベーション済み、母屋に広い共有スペースがある、バーベキューコーナーがあるなどの魅力を自分でチラシを作って配っても反応してもらえませんでした」

そんな状況が一変するのは2019年3月。賄いが始まってからである。

賃貸業界でこの何年か、話題の場所がある。2015年12月に神奈川県相模原市淵野辺にある管理会社東郊住宅が始めた入居者専用の食堂「トーコーキッチン」だ。朝100円、ランチ・夕食500円という大手企業の社員食堂顔負けの価格で安全な食が提供されるというもので、さまざまなメディアでも取り上げられているから、ご存じの方も多いだろう。夏山氏もトーコーキッチンを始めた池田峰氏の話は何度も聞いており、家族にも面白い試みとして紹介していたという。

それを聞いた夏山氏の妻が愛知県に住む妹にその話をし、それがきっかけとなって料理人兼管理人として妹家族が移住してくることになった。夏山夫妻にとっては義理の弟となる人が和食の板前を経て企業の食堂などで調理師をやっていた人だったのだ。定年にあと3年を残していたものの、過労で肩と腰を痛めて手術。復帰することにしていたものの、大量の調理は体に負担になる。だったらと、新たな天地で料理をしようということになり、娘と3人で引越してきたのだ。

朝食200円、夕食500円で品数豊富な手作り料理

ほぼ同じタイミングでシェアハウス物件を扱うひつじ不動産に物件情報が掲載された。クロスコート向ヶ丘は各戸にキッチンもバスルームもある一般的な賃貸住宅だが、共用部があるなら可とのことで、そこから火が点き始める。夏山氏が地道に続けてきたFacebookからも問合せが入り始め、5月には満室に。それでも問合せは止まらず、今では空いたらぜひ入りたいというウェイティングリストもできているほど。

多くの人が引きつけられる魅力を実感しようと夕食時にお邪魔した。場所は共用部キッチンと続く12畳ほどの和室。ここで平日の朝は7時~9時、夜は19時~21時まで食事が供されており、朝は前日の昼までに、夜は当日昼までに食事を利用するかどうかを連絡することになっている。また、夜、間に合わない場合には23時までなら弁当にしてもらえるという至れり尽くせりぶり。

さて、その日のメニューは生姜焼きにツバスという魚の竜田揚げ、じゃこおろし、そしてご飯と味噌汁。500円でこんなに!と思うボリュームで、さすがにプロの味。加えて嬉しいのは顔を見てから味噌をとくといった丁寧な仕事ぶり。平塚漁港から取り寄せるぴちぴちの魚、裏山で採れるタケノコやフキなどが食卓に上がるほか、夏山氏からの差し入れで鰻が出たりすることもあり、若い人でも食べきれない!と嬉しい悲鳴が上がる日もあるとか。

200円の朝食もサンドイッチ、トースト、マフィンにご飯の日もとバリエーション豊富でボリューム、栄養ともに考えられている。また、月に1回はバーベキューやたこ焼きパーティー、流しそうめん、多種のケーキが並ぶアフタヌーンティーなどのイベントも開かれており、ここに住んだら太ってしまいそうだ。

左側2点が朝食、右側が夕食の写真。毎日食べても飽きないようにバリエーション豊富左側2点が朝食、右側が夕食の写真。毎日食べても飽きないようにバリエーション豊富

食と笑顔が居心地のよい場所に

だが、お邪魔してみて気づいたのは、魅力は食だけではないということ。もうひとつ、「お帰り~」と言いながら食事を出してくれる夫婦の笑顔があるのだ。二人に聞くと「仕事とは思っていませんねえ、娘と仲良しの友達にご飯を出しているような、そんな気持ちで作っていますよ」と実に楽しそう。食べにくる入居者も仕事帰りでスーツは着ていても、どこかリラックスした雰囲気。「今日はこんなことがあってねえ」と打ち解けた会話も聞いた。

会話が生まれるからだろう、ここに引越してくるまで1年以上も日本に住んでいたにもかかわらず、ほとんど日本語が話せなかった留学生が引越して1ヶ月ほどで日常会話に不自由がなくなったということも。入居者の年齢は下は20歳から上は60歳代まで幅広く、男女比は半々。外国人も4割くらいいるとか。

しかし、疑問は住み込みの調理人&管理人がいて、これだけの料理を出して、それで採算がとれるのかという点。夏山氏によるとトータルではプラスという。

「料理単体ではマイナスですが、賃料は当初より1部屋当たり1万5,000円ほどは上がっていますし、相場より高めでも広告不要で決まります。不動産会社を通さず、直接契約をしているので、そうした経費もかかっていません。結果、全体としてはプラス。それに何より、ここに来て入居者の人たちと一緒にご飯を食べるのは楽しい。やってよかったと思います」

残念ながら当面、空室が出る予定はないが、興味のある人はまめに情報をチェックすることをお勧めする。また、母屋にはコワーキングやレンタルスペースなどもあるので、場所の雰囲気を味わうことは可能である。

その日のメニューが毎日掲示される。リビングに貼られた世界地図の上にはこれまでに入居した人の国にピンが。右の2点はお弁当その日のメニューが毎日掲示される。リビングに貼られた世界地図の上にはこれまでに入居した人の国にピンが。右の2点はお弁当

2019年 09月30日 11時05分