“アメリカ建築の聖地”シカゴ。近代建築3大巨匠のうち2人の足跡が残る

建築史家・倉方俊輔さん(大阪市立大学准教授)が建築を通して世界の都市を語る、全16回のロングランセミナー(Club Tap主催)。ロンドンに続く第2回は、“アメリカ建築の聖地”、シカゴだ。シカゴは、講座が開催される大阪の姉妹都市でもある。「ミシガン湖を望む“水の都”であり、商業都市でもある点が、大阪に似ているのではないでしょうか」と倉方さんは言う。

シカゴが“アメリカ建築の聖地”たる所以として、倉方さんは5つのポイントを挙げる。第1に、近代建築3大巨匠の1人、フランク・ロイド・ライトが建築家としてデビューした街であること。巨匠のもう1人、ミース・ファン・デル・ローエも、シカゴで後半生を過ごした。これが2つ目。

第3に、シカゴは「都市計画」の先進地である。1871年の「シカゴ大火」により市域の約3分の1を焼失したため、復興に向けて多くの建築家が活躍した。中でも都市計画家としてリードしたのがダニエル・バーナムだ。「大阪であれば、辰野金吾とともに設計事務所を開設し、そして建築計画の思想を広めた片岡安が相当するでしょう」と倉方さん。そして第4、シカゴは世界に先駆けて超高層ビルを誕生させ、発展させた都市でもある。

第5のポイントは、建築を街の活性化につなげている点だ。シカゴにはアメリカ最大級の“シカゴ・アーキテクチュア・センター(CAC)”があり、建築関連のイベントや展覧会を常時開催している。特に人気が高い「リバー・クルーズ」では、シカゴ川沿いに並ぶ50超の建築物を、CAC認定ガイドの解説付きで船上から見学できる。古典様式からインターナショナル・スタイルまで、その多彩な建築群が、短期間で世界有数の都市に成長した、シカゴの歴史を物語る。

ミシガン湖畔から摩天楼が並ぶシカゴ市街を望む。
(以下、写真はすべて撮影:倉方俊輔)ミシガン湖畔から摩天楼が並ぶシカゴ市街を望む。 (以下、写真はすべて撮影:倉方俊輔)

アメリカ文化の誇りとしてのフランク・ロイド・ライト

日本にもいくつかの建築を残したフランク・ロイド・ライトは、生涯で500とも600ともいわれる作品を手掛けた20世紀の巨人だ。代表作にニューヨークの「グッゲンハイム美術館」(1943ー59年)や、名住宅「落水荘」(1936年)がある。

「アメリカ人にとって、ライトは有名建築家というだけにとどまらない、アメリカの文化全般の中での “ヒーロー”といえます」と倉方さんは言う。「第一次世界大戦以降のアメリカは、機械文明においてヨーロッパを脅かしながらも、文化的にはまだ後進とみなされていました。アメリカ人自身も、ヨーロッパ的であることが良いことと考えていました。しかし、ライトの建築はヨーロッパを驚かせ、アメリカから世界に影響を及ぼしたのです」。いわゆるエリートの出自ではなく、スキャンダルを乗り越えて世界的建築家にのし上がったライトの生涯は、いかにもアメリカ人好みのサクセスストーリーでもある。

ライトがウィスコンシン州からシカゴにやってきたのは1887年、ちょうど20歳のときだ。大火から16年を経て、シカゴは急成長の最中だった。故郷にいたときから設計事務所を手伝うなどしていたライトは、はじめシルスビー事務所に、次いでアドラー&サリヴァン事務所に移る。代表の一人、ルイス・サリヴァンは、ライトが生涯敬愛した恩師で、有名な近代建築のテーゼ「形態は機能に従う」という言葉を残した建築家だ。

アドラー&サリヴァンのオーディトリアム・ビル(1889年)。ライトもスタッフとして設計に参加した。劇場と店舗やオフィスの複合ビルで、後年、アドラー&サリヴァン事務所も入居したアドラー&サリヴァンのオーディトリアム・ビル(1889年)。ライトもスタッフとして設計に参加した。劇場と店舗やオフィスの複合ビルで、後年、アドラー&サリヴァン事務所も入居した

20件以上のライト作品が残る、郊外の住宅街オークパーク

ライトは1889年に22歳で結婚し、シカゴ郊外のオークパークに自邸を建てた。この街で、ライトは住宅作家として人気を博すことになる。「実業家やアーティストといった、教養と財力を兼ね備えた人々が、20代の若き建築家に自宅の設計を託す。19世紀末の発展するシカゴらしい、進取の気風が感じられます」(倉方さん)

現在オークパークには、歩いて回れる範囲だけでも10件以上のライト作品が残っている。文化財であり、同時に今も人が住む、現役の住宅だ。「ひとつひとつ見て回ると、ライトが自分のスタイルを確立する過程が浮かび上がってきます」。

ライトは自らが設計する住宅を「プレーリー・スタイル」と呼んだ。「草原の住宅」という意味だ。「草原の中に立つ、家族を守る砦。実際には、周囲は草原ではないので、イメージづくりの上手さも巨匠の条件かもしれません(笑)」。暖炉を中心に据えたプランニング、建築と家具が一体になったデザイン、光によって照らし出される情感豊かな空間…。「この時点ですでに、ライトの建築の特徴は顕著です」。

オークパークでライトが設計した住宅群。(左上・右)1889年に竣工したライト邸。1898年にはスタジオを増築、その後も改築を繰り返した。スタジオの上には吹き抜けがあり、高窓から自然光が差し込む。師ルイス・サリヴァンの影響を感じさせる植物モチーフも見られる。この家は現在「フランク・ロイド・ライト・ホーム・アンド・スタジオ財団」が所有し、公開している(左中)ネイザン・G・ムーア邸(1895年/1923年)(左下)アーサー・B・ヒュートレー邸(1902年)
オークパークでライトが設計した住宅群。(左上・右)1889年に竣工したライト邸。1898年にはスタジオを増築、その後も改築を繰り返した。スタジオの上には吹き抜けがあり、高窓から自然光が差し込む。師ルイス・サリヴァンの影響を感じさせる植物モチーフも見られる。この家は現在「フランク・ロイド・ライト・ホーム・アンド・スタジオ財団」が所有し、公開している(左中)ネイザン・G・ムーア邸(1895年/1923年)(左下)アーサー・B・ヒュートレー邸(1902年)

ヨーロッパを驚かせた、建築史に残る名住宅「ロビー邸」

オークパークの住宅群は個性に富み、ライトの柔軟な設計姿勢を感じさせる。「個人住宅を設計するには、建て主の好みや要望を聞き入れる必要もあったでしょう。それはきっと、ライトを鍛えた。だからこそライトは、80歳を超えるまで、長く活躍し続けられたのではないでしょうか」。

シカゴにおいてライトは、建築史に残る傑作住宅を完成させた。倉方さんの言葉では「ライトらしさの完成」だ。1909年竣工の「ロビー邸」。水平ラインを強調した薄い屋根の下に、縦長の窓がリズミカルに並ぶ。長く張り出した軒も特徴的だ。

「壁を幾重にも重ねて内外をつなぎ、外部からの視線を遮りつつ内部に快適な環境をつくる。リビングとダイニングは暖炉だけで仕切られ、全体はオープンなワンルームになっています。現代でも十分に通用する空間構成です」。

この住宅は1910年にベルリンで刊行されたライトの作品集を通して広く知られることになり、ヨーロッパの建築界に衝撃をもたらした。「水平・垂直の直線による抽象度の高いデザイン。加えて、深い軒が、内外を相互に貫流させる空間を生みます。これは、壁で区切られる伝統的なヨーロッパの住宅とは異なるものです。旧来の装飾や格式ではなく、“空間”が建築の勝負どころであるという、20世紀の潮流に先駆けたのです」。

プレーリー・スタイルの完成形と呼ばれるロビー邸。水平ラインを強調した独創的なプロポーションはそれまでの住宅と一線を画すプレーリー・スタイルの完成形と呼ばれるロビー邸。水平ラインを強調した独創的なプロポーションはそれまでの住宅と一線を画す

住宅設計で培ったスケール感がその後のライトの特質に

「ロビー邸の大胆な空間構成は、個人住宅だからこそ挑戦可能な試みでした。シカゴで数多くの住宅を手掛けたことで磨いたスケール感覚、居心地のよさは、その後のライトの公共建築にも通じる特質です」。

しかし、1909年を最後に、ライトは家族を捨ててシカゴを去る。小さな教会「ユニティ・テンプル」(1909年)を除けば、シカゴがライトに与えた公共的な仕事は、「ルッカリー・ビル」のロビー改修(1907年)だけだった。


講義後半、シカゴの超高層ビル史と、シカゴにおけるミースの業績については、また次回。

取材協力:Club Tap

(上)プロテスタント系の教会「ユニティ・テンプル」。「内部は大きな空間を高低差で分割し、つながっていながら分かれているように感じられて、いかにもライトらしい」(倉方さん)(下)高層ビルの原型と言われる「ルッカリー・ビル」(1886年)のロビーを、1905年にライトが改修。金属の柱を白い大理石で包み、ブロンズのシャンデリアをデザインしている(上)プロテスタント系の教会「ユニティ・テンプル」。「内部は大きな空間を高低差で分割し、つながっていながら分かれているように感じられて、いかにもライトらしい」(倉方さん)(下)高層ビルの原型と言われる「ルッカリー・ビル」(1886年)のロビーを、1905年にライトが改修。金属の柱を白い大理石で包み、ブロンズのシャンデリアをデザインしている

2018年 11月30日 11時05分