阪神間のモダニズムを具現化している建築の一つ

1930年、西宮市に竣工。「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と並び称された。阪神間のモダニズムを具現化している建築の一つ1930年、西宮市に竣工。「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と並び称された。阪神間のモダニズムを具現化している建築の一つ

JR東海道本線「甲子園口」駅から歩いて約10分、兵庫県西宮市の閑静な住宅地の一角に「武庫川女子大学甲子園会館」(以下、甲子園会館)がある。大学院6研究科12専攻、大学6学部14学科、短期大学7学科から成る同大学では、3つのキャンパスに分かれて1万人を超える学生が学んでいる。
中でも、西宮市戸崎町にある上甲子園キャンパスは、生活環境学部建築学科の学生が学んだり、オープンカレッジや生活美学研究所として利用されている。このキャンパス内にある甲子園会館は、1930(昭和5)年に竣工した元「甲子園ホテル」で、現在では国登録有形文化財に登録され、文教住宅都市、西宮の美しい景観をつくっている建築の一つだ。

甲子園会館を設計したのは、フランク・ロイド・ライト(米・1867〜1959年)のもとで、主任技師として帝国ホテルの設計に携わった愛弟子の遠藤新(えんどう・あらた1889〜1951年)。左右対称のモダンな建築は、ライト式の流れを汲んだ典型的な建築で、かつては「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」として並び称された。旧帝国ホテルの一部は、博物館明治村(愛知県犬山市)で保存されているが、旧甲子園ホテルは武庫川女子大学として今も毎日、使われている。
甲子園会館を大林組が施工した経緯もあり、予約制の見学日には同社のOBが館内を案内し、「建設費は、当時の100万円、いまなら30億円相当と聞いています」と丁寧に説明してくれた。

甲子園会館は、1990(平成2)年に西宮市都市景観形成建築物に指定され、以後、経済産業省近代化産業遺産に認定(2007年)、社団法人建築・設備維持保全推進協会第17回BELCA賞を受賞(08年)、国登録有形文化財に登録(09年)、兵庫県景観形成重要建造物に指定(09年)と、建築物の美しさは阪神間モダニズムの白眉として、広く知られている。今年10月から始まったNHKの朝の連続テレビ小説では、ヒロインが就職したホテルとして撮影に使われ、たくさんのエキストラが登場する館内の風景は、かつてのホテルの華やかさを彷彿とさせた。

帝国ホテルの教訓を経て、高級な社交場としてオープン

地上4階、地下1階の建物の中央に玄関、フロント、メインロビーを置き、左(東側)にメインダイニング、右(西側)にバンケットルームを張り出した形で、その両翼の上階に客室70室を階段状に配している。客室部分のバルコニーのひさしには、スリットを入れてあるので光がさしこみ、北側に面した部屋でも明るくするような工夫がされている。
ホテルは延べ床面積2,053坪で、150人ほどが泊まれる規模だった。屋上からは六甲山や宝塚の山並みがのぞめ、南側には武庫川の松林と敷地内の池泉式庭園との調和が見事だ。

ホテルの建設計画が始まったのは1928(昭和3)年。翌年に起工し、30年4月15日の開業までたった13ヶ月間。工事が急ピッチで進められたのには、いくつか背景があったようだ。
まず、30年4月23日に高松宮殿下妃殿下の宿泊が決まっていた。両殿下は、24日に神戸港から天皇陛下の名代として欧州に出発する予定で、甲子園ホテルに前泊することになっていた。
もう一つ、甲子園ホテルの支配人が林愛作(1873〜1951年)だったこと。林支配人は、東京の帝国ホテルでかつて働いていた。帝国ホテルは、建設費用がかかり過ぎるとして設計者のフランク・ロイド・ライトを途中で解雇し、ライトの帰国後に遠藤新ら弟子たちが完成させた。林は、それを見ていただけに、もたもたしているわけにはいかない、時間をかければコストアップにもつながる、とシビアに考え、工事を急がせたのではないか。

いわば遠藤と林の二人三脚で完成したともいえる甲子園ホテルは当時、1泊の料金が12円で、阪神間の高級な社交場として富裕層に利用された。昭和前期には、女子テニスの女王ムーディ夫人歓迎会が行われたほか、無線電信発明者マルコーニ夫妻やジョホールの王イブラヒム両殿下が宿泊した。大阪タイガース(当時)の創立披露宴やベルリンオリンピック水泳陣の帰国歓迎園遊会もここで行われた。
大阪から車で乗り付け、周囲の畑でイチゴ狩りをしたり、ホテルのレストランでランチを食べたり、優雅なリゾートライフ…。当時は、「すき焼き専用の和室」があり、現在、展示されている「昭和14年1月26日の営業日報」によると、すき焼きを食べた客は2組5人で総額17円40銭だったと記録されている。
だが、ホテルの廃業と戦争の時期を経て、ホテル時代の食器や家具などはほぼ残らなかった。今では、大学が戦後に入手した当時の食器の一部や、古い写真から建築学科の学生が復元した椅子の模型などが展示されているだけだ。

客室のバルコニーには採光のため、ひさしにスリットが切られている(上)。応接室にあるアートグラスの窓(下)客室のバルコニーには採光のため、ひさしにスリットが切られている(上)。応接室にあるアートグラスの窓(下)

正面と背面では印象の変わる建築デザイン

甲子園ホテルは、第二次世界大戦中には海軍病院として収用され、戦後はアメリカ進駐軍の将校宿舎とクラブとして使用された。1957年に米軍が引き上げた後は、大蔵省の管理下に置かれていたが、65年に武庫川学院が国から譲り受けた。
阪神間には、戦後、進駐軍に使用された建築や住宅がほかにもある。接収されている間に改造されたり、意匠や間取りが影響を受けたケースも少なくないが、このホテルは元々の建物や意匠をよく残している。
国から譲り受ける際に「創意工夫して現状の存続に極力努めること」という付帯条件が付けられていたと伝えられ、学院はそれを受けて、外観はほぼホテル建築当初の状態に復元し、建物内部を教育施設として若干改修して「上甲子園キャンパス」とした。

では、建物の内外を紹介しよう。
正面から見える建物は、威風堂々と圧倒されるような重厚なデザインだが、裏手に回ると建物の印象は変わる。褐色(火色)のタイルとレリーフによる美しいテラコッタ(浮き彫り状の素焼き絵)が陰影となり、まるでお城か博物館かと思えるほど壮大で、美しい。
特に、日華石(にっかせき、凝灰岩)でつくられた「ボーダータイル」「装飾タイル」は、凹凸に富んだアール・デコ文様の壁面彫刻や幾何学的な浮き彫りとなって、建物を華麗に彩っている。タイルは薪で焼かれており、その色柄が一律ではないゆえに、かえって美しい表情に見える。南側にあった大湯池は、かつてはもっと大規模で、屋形船を浮かべて船遊びをしたというから、そこから見える外観はさぞ荘厳だったろう。

甲子園会館は、敷地の南北の高低差をうまく利用してつくられている。現在、地下は、建築学科の1年生が造形演習を行うアトリエになっているが、ホテル時代には厨房がおかれていた。1階西側のバンケットルームと東側のダイニングルームには、地下の厨房からフランス料理を運んだ。

甲子園会館の背面。南にあった大湯池は、今よりかなり大規模で、池に浮かべた屋形船から、この優美でゴージャスな建物を眺めた甲子園会館の背面。南にあった大湯池は、今よりかなり大規模で、池に浮かべた屋形船から、この優美でゴージャスな建物を眺めた

照明からタイルにいたるまで、良き時代の華麗で典雅な空間が広がる

正面玄関の回転扉は、今も動くが使用はしていないという。玄関横の壁には、手彫りのノミで削った痕が見え、人の手で細かく掘られたことがわかる。建物に使われている石材が水分に強くないため、石材を守るために雨天時には傘は玄関の傘置きに預け、水分を建物内に持ちこませないようにしている。
ホテル時代には玄関脇にクロークやフロント、売店があり、今もその名残が見える。かつてのラウンジは、現在は教務室として使われている。

甲子園ホテルの林支配人は、帝国ホテルに勤務していた時代に火災を経験している。だから、ホテルの建設にあたって、火災に強い設計にすることはもちろん、建物の意匠の一つに水のモチーフを使うなど火災を遠ざける「願い」も建物に封じ込めたのではないか。屋根部分や室内の暖炉の周囲に水滴や水玉のモチーフが見えるのは、火災から建物を守りたいという願いを表しているように見える。

南の庭園に面したメインロビーの天井は高く、いかにも富裕層向けのリッチな空間だ。館内のブラケットやシャンデリアなどの照明は、シェル(貝殻)のデザインを組みあわせたデザインで統一させている。ホテル時代から暖房や給湯設備はあったが、冷房設備はなかった。南北の開口部から、海からの風、山からの風を通してきたのだろう。
甲子園会館の1階西側は元バンケットルームで、広さは88坪。壁側には2間ピッチの柱が12本あり、壁のレリーフや市松格子の光天井、竣工当時から残っている窓ガラスがなんとも美しい。1936(昭和11)年には大阪タイガース(現・阪神タイガース)の激励会が行われ、「球団歌の『六甲おろし』が初めて披露されたのも、ここでしたよ」とタイガースのお膝元だけあって、職員たちが胸を張る。
現在、この西ホールは、年間に70講座が開かれ、のべ1,200人が参加している常設の生涯学習機関「オープンカレッジ」として使用するほか、コンサートが行われることもある。多くの人の楽しそうな交流の様子や天井の高い空間に響く音楽は、かつてここが社交場であったことを思い出させる。同大学とトルコの大学との交流が縁で、この西ホールで国際学会も開かれた。

ホテルのメインバーだった部屋の床には、釉薬をかけてさまざまな色に焼かれた当時のタイルが残っている。「TAIZAN」とあるのは、大正から昭和初期にかけて名建材を世に送り出した、京都の泰山製陶所のタイルだと見られている。

1階西側にあるバンケットルームの市松格子の光天井は実に美しい(上左)。メインバーだった部屋の床には、泰山製陶所のタイルが残っている(下左)。館内の照明はシェル型のデザインを組み合わせて統一されている(右、下中)1階西側にあるバンケットルームの市松格子の光天井は実に美しい(上左)。メインバーだった部屋の床には、泰山製陶所のタイルが残っている(下左)。館内の照明はシェル型のデザインを組み合わせて統一されている(右、下中)

打出の小槌や大黒天など和のモチーフが建築に融合

元はメインダイニングとして使われていた甲子園会館1階の東ホールは、建築学科の学生のための建築スタジオに変わった。シェル型のシャンデリアが照らすスタジオには、1人1台、畳1帖サイズの製図机と、インターネットに接続した専用パソコンが並んでいる。ここで勉強をしていた学生に声をかけると、「こんな美しい空間で学べるなんてうれしい。入学前から楽しみにしていました」と誇らしそうだった。
ホテル時代には、ここの地下部分に食品などを置くバックヤードや従業員の部屋があったため、建築スタジオの入り口の床にガラスブロックをはめ込み、地下階に光がはいる設計になっている。

甲子園会館は、日本に数少ないライト式建築でありながら、外装や内装のあちこちに和のデザインや意匠が使われ、日本の伝統美を生かしていることも大きな特徴だ。
その代表的なモチーフの一つが「打出の小槌」だ。1階のホール近くに置かれている、石製の泉水(水鉢)は、ホテル時代からある防火水槽であると同時に、美しいオブジェでもある。この水鉢の周りにも打出の小槌が描かれ、冬至には、差し込む光が打出の小槌にあたるように設計されている。その計算し尽くされた細やかな意匠には、感動を覚える。
建物の外壁にも、ホールの壁にも、打出の小槌のモチーフやオーナメントがあったり、建物の屋上階に大黒様が鎮座するニッチがあったりする。甲子園会館は、フランク・ロイド・ライトの思想に裏打ちされた洋式建築に、日本の思想や「おめでたい和の意匠」が融合した形ともいえる。

90年、オープンカレッジや生活美学研究所が開設されて以来、甲子園会館は生涯学習や研究の場として使われてきた。2006年に生活環境学部建築学科が開設されると、毎年、建築学科に入学する40人の新入生がここで学ぶようになった。「生きた教材」の中で建築学の勉強を始められるとは、なんとも贅沢でうらやましい。
敷地内でコミュニティイベントが開かれることもあるし、11月にはライトアップして、紅葉と建築の美しい風景を近隣の人に楽しんでもらう。時には映画やドラマで撮影に使われる。
築90年近い建築が放出するモダンで優美な息吹とともに、この建築を譲り受けて以来、大学の「地元で使用しながら保存する」という覚悟もまた、脈々と生き続けている。

メインダイニングは、建築スタジオとして生まれ変わった(上右)。その下の階に光を通すため、スタジオ入り口の床にガラスブロックがはめ込まれ、採光口となっている(左)。暖炉の周囲に水滴のモチーフが見えるのは防火の願いがこめられているため(下中)。水鉢には、打出の小槌のモチーフがはめ込まれている(下右)。打出の小槌は建物内外のあちこちに見られるメインダイニングは、建築スタジオとして生まれ変わった(上右)。その下の階に光を通すため、スタジオ入り口の床にガラスブロックがはめ込まれ、採光口となっている(左)。暖炉の周囲に水滴のモチーフが見えるのは防火の願いがこめられているため(下中)。水鉢には、打出の小槌のモチーフがはめ込まれている(下右)。打出の小槌は建物内外のあちこちに見られる

2018年 10月22日 11時05分