自由学園を核とする住宅地

当然行っていないといけないのに、なかなか行かずに済ましてきてしまった街、というのが私にもいくつかある。ここ数年でほぼそれらも行き尽くしたはずなのだが、唯一と言っていいほど残っていたのが自由学園のある学園町であった。
学園町は、東京都東久留米市にある。中央線で言えば武蔵境駅の北側だから、そんなに遠くない。なのに、東久留米と聞いただけで随分遠い気がして今まで行きそびれていた。

学園町の東隣は西東京市ひばりが丘であり、設立したばかりの日本住宅公団(現UR)がつくった有名なひばりヶ丘団地がある。どう有名かというとこの団地は昭和の皇太子・皇太子妃、つまり平成の天皇皇后両陛下が若き日に訪れた団地だからだ。団地のバルコニーで外を見渡すお二人の写真が残っている。そのとき美智子様の触れた手すりは、団地が全て建て替えられた今も保存されているという。今は建て替えも終わり、民間のマンションや戸建て住宅地もできている。かつてのテラスハウスが一棟だけ残っており、カフェやコミュニティスペースとして使われているのがうれしい。

かつてのひばりヶ丘団地のテラスハウスを残したコミュニティスペースかつてのひばりヶ丘団地のテラスハウスを残したコミュニティスペース

自由学園の誕生

さて学園町である。学園町は雑誌『婦人之友』を創刊した羽仁吉一・もと子夫妻が1925年に開発した町である。『婦人之友』(改題前は『家庭之友』、その前身として『家庭女学講義』があった)は、もと子のキリスト教に基づく理想主義的な思想を展開する雑誌であり、夫妻が女性の自由と権利の拡大と新しい生き方を提案するためにつくったものであった。
夫妻は、単に雑誌による女性の啓蒙だけでは飽きたらず、自分たちの理想の教育を実践する場所として学校を創設した。それが自由学園である。西池袋にある自由学園がその発祥の地。その学園が移転したのが東久留米の自由学園である。

1913年、夫妻は西池袋に2000坪の土地を借り、40坪ほどの住宅兼仕事場をつくった。残りの土地にはテニスコートをつくり、1916年からは『婦人之友』の後に創刊した『子供の友』や『新少女』の読者の子供たちを集めて運動会を開催したりした。

1921年には自らの理想の教育を実践する場として自由学園の創設を決意。校舎の設計をフランク・ロイド・ライトに依頼した。ライトの弟子である遠藤新ともと子が、ある教会で知り合ったのがきっかけである。もと子は遠藤に設計を依頼したのだが、遠藤はライトを紹介し、ライトは夫妻の教育理念に共鳴して、設計を引き受けたのだという。こうして 1921年4月には教室1部屋が完成し入学式が開かれた。

西池袋の明日館と同様のデザインの東久留米・自由学園本館。他にも遠藤新設計の建物が並ぶ西池袋の明日館と同様のデザインの東久留米・自由学園本館。他にも遠藤新設計の建物が並ぶ

郊外に新天地を求める

自由学園はまさに田園の中の学園だ自由学園はまさに田園の中の学園だ

自由学園は評判を呼び、24年からは屋外学習の場として郊外に農場や運動場にふさわしい場所を探し始めた。夫妻は「教育の場は神のつくりたまいし田園に限ると前々からかたく信じていた」からであった。
こうして武蔵野鉄道の斡旋によって現在の学園町と校地にあたるおよそ10万坪を購入する。ちょうどひばりヶ丘駅(当初は「田無町駅」)も開設されていた。

自由学園による住宅地開発は成城学園や玉川学園と同じである。まず土地を買い、その土地を学園自身が住宅地として開発分譲し、その利益を学園の整備に当てるのである。そのため住宅地のほうも自由学園の教育理念にふさわしいものになるように設計される。何でもいいというわけにはいかない。区画は最低250坪であり、住宅は遠藤新らの設計。ひろびろとした田園郊外がつくられたのだ。当初の名称は「南沢学園町」という。

第1期の分譲は1925年に完売。36年に最終分譲が完了した。最初の購入者74名のうち、官吏・政治家が12名、医師8名、学者・教育者8名、軍人5名など。
また、博士という肩書きが10名、東大卒が12名、慶応卒が4名、青山学院、同志社、九州大学卒が各2名、三井物産社員が4名だったという。高学歴であり、かつ自由学園の理想に共鳴した人が多かったことが推察される。

建築家・遠藤新らの作品が並んだ

ライト風の家などデザインの良い家が多いライト風の家などデザインの良い家が多い

最初に住宅を建てたのは青山学院大学教授であり、その娘が自由学園の小学校で最初の入学生の一人となった。30年に完成した小学校の設計はもちろん遠藤新である。

また29年には羽仁夫妻も遠藤新設計の新居を構えた。その家は自由学園内に現存している。遠藤新設計の邸宅は他にも多数あり、もと子の長女の婿であるカリスマ的な歴史学者・羽仁五郎邸も遠藤の作品だった。他には建築家の土浦亀城が設計した邸宅もあったという。

さらに面白いのは、遠藤新設計の田中邸では、一時期、羽仁夫妻も含む近所の数家族が共同炊事をしていたというのである。これにより一女性当たりの家事労働が軽減され、女性の社会進出が促進されるという目的であったらしい。共同炊事は当時のヨーロッパの共同住宅でもしばしば見られたものなので、そこから輸入された考え方ではないかと思われる。

自由学園の思想がしみ出したような住宅地

今この学園町に行くと、遠藤新らの設計した家が残っているのかどうかは専門家でないとわかりそうもない。ほとんどの家はすでに建て替えられ、あるいは敷地が分割されている。

それでも建て替えられたと思しき多くの家ですら、遠藤新やライトへのオマージュを感じさせるデザインになっており、四角いプレハブ住宅は非常に少ないし、かといってニューイングランド風もあれば南欧風もあるという混乱した住宅地にはあまりなっていない。敷地分割が進んだとはいえ、庭が広い家もまだ少なくないのである。

また自由学園は、芸術教育や自然教育に力を入れており、中学生は最初に自分の座るイスをつくるし、畑で野菜をつくったり、養豚をしてその肉を食べたりもする。女子は自分で自分の服をつくる授業もある。
そのためだろうが、学園町には、自宅で絵画、音楽の教室を開く家も多いし、庭にたくさんの草花を植えた家も多い。自由学園出身者がそのまま住んでいるケースも多いらしく、そのことが街並み、家並みを守ることにつながっているのだろう。

「守る」というと閉鎖的に聞こえるかも知れないが、そんなことはない。石垣やブロックで敷地を囲む家が少なく、そのため、豊かな庭が歩いていても楽しめるのだ。そのへんが、どことなくおっとりした雰囲気である。自由学園の雰囲気がそのまま街にしみ出しているようだ。

30年ほど前なら戦前に建てられた家がまだたくさん残っていただろう。その頃に見に来なかったのが惜しまれる。

■参考文献
内田青蔵「ひばりヶ丘南澤学園町/田無」(片木篤、角野幸博、藤谷陽悦 編『近代日本の郊外住宅地 』鹿島出版会、2000)

緑が豊かな住宅地で、芸術系の教室を開く家も多い緑が豊かな住宅地で、芸術系の教室を開く家も多い

2018年 08月24日 11時05分