日本の転換点に立ち会ってきたまち

京都市南東部に位置し、宇治市や久御山町に隣接する伏見区。JR、近鉄、京阪電車と、3つの鉄道が通っており、京都駅からであれば、伏見の繁華街・大手筋商店街の最寄り駅まで、いずれも十数分(JR京都駅~桃山駅、近鉄京都駅~桃山御陵駅)、京都市中心部の祇園や四条通へは、京阪電車一本で行けるという便利なロケーションである。

伏見市など9つの市町村と京都市とが合併して、京都市伏見区が生まれたのは、1931年。その後も周辺町の編入などが行われ、1957年に現在の区域となった。そのせいなのか、あるいは、冒頭述べた便利なアクセスの割に少し距離を感じるのか、いまだに、京都市中心部へ向かうことを「京都へ行く」と言う人がいる、というのは時折聞く話だ。

伏見という地名は、歴史の舞台に何度となく登場する。戦国時代、関ケ原の戦い直前、武士たちが駆け引きを繰り広げたのは伏見であったし、幕末、坂本龍馬がお龍の機転で難を逃れたという寺田屋も伏見にある。そして鳥羽伏見の戦いの場にもなった。現在、商店街が賑わい、観光客が多く訪れる伏見が、日本の歴史上、重要な役割を果たしてきたのだ。

それからもうひとつ、この地を説明するのに欠かせないのが「酒造り」である。伏見は、兵庫県の灘と並ぶ日本二大酒どころの一翼を担っている。京都盆地には、豊かな地下水があり、その水をいかして湯葉や豆腐といった豊かな食文化や産業が育まれてきた。もちろん酒造りもその美味しい水を利用するからこそできる。だが、伏見の酒造り、そして、まちの発展には、水に加え、時代の変遷に寄り添って、工夫を凝らした先人たちの知恵があった。伏見に本社を置く酒造会社・月桂冠株式会社で話を聞いた。

お土産処「伏見夢百衆」に並んだ伏見の酒お土産処「伏見夢百衆」に並んだ伏見の酒

豊臣秀吉に見いだされ表舞台へ

豊臣秀吉時代の伏見城下(模写)[月桂冠提供]豊臣秀吉時代の伏見城下(模写)[月桂冠提供]

京都の酒の歴史は平安京時代に遡る。「京都では、8世紀には『造酒司(みきのつかさ)』という役所が置かれて、高度な酒造りが行われていました。そして鎌倉、室町と酒の産業が発展していったと言われています」(月桂冠総務部広報課長の田中伸治さん)。1425年、1426年の酒屋名簿によると、京の洛中・洛外には342軒の酒屋があり、酒商いが発展していったという。

現在の伏見の原型を作ったのは天下人・豊臣秀吉。大阪に巨大な城をもちながら、晩年、伏見に城を築き、城下町を整備した。城は一度地震で倒壊するも、再び築城。それだけ伏見は重要視されていたのだろう。城下町には大名屋敷が建ち、人が増え、商いもさかんになった。このころから伏見は酒どころとして知られるようになっていたとか。

秀吉亡き後、伏見城は、石田三成の西軍に徳川方の城として攻められ、炎上。だが徳川家康によってまたしても伏見の城はよみがえった。「街路や水路は秀吉時代に作られたものと、ほぼ変わりません。徳川家康、秀忠、家光と、三代将軍までが征夷大将軍の宣下を伏見城で受けるなど、伏見城は天下を動かす、〝首都〟のような役割をしばらく果たしました」(田中さん)。

城がなくなっても、大切なものが残った

徳川の世となった1637年、月桂冠が伏見で酒造を始める(※当時は「笠置屋」。1905年から「月桂冠」の酒銘が使われるようになった)。同社によると、江戸時代初期の1657年、伏見の酒屋名簿には83の酒造家の名前があった。しかし、酒造りは順調とは言えなかったようで、1785年には28軒まで減少。まだ科学が発達していない時代、お酒が菌で腐ってしまったり、火を使う作業が多いために火災が多く発生したり。酒造りには困難が伴った。さらに打撃となったのは、幕末の混乱、鳥羽伏見の戦い(1868年)だったと言っていいだろう。酒蔵や多くの民家が戦に巻き込まれた。1657年の名簿にあった伏見の酒屋のうち、この戦を越えて継続できたのは現在の月桂冠を含めて2軒だけだった。

だが、この危機的状況に、酒造りに携わる人々をはじめ、伏見の町人たちが、力強く立ち上がった。
「被災した蔵元の造りを分担して助け合ったり、他の産地からの酒造株の買い取りなどで生産を維持したり。そんなことも残った酒造業者で行ったそうです。みんなで酒造業を盛り上げようとしたのでしょう。同業者の団結が強いですよね」。明治以降、伏見の酒は全国でその名を知られるようになる。

濠川から見た月桂冠(1909年撮影)[月桂冠提供]濠川から見た月桂冠(1909年撮影)[月桂冠提供]

十石舟の復活がもたらしたもの

こうして荒波をいくつも乗り越えてきた伏見の姿は、現在もまちを歩けば感じることができる。伏見城の外堀であった濠川(ほりかわ)沿いで揺れる柳、酒蔵の白壁や黒くなった杉板の壁。ときには、ふんわりと酒の香りも漂ってくる。
鳥羽伏見の戦いで奇跡的に戦火を免れた大倉家本宅(1828年築、私邸)、伏見の酒造りを学ぶことができる「月桂冠大倉記念館」(1909年築)、月桂冠旧本社(1919年築)をはじめ、伏見の酒造業を象徴する建物が現在も残り、その一部は飲食店などとしても利用されている。また、新しい建物もそんな街並みに似合う雰囲気のものが多い印象だ。

「伏見は東西3キロ、南北4キロの狭いエリアで、現在も二十数軒の酒蔵が操業しています。私たちだけでなく、伏見にある7つの商店街によるイベントや、NPO法人伏見観光協会による十石舟の運航など、いろいろな事業が実施されています」

江戸時代、物資の運搬に使われていた十石舟は、伏見の運河を巡る観光船として復刻されて運航している。舟の上から酒蔵を眺めれば、江戸時代の伏見の姿がよりイメージできるだろう。「十石舟が運航している川は、以前は汚れていて、雑草もすごかったんです。月桂冠は1987年から伏見城の外濠をきれいにするクリーンアップ作戦を実施してきましたが、行政による遊歩道整備や地元団体による植樹、そして舟の運航も始まって、ゴミは減ったように思います」。江戸時代の十石舟が、まちを愛する心を思い起こさせてくれたようだ。

秀吉に見いだされて始まり、時代の流れを利用してきた伏見の歴史。きっとこれからも時代に合ったアイデアで、再生を続けていくだろう。

十石舟と月桂冠の酒蔵[月桂冠提供]十石舟と月桂冠の酒蔵[月桂冠提供]

2018年 07月27日 11時05分