大火を免れ、幸運にも残った豪邸

青森空港から車で約40分。北津軽の五所川原市金木町(かなぎまち)に『斜陽館』という明治期の入母屋づくりの建造物が残る。名前から察しのつく人も多いだろうが、この館は「人間失格」や「走れメロス」などの作品で知られる文豪・太宰治の生家である。父・津島源右衛門が建てた旧津島邸だ。ただしこの建物、単に文豪の生家だからと残されているわけではない。建物自体に価値があるのだ。

国の重要文化財にも指定されたこの建造物は、青森ヒバやケヤキなど今では手に入らない立派な木材を構造材に用い、欄間や蔵の扉など随所に職人の技が光る。しかも、室内に入れば、純和風の外見からは想像もつかない趣向を凝らした洋間があるなど、明治の近代和風建築を代表する姿を残す。

「――父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである」(太宰 治『苦悩の年鑑』より)。太宰自身はそんな言葉を残しているが、これは、正しい評価とはいえないだろう。彼の中にあった津島本家との確執がそう書かせたのかもしれない。

かつてこの近くには、同じような煉瓦や洋間を配した近代和風建築の家が建っていたというが、それらは大火や戦火で消失している。この「斜陽館」も歴史の波にのまれていても不思議はなかった。

いくつもの幸運が重なり現代に残る「斜陽館」。今回は建造物的価値にも焦点を当てながら、この建物を紹介しよう。

外観だけを見ると、純和風の建物のように見える「斜陽館」だが、中は洋間や階段ホールなどモダンな空間が出現し意表をつかれる外観だけを見ると、純和風の建物のように見える「斜陽館」だが、中は洋間や階段ホールなどモダンな空間が出現し意表をつかれる

津島邸を中心に街が形成されたほど

太宰治の父、津島源右衛門が明治40(1907)年に店舗を兼ねて建てた豪邸が後の「斜陽館」である。津島家は県内有数の大地主であり、源右衛門は貴族院議員を務める一方で「金木銀行」や「金木電燈株式会社」を経営する企業家でもあった。道路に面した部屋には金融業の店舗としての窓口や金庫なども残る。

斜陽館の運営を委託されている特定非営利活動法人かなぎ元気倶楽部 今 幸樹氏によれば、「金木はこの津島邸を中心に、街が形成されている」という。「金融業を営んでいた津島家を守るように、近くに警察の派出所ができ、商店などが形成されています。街の中心がこの津島家であったと聞いています」(今氏)。津島家が当時どれほどの実力者であったかが窺えるエピソードである。

源右衛門は、津島邸の設計を弘前の堀江佐吉に依頼しているが、堀江といえば、のちに国の重要文化財となる弘前「旧第五十九銀行本店本館」や「旧弘前市立図書館」なども手掛けた洋風建築の名棟梁だ。建築費は当時の金額で4万円(米7000俵分)が定説。今でいえば、7~8億円といったところだろうか。

太宰治こと本名津島修治は、この家が建てられた2年後の明治42(1909)年6月19日に生まれた。現在の斜陽館の1階には、今でも母・夕子(たね)が修治を産んだ部屋が残されている。たねは男女合わせて11人の子どもを産みながらも病弱であったため、修治は叔母きゑに預けられた。幼少期にその叔母付きの使用人タケに面倒を見てもらいながら修治は旧青森中学に入学する13歳までこの家で過ごしている。

あまりにも広い土間。少し分かりにくいが左手のガラス戸、今ではみることのできない手作りだからこそのガラスのゆがみがなんとも味がある(左上)1階は店舗以外は和の趣(右上)。釘隠しや欄間の細工が細かなこと(左下)。後述するが、床板の木目まで趣向を凝らしている。こちらはアオダモの木目(右下)あまりにも広い土間。少し分かりにくいが左手のガラス戸、今ではみることのできない手作りだからこそのガラスのゆがみがなんとも味がある(左上)1階は店舗以外は和の趣(右上)。釘隠しや欄間の細工が細かなこと(左下)。後述するが、床板の木目まで趣向を凝らしている。こちらはアオダモの木目(右下)

まさに『斜陽』の運命をたどった津島邸

建物に入って真っ先に感じるのは、この家の土間の異様な広さだ。津島家所有の田畑はその頃200町歩以上あったといい、小作人が納める米をこの土間で検閲したという。

「金融業の店舗でもありましたから、この入り口の土間には、金を借りたい人、小作で米を納めにきた人が絶えず頭を下げていたと言います。太宰はその光景を見ることが辛かったと後年語っています」(今氏)。
虐げられた労働者の現実を描いたプロレタリア文学に傾倒する太宰だけに、この実家の光景は自身の中に矛盾をはらむものであったに違いない。だからこそ、前出したような「大きなだけ」というのがこの家の評価になるのだろう。

文学への傾倒、そして女性関係の問題などをおこした太宰はその後、21歳の時に長兄から分家除籍されることになる。それからしばらく、彼はこの家の敷居をまたいでいない。10年後の昭和16(1941)年、母・タ子の病気見舞いをきっかけに単身帰省が許され、母を気遣う兄弟との和合が果たされる。翌17(1942)年、母・タ子が重体に陥ったため、太宰は妻子を伴ってこの家に帰省した。金木の生家にたどり着き、そのまま終戦を迎えることとなる。結果、翌年の11月まで金木で疎開生活を送ることになった。その後、太宰の人生は昭和23(1948)年、有名な玉川上水での入水自殺で幕を閉じる。

一方、この家の行く末は、太宰が描いた『斜陽』そのままだ。戦後の農地改革により、200町歩以上の田畑を失い、資金繰りに窮した長兄により昭和23(1948)年家屋敷を角田氏に譲渡された。角田氏は昭和25(1950)年に旅館を開業。太宰治の生家に宿泊できるとあって、人気を博したという。その後、所有者が一度代わりながら旅館を続けてきたが、時代の流れとともに経営は悪化し、平成8(1996)年、金木町が建物を所有することになった。営業用に増改築された部分を太宰が少年時代に住んでいた頃に戻す修復と老朽化への対策工事が進められ、平成10(1998)年に金木町太宰治記念館「斜陽館」として一般公開されるようになったのだ。

「一時は旅館として営業をしていたこの建物ですが、幸いにも大幅な改修は加えられていません。建物自体がこの町の誇りであり、宝という意識があったからだと思います」五所川原市教育委員会の主幹・文化係長 榊原滋高氏はそう語る。

2階の母の居室には襖漢詩が書かれている。ここに「斜陽」の文字が見える(左上)。とにかくこの邸宅は細工が細かい。2階の洋間の前の廊下には外からは見えないように洋風の欄干がある。その先の和室になるとなくなるように細部までこだわっている(右上)。階段まわりには、洋風だが木組みの細工が美しい(左右下)2階の母の居室には襖漢詩が書かれている。ここに「斜陽」の文字が見える(左上)。とにかくこの邸宅は細工が細かい。2階の洋間の前の廊下には外からは見えないように洋風の欄干がある。その先の和室になるとなくなるように細部までこだわっている(右上)。階段まわりには、洋風だが木組みの細工が美しい(左右下)

ロココ調の階段を上がると一気にモダンに

この家屋の広さや豪華さをなかなか表現することができない。無理を承知で書いてみれば、1階には11室と3つの蔵があり、2階にも洋間を含めて8室がある。その中に和と洋の異なる趣が見事に表現されているのだ。

基本的には和室が多く、天井をみれば、もちろん見事な梁があり、廊下の木目すら美しい模様を感じさせる。事実、今氏は「北側の縁側の床には、北海道のアオダモが用いられていて、個人的にこの家の中で一番美しい木目」と感じているそうだ。さらに座敷や仏間の欄間の細工の細やかさといったら、素人目にもはっきりとわかるほど。そして仏間に鎮座するのはこれまた見事な金の仏壇である。太宰が兄弟たちと和解し、やっとこの家の敷居をまたいだ際に、真っ先に手を合わせたというのがこの仏壇。この家の売却と共に当然津島家の人々とともに場所を移したのだが、「斜陽館」の開館にあたり、津島家から寄贈されたという。

2階の和室も見どころが多い。太宰の母、たねの部屋の欄間は小粋な雪の結晶をあしらった細工が施され、襖には漢詩が残る。ここに有名な「斜陽」の言葉があったことが、この建物が「斜陽館」と呼ばれる所以だ。太宰が後に自書に『斜陽』と名付けたのは、この襖の書が頭にあったのだろうか? 確固たることは分からないが、幼い頃から太宰がこの書を見てきたことは紛れもない事実である。

そして、これだけ見事な和風建築の中に洋のテイストが組み込まれているのがこの家のもう1つの魅力だ。1階の通り沿いに金融業の執務室として構えた店舗は、洋風の空間。現在は薄いブルーの壁面に当時の重厚な金庫が眠る。2階に上がる階段もロココ調で、欄干に描かれた木組みの文様がまた美しい。鹿鳴館というほどの広さは当然ないが、上階から洋装に身を包んだ貴婦人が下りてきそうな雰囲気だ。
それもそのはず、この先にある洋間を設計者の堀江佐吉は鹿鳴館をイメージしてつくったという。当然、階段ホールも鹿鳴館を意識したことだろう。階段を上りきったすぐの洋間も見事で壁紙は張替えられているものの、天井とソファーセットは当時のまま。小説『津軽』では、太宰が中学時代このソファーに寝そべりながらサイダーをがぶ飲みした思い出がつづられている。

「洋間の窓枠なども当時のままです。上下にスライドさせる窓は力を加えなくても楽に上下できるようにおもりを使った工夫もされています。細部にわたって考えられた設計です」(今氏)。

1階の銀行の店舗。洋風のしつらえで壁には備え付けの金庫がある(右上)。この部屋の前に存在感を持って登場するのがロココ調の階段。ここを上った正面が洋間となり2階は一気にモダンな雰囲気に(右下)。2階の洋間。室内の広さはさほどないのだが、天井が高くそのため広く贅沢な空間に感じられる(左)1階の銀行の店舗。洋風のしつらえで壁には備え付けの金庫がある(右上)。この部屋の前に存在感を持って登場するのがロココ調の階段。ここを上った正面が洋間となり2階は一気にモダンな雰囲気に(右下)。2階の洋間。室内の広さはさほどないのだが、天井が高くそのため広く贅沢な空間に感じられる(左)

スマホをかざすと、そこには太宰の姿

このように、非常に貴重な建造物だが、なかなかこれを維持していくことには苦労も多い。昨今のインバウンドブームで、青森市や弘前市までは観光客も足を運ぶが、五所川原市の金木まではなかなかそう簡単には足を運んでもらえないという。

そんな中「斜陽館」では、過去の姿を残すだけでなく、さまざまな工夫にも余念がない。例えば、AR(拡張現実)をつかって、建物内のポイントでスマホをかざすと太宰の姿がそこに映し出されるようなしかけも導入。また、地域の誇りとして現存させることができたその意思を次世代につなぐことにも力を入れているという。

「地元の小学校などでは、斜陽館への見学を学習の一環としてカリキュラムに組み込んでいますし、太宰治の作品を課題にした読書感想文のコンクールも実施しています。それに、当時の生活や暮らしを肌で感じることができる建物が残っていることは大きな財産。今後は屋根や庭の手入れなど、修復作業が常に発生する苦労はありますが、まちの宝としてつないでいきたいと思います」(榊原氏)

確かに、なぜこれほどまでに広い土間が必要なのか? 小作人が運んできた米俵を確認するためにその場が存在していたこと。現在の家とはまったく異なるつくりを目にすることは、書籍などで筆舌を尽くすよりも多くを物語る。

まちには「斜陽館」以外にも、文化財級の建物がほかにも残っているという。津島家と親交の深かった民家が残り、そこでは今後、宿泊もできるように郷土料理の提供なども視野に入れているそうだ。

これだけの規模で当時の姿を残す建造物というのは、単にそこにものが存在しているだけではない。そのつくりやその細工・調度、さまざまなものがその時代の人の生活、時代の息吹を語る。文字の記号でとらえがちな「歴史」を追体験させてくれる貴重な存在であることを再確認させられた。

向かって左から、お話を伺った五所川原市教育委員会 社会教育課 文化係 主幹・文化係長 榊原 滋高氏。特定非営利活動法人 かなぎ元気倶楽部 部長の今 幸樹氏。(写真右)は、ARにより出現した太宰 治。もちろん隣に並べば時代を超えて同じフレームの中におさまることが可能だ向かって左から、お話を伺った五所川原市教育委員会 社会教育課 文化係 主幹・文化係長 榊原 滋高氏。特定非営利活動法人 かなぎ元気倶楽部 部長の今 幸樹氏。(写真右)は、ARにより出現した太宰 治。もちろん隣に並べば時代を超えて同じフレームの中におさまることが可能だ

2019年 09月12日 18時14分