医者としても蘭学者としても尊敬された緒方洪庵

江戸時代、200年以上にわたり鎖国していた日本において、貿易を許可されていたのは、清とオランダだけ。オランダを通じて輸入されるヨーロッパの学術や文化、技術は「蘭学」と呼ばれ、日本人にとって貴重な知識であった。

幕末に活躍した蘭学者に緒方洪庵がいる。彼は蘭学の第一人者であり、蘭方医(西洋医学の医者)としても仰がれる存在。ドイツ人医師フーフェラントの内科学『扶氏経験遺訓』を翻訳するなど、大きな功績を残している。幕末にコレラが猛威を奮った際も、予防に尽力したのが洪庵だ。かかって3日で死んでしまうからと「3日コロリ」と呼ばれるほど恐れられ、江戸だけでも10万人の死者を出したコレラの対処法を、『虎狼痢治準(ころうりちじゅん)』の刊行によって広めたのだ。
その人柄は温厚で、怒るときも決して声を荒げず、穏やかに諭したという。学生たちは「洪庵先生はほほえんだときこそ怖い」と噂したとか。

また、ベルリン大学教授フーフェラントの内科書を翻訳した『扶氏経験遺訓』は緒方洪庵の人となりがにじみでており、臨床の知見をまとめたものとして名高い。特に、『医戒の大要』の抄訳である『扶氏医戒之略』は、医学者たちの間でよく知られている。12ヶ条からなっており「医の世に生活するハ人の為のミ、をのれかためにあらすといふことを其業の本旨とす」から始まる格調高いものだ。「病者ニ対してハ唯病者を視るへし、貴賎貧富を顧みることなかれ」「同業の人に対してハ之を敬し、之を愛すへし」などとあり、洪庵の高潔な人柄が偲ばれる。

緒方洪庵が北浜に開いた適塾緒方洪庵が北浜に開いた適塾

学問を志す若者が殺到した適塾

そんな緒方洪庵が、学生たちの学ぶ場として開いたのが適塾だ。天保9(1838)年に開塾したのち、文久2(1862)年までは洪庵自身が学生たちの教育に多大な勢力を注いだ。洪庵が江戸幕府から奥医師と西洋医学所の頭取を命じられ、江戸に召し出されると、義弟や子息、門下生たちが塾の経営を助け、さらには分塾までされている。

塾生たちは青森と沖縄を除く全国各地から集まっており、入塾者の『姓名録』によれば総勢637名にも及ぶ。出身地を見ると、大阪からの入塾者は19名と意外に少ない。関西のほかの都道府県を見ても京都府は26名、兵庫県は33名。入塾者がもっとも多く集まってきたのは山口県からで、56名にもなる。苦学生も多かったというから、この距離を旅するのは大変だったろう。長州藩はオランダ船が寄港する長崎に近く、先進の学問を学びたいと考える若者が多かったのかもしれない。
そして塾からは福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、近代の日本を支えた政治家や学者が数多く輩出された。

しかし明治時代になると、政府による教育制度の整備とともに役目を全うし、その教育は、大阪医学校、大阪府立医科大学、大阪大学へ引き継がれていく。特に適塾出身者らを中心として創立された大阪医学校は、変遷を経たのち、大阪帝国大学医学部、そして大阪大学医学部へと発展するのだ。

塾生たちがオランダ語の会読(読み合わせ)をした教室塾生たちがオランダ語の会読(読み合わせ)をした教室

適塾記念会と管理運営委員会の協力により解体修復される

客座敷から見た中庭。その向こうに見えるのが教室だ客座敷から見た中庭。その向こうに見えるのが教室だ

当初は大阪の瓦町で塾を開いていたが、塾生が増えたため、弘化3(1845)年に現在の北浜へ移転。
建坪125坪のこの建物は、大阪の両替商から購入したものとされているが、1940年に大阪府の史跡に指定、1941年に国の「史跡緒方洪庵旧宅及塾」に指定される。そこで、適塾を保存するために、緒方家は大阪帝国大学へ寄付することにした。昭和27(1952)年には、今村荒男大阪大学総長が適塾記念会を設立。大学内外から会員を集め、大阪近代文化解明のための活動を始めた。

適塾は大阪大空襲からも焼け残り、1964年には重要文化財となるが、このころから建物の老朽化が顕著となってきた。そこで1972年に大阪大学適塾管理運営委員会が設置され、適塾の保全・管理、適塾精神の継承と発展に全学を上げて取り組んだという。そして適塾記念会と管理運営委員会が協力して、建物保存のために取り組んだ結果、文部省文化庁により解体修復工事をほどこされることになった。
工事は昭和51(1976)年から始まり、5年後の昭和55(1980)年に完成、この年の5月から一般公開されている。

適塾は我が国唯一の蘭学塾の遺構であり、江戸末期の船場町屋遺構としても注目されている。建物が建築されたのは200年以上前、塾生たちがここで学んでいたのも約150年前までだが、ビル群の中にありながら町屋の静かな雰囲気そのままで、今でも高い志を持った学生たちの息吹を感じるほどだ。

学問に励む学生たちを偲ばせる内部

住み込みの学生たちが寝起きしていた28畳の大部屋。一人に畳一枚が割り当てられ、それぞれその中に机を置いて勉強していたらしい住み込みの学生たちが寝起きしていた28畳の大部屋。一人に畳一枚が割り当てられ、それぞれその中に机を置いて勉強していたらしい

入り口から玄関部屋を通り抜けると、塾生たちが学んだ6畳の教室がある。学力に応じて約10クラスに分けられ、それぞれ10~15名が学んでいた。

教室の奥には中庭があり、客座敷や応接間へと廊下が続いている。2階へ上がると女中部屋があり、その奥に「ヅーフ部屋」と呼ばれる6畳の部屋がある。ここには大変貴重な蘭和辞書の「ヅーフ辞書」が置かれており、学生たちが詰めかけ、奪い合うように使用していたという。当時、オランダ語文法のテキストとして使用されていたのは『ガランマチスカ』と『セインタキス』という文典で、この二冊が理解できるまで、会読(読み合わせ)に参加できなかった。そして会読の予習時においても、他の入塾生に質問や相談することは許されなかったから、ひたすら自分で勉強しなくてはいけなかったのだ。それゆえか、夜を通してヅーフ部屋の明かりが消えることはなかったという。

その先にあるのは、住み込みの学生たちが寝起きしていた28畳の大部屋。一人に畳一枚が割り当てられ、それぞれその中に机を置いて勉強していたらしい。このとき、成績の良い者から畳を選べたので、明るい場所、出入りのしやすい場所から埋まっていったのだとか。

内助の功で洪庵を支えた八重

ふすまの下張りから発見された、八重の手紙。従来の良妻賢母のイメージよりたくましさが伝わってくる内容だふすまの下張りから発見された、八重の手紙。従来の良妻賢母のイメージよりたくましさが伝わってくる内容だ

さらに先般、洪庵の妻である八重の手紙が新たに発見された。
八重は適塾開塾の年に洪庵と結婚。その時洪庵は29歳、八重は17歳だったから、12歳もの年齢差がある。しかし9人の子供を育てながら洪庵を支え、塾生からは母のように慕われていたという。手紙は屏風の下張りから発見された。下張りとは骨組みの補強に使用された反故紙のことで、紙は日に焼けて茶ばんでいるが、線が細いながらもおおらかな八重の筆遣いが、はっきり残っている。

母のように慕う塾生たちの証言により、良妻賢母の鏡として知られてきた八重だが、発見された手紙からは、お茶目ながら、商才たくましい女性像が浮かび上がる。案外、適塾が繁栄したのは、八重のやりくりのうまさにあったのかもしれない。

近代日本を支えた政治家や学者を多く輩出した適塾。
便利な場所にありながら、のんびりした時間を過ごせる場所でもあるので、刺激を受けたい人にはぜひお薦めしたい。

2017年 07月03日 11時05分