坂本龍馬が愛した瀬戸内海の港町、鞆(とも)に残された歴史的建物

広島県福山市。JR『福山』駅から車で30分ほどの沼隈半島南端・鞆の浦に、万葉の時代から海運の要衝として栄えた港町『鞆町(ともちょう)』がある。瀬戸内海を往来する船舶が満潮と干潮の潮の流れを待つために停泊した“潮待ちの港・鞆港”では多くの旅人たちが交流し、その旅人たちによって持ち込まれた華やかな文化が鞆のまちに定着した。

かの坂本龍馬も、鞆のまちを愛した旅人の一人と言われている。龍馬の妻といえば「おりょう」の名前がお馴染みだが、実は龍馬は妻へ送った手紙の中で、おりょうに対してたびたび「鞆殿(ともどの)」と呼びかけていたことがわかっている。旅人たちを惹きつけてやまない裕福で華やかな鞆のまちの風景に、美しいおりょうの姿を重ねていたのかもしれない。

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そんな歴史ロマンを刻む鞆地区で、15年ほど前からまち並み保存活動を続けているのがNPO法人『鞆まちづくり工房』だ。前回のレポートでは「映画のロケのセットをつくるような建物修復を行うことは、“まち並み保存”ではなく、逆に“まち並み壊し”になる」と、代表理事の松居秀子さんが危惧している課題についてご紹介したが、今回のレポートでは実際に『鞆まちづくり工房』が着手した龍馬ゆかりの『御舟宿いろは(旧魚屋萬蔵宅)』の建物再生について話を聞いた。

▲現在町家旅館として活用されている『御舟宿いろは』は、鞆港のすぐそばにある。古くは『魚屋萬蔵宅』として、近年までは呉服店・洋品店として使われていた築200~300年と推定される古い建物だ。実は、ここは坂本龍馬ファンにとって“聖地”のひとつ。<br />慶応3(1867)年4月、海援隊が伊予国大洲藩から借用していた西洋船・いろは丸が紀州藩の軍艦・明光丸と衝突。鞆港に曳航する途中の宇治島沖で沈没した『いろは丸事件』が発生。その後、この場所で龍馬率いる海援隊と紀州藩との賠償交渉が行われ、「政治力と交渉術に長けた坂本龍馬」の名前が広く世に知られるきっかけとなった▲現在町家旅館として活用されている『御舟宿いろは』は、鞆港のすぐそばにある。古くは『魚屋萬蔵宅』として、近年までは呉服店・洋品店として使われていた築200~300年と推定される古い建物だ。実は、ここは坂本龍馬ファンにとって“聖地”のひとつ。
慶応3(1867)年4月、海援隊が伊予国大洲藩から借用していた西洋船・いろは丸が紀州藩の軍艦・明光丸と衝突。鞆港に曳航する途中の宇治島沖で沈没した『いろは丸事件』が発生。その後、この場所で龍馬率いる海援隊と紀州藩との賠償交渉が行われ、「政治力と交渉術に長けた坂本龍馬」の名前が広く世に知られるきっかけとなった

1400万円で売りに出された張り紙、『いろは丸事件』談判の地が空き家に!

「鞆の浦は、2017年に重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定されましたが、この重伝建地区内だけでも(東京大学の調査で)確認された空き家は67軒もあります。実際には、未確認の空き家を含めると200軒近くあるんじゃないでしょうか?そのせいか、最近なんとなくまちが乾いてきた感じがするんです。人が住まない家が増えると、まち全体が埃っぽくなるというか、“乾いてしまう”んですよね…」

NPO法人の立ち上げから15年。『鞆まちづくり工房』が再生に携わった鞆地区の空き家は35物件にのぼる。松居さんたちグループの他にも同様の活動をおこなっている団体が複数あるが、それでも「増え続ける空き家の数に、まち並み保存活動が追いつかない状態」だという。

「ちょうどNPO法人を立ち上げた直後に、最初に注目したのがこの『御舟宿いろは(旧魚屋萬蔵宅)』の建物でした。ここは“龍馬ゆかりの『いろは丸事件』の談判の場所”として知られていたのですが、呉服屋さんだった前の持ち主の方は1人暮らしのお年寄りで、ずっとシャッターをおろしたまま商売もされてなかったんです。

そしたら、ある日シャッターに『売り家』という張り紙が出てびっくり。“こんな重要な歴史遺構が取り壊されたら大変!これからも残していかなくちゃ!”ということで、持ち主と交渉して購入することにしました。売値は、60坪で1400万円。こんな過疎のまちですが、限界集落ほど不動産価格が安いわけでもないので、実はそこが鞆の空き家再生を行う上でとても難しい部分です。空き家を取得するための資金はどうしても必要になりますからね」

“クラウドファンディングで、龍馬ファンに1人1万円の寄付を呼びかければ、アッという間に修復資金が集まるのではないか?”と考えた松居さんだったが、すぐにその考えが甘いことを思い知らされた。「クラウドファンディングって影響力がとても大きいような気がしますけど、あくまでもその事業に“公共有益性”がないとなかなか資金が集まらないものなんですね(笑)。個人的な想い入れだけだと多くの人の賛同が得られないんです」

結果的には『瓦募金(瓦一枚一枚に支援者の名前を入れることで資金を募る仕組み)』や支援者からの融資によってなんとか資金を集め、松居さんたちは建物を取得することができた。

▲「大工さんによると、この柱は“最初にこの建物が建てられた当初からあった大黒柱”だそうで、おそらく龍馬さんも触ったものだろうと想像しています(笑)」と、愛おしそうに柱に触れる松居さん。通り土間に隣接する店舗スペースや座敷、奥に中庭と蔵を配置した間取りは、いかにも“鞆の浦の古い建物らしい特徴”を今に残している▲「大工さんによると、この柱は“最初にこの建物が建てられた当初からあった大黒柱”だそうで、おそらく龍馬さんも触ったものだろうと想像しています(笑)」と、愛おしそうに柱に触れる松居さん。通り土間に隣接する店舗スペースや座敷、奥に中庭と蔵を配置した間取りは、いかにも“鞆の浦の古い建物らしい特徴”を今に残している

「鞆の浦の歴史」と「宮崎駿ワールド」がミックスされた唯一無二の建物

▲2階廊下にあるレトロなステンドグラスは、もともとこの建物にあったものではなく、宮崎監督のデザイン画を元にして昔ながらの手延べガラスで再現されたもの。「監督の意見も取り入れているので、時代考証からいくと多少ズレる部分もあるんですが、本物の技術で本物を再現すれば、ちょっとした時代の違いがあっても、その建物は生き還ると思います。安普請でカタチだけ直すというのはいちばんダメ。その時代、その時代のちゃんとしたものを作れば、今後も建物は残されていくと私は考えています」と松居さん▲2階廊下にあるレトロなステンドグラスは、もともとこの建物にあったものではなく、宮崎監督のデザイン画を元にして昔ながらの手延べガラスで再現されたもの。「監督の意見も取り入れているので、時代考証からいくと多少ズレる部分もあるんですが、本物の技術で本物を再現すれば、ちょっとした時代の違いがあっても、その建物は生き還ると思います。安普請でカタチだけ直すというのはいちばんダメ。その時代、その時代のちゃんとしたものを作れば、今後も建物は残されていくと私は考えています」と松居さん

実は、この『御舟宿いろは(旧魚屋萬蔵宅)』の再生にあたり、無くてはならない存在だったのがアニメ界の巨匠・宮崎駿監督だ。

縁あって鞆の浦の別荘に2ヶ月ほど滞在。その滞在期間に『崖の上のポニョ』の構想を練り、東京へ戻ってからも『鞆まちづくり工房』が取り組むリノベーションを後方支援してくれたという。

「ようやくNPO法人として取得したこの建物でしたが、いざ中に入ってみると完全なるゴミ屋敷で、蔵の中も崩れていて、想像以上に酷い老朽化状態でした。行政へ相談しても当然ながら修復予算がつくわけではありませんから、どうしたものか途方に暮れていたんですね。

そんなときに宮崎監督が鞆の浦へ社員旅行でお越しになって、東京へ帰られてから、“結成したばかりのNPO法人にとって、あっちもこっちも空き家再生に取り組むのは大変でしょう。この資金をうまく使って古い建物たちを救ってあげてください”と、寄付を申し出てくださったんです。夢のようなお話で本当にありがたいことでした」

こうして『御舟宿いろは(旧魚屋萬蔵宅)』の修復は、宮崎監督のデザイン画を元にリノベーションが進められることになり、“この地で刻まれ続けた歴史の跡”と“宮崎駿ワールド”がミックスされた唯一無二の建物として再生に至った。

まちの中に残された古い建物たちは、長年そこで人が生きてきた証

「建物の修復については、もう今は居なくなってしまった“地元『鞆』の最後の大工さん”にお願いしました。宮崎監督からは“できる限り、残せるものは全部残してほしい”と言われていましたから、大工さんが柱や梁をひとつひとつ金槌で叩いて確認しながら、“これは残せる、ここは残せない”というのを見直し、見直し、作業を進める形になりましたね。

しかし、何より驚いたのは築200年を超える建物が本当に頑丈に造られていたこと。大黒柱も、2階までの通し柱も、一見すると古く傷んでいるように見えたんですが、“これなら充分残せる。今の建物よりも丈夫にできてるよ”と大工さんから太鼓判を押されました。コンピューターなんて無い時代でしたが、昔の職人さんたちの技術は素晴らしかったんだということを痛感できました。こうして満足できるリノベーションができたのは“大工さんの腕と目利きが良かった”から。鞆地区の町家再生のお手本のような存在になったと思います」

また、珍しい十字架型の意匠が施された蔵の『なまこ壁』は、同じく地元『鞆』の左官職人に修復を依頼した。

「このクロスを模ったなまこ壁は、職人さんも“他ではこんなの見たことがない”というぐらい特徴的な鞆の伝統意匠です。白いクロス型の部分は三角錐を重ね合わせて塗っていくのですが、左官さんによるととても難しい技術なので“普通の建物ではやらないはず。なにか宗教的な意味合いがあるのでは?”とのことでした。鞆のまちは港町ですからもともと海外の文化が入りやすく、キリスト教がまちのひとたちの間で広まっていた可能性もゼロではない。禁教令後も隠れキリシタンが存在していたのではないか?という説もあるんです。

こんな風に、まちの中の古い建物たちは、長年そこで人が生きてきた証。人間は死んでいくけど、建物の痕跡はちゃんと残されて今を生きる私たちに様々な問いかけをしてくれる…それが、このまちの財産なんです」

▲宮崎監督のスケッチをベースに、地元職人の手によって昔ながらの技術や素材を用いて再生された『御舟宿いろは(旧魚屋萬蔵宅)』。この十字架型のなまこ壁を造り上げるには、熟練職人の技術が欠かせない。重伝建地区内にあるため修復費の9割までは福山市の補助を受けることができるが、本格的な修復を行おうとすると「補助金上限以上のコストはかかってしまう」と松居さん▲宮崎監督のスケッチをベースに、地元職人の手によって昔ながらの技術や素材を用いて再生された『御舟宿いろは(旧魚屋萬蔵宅)』。この十字架型のなまこ壁を造り上げるには、熟練職人の技術が欠かせない。重伝建地区内にあるため修復費の9割までは福山市の補助を受けることができるが、本格的な修復を行おうとすると「補助金上限以上のコストはかかってしまう」と松居さん

最終的には「再生した建物の中で人が暮らす」を目指したい

▲NPO法人『鞆まちづくり工房』の代表理事・松居秀子さん(右)と活動をサポートしている山川薫子さん(左)。「自分のまちを外から眺めるってとても大事なこと。私も最初は“こんな田舎町の何に価値があるのか?”と思っていましたが、知識を深めて、客観的に自分のまちのことを眺めるようになったら、立派なものやキレイなものじゃなくても、そこにちゃんと価値があるということに気づけるようになりました」と山川さん。最近は松居さんの息子さんも自発的に活動に参加するようになり、まち並み保存活動の世代交代が進んでいるそうだ▲NPO法人『鞆まちづくり工房』の代表理事・松居秀子さん(右)と活動をサポートしている山川薫子さん(左)。「自分のまちを外から眺めるってとても大事なこと。私も最初は“こんな田舎町の何に価値があるのか?”と思っていましたが、知識を深めて、客観的に自分のまちのことを眺めるようになったら、立派なものやキレイなものじゃなくても、そこにちゃんと価値があるということに気づけるようになりました」と山川さん。最近は松居さんの息子さんも自発的に活動に参加するようになり、まち並み保存活動の世代交代が進んでいるそうだ

松居さんは『本物の建物再生』と『本物のまち並み保存』を続けていくために、『暮らしとまち並み研究会』を発足。定期的に地元住民や建設会社の技術スタッフを招いて、鞆のまちの歴史や建物に関する知識を深めるための勉強会を行っているという。

「建物のことだけでなく、防災への取り組みについても勉強しながら、専門家の先生から指導をしていただいています。特に、技術部門の継承は早急な課題。1人でも、2人でも、話を聞いてくれる人がいるなら、この勉強会を続ける意義があると思っています」

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まち並み保存やまちづくりの活動を継続するには、松居さんのように起動力を持ったローカルヒーロー(ヒロイン)が欠かせないとよく言われるが、その起動力と熱意はどこから湧いてくるのか?最後に松居さんに聞いてみた。

「使命感…でしょうかね(笑)。故郷である鞆のまちの美しい姿を後世まで存続させなくては、という想いは常に持ち続けています。ただ、ひとつ残念なのは、建物を再生することができても“その建物内で人が生活する”というところまでなかなかたどり着けないこと。建物というのは、そこで人が暮らしてこそ本物であって、人が暮らす建物が増えればまちの中にも潤いが戻りますから、今後は移住の促進も含めて活動を行っていきたいと考えています」

坂本龍馬が愛した港町。宮崎駿監督にインスピレーションを与えた原風景。訪れる人たちを魅了する鞆の浦の古いまち並みは、地元の財産であると同時に日本の財産でもある。松居さんたちのまち並み保存活動が次世代へと長く継承されていくことを期待したい。

■取材協力/NPO法人『鞆まちづくり工房』
http://tomo-iroha.s2.weblife.me/index.html
■御舟宿いろは
http://www.vesta.dti.ne.jp/npo-tomo/iroha/

2018年 07月21日 11時00分