日本人は厄年を気にする人が多い?中国起源と言われているその正体とは

厄除け祈願の絵馬を奉納する風習は比較的新しく、厄の起源もよく解ってはいない厄除け祈願の絵馬を奉納する風習は比較的新しく、厄の起源もよく解ってはいない

厄年は病気やケガ、災難に遭いやすい年なので、引っ越しや新築、婚礼などは避けるべきかといった悩みを聞くことがある。厄年とは決まった年齢に災いに巡り合いやすい、難を受けやすいという考え方で、男性の場合は数え年で25歳と42歳、女性は19歳と33歳とされている。

少し古いデータだが、読売新聞が2008年に「年間連続調査・日本人」という調査を行い、その中で宗教観に関するアンケートを取ったことがある。調査対象は全国の有権者3,000人、回収は1,837 人、調査方式は面接。内容は、「何か宗教を信じていますか」「日本人は宗教心が薄いと思いますか」「自然の中に人間の力を超えた何かを感じますか」「お墓はどうして欲しいと思いますか」といったようなもので、15項目の質問から現代日本人の宗教に対する意識調査を試みた。

この中で、厄年について気になると回答した人は40.8%で、これは仏滅の結婚式と友引の葬式を気にすると回答した人とほぼ同数であり、何も気にならないと回答した人は18.8%にとどまった。結婚式は仏滅を避けるというのはよく聞く話だが、厄年を積極的に気にしている人が半数近くもいるというのは少々意外であった。今年は厄年だから家を建てるのは延期しようとか、何か悪いことが起きたのは厄年だからだろう、といったような会話は、決して珍しいことではないということになる。

そこで今回は、日本人の40%の人が気にしている厄年について検証してみよう。そもそも厄年とは何なのか、「厄除け」と「厄祓い」と「厄落とし」の違い、神社と寺院のどちらに行けばいいのか、厄年に避けたほうがいいことなど、様々な角度から探ってみる。

しかしこの男25歳42歳、女19歳33歳という厄年について、古典や史書を調べても、その起源がはっきりしない。そもそも厄年の考え方は中国から伝えられてきたとされ、ものの本によると「道教や陰陽五行思想にその起源が求められる」と書いてあるのだが、私が知る限り老子にも荘子にも関係がありそうな諸子百家の中に、日本の厄年に繋がりそうな記述が見当たらないのだ。

そこでこの厄年の正体を知るために、本当に中国から輸入された思想なのかという問題から、まずは検証してみよう。

古代中国では厄は医学書に登場、25歳と42歳は健康面で注意すべき年齢

中国の最古の医学書と言われる黄帝内径や神農本草経は約2000年前に書かれた中国の最古の医学書と言われる黄帝内径や神農本草経は約2000年前に書かれた

現代中国語の中に「厄」という言葉そのものは存在している。しかしこれは苦しみ、辛いといったような意味で、日本の厄年のような運命論的なもしくは神秘論的な意味合いは含まれていない。

歴史書に厄という文字が最初に現れたのは、後漢末期、西暦200年ほどに書かれた古代中国の医学書「傷寒論」の序文と思われる。そこには「上以療君親之疾、下以救貧賤之厄」と記されていて、意味は「裕福な人の場合は病を治療するだけで事足りるが、貧困にあえぐ人には病だけでなく苦しみそのものを救ってあげなさい」と言うものである。 まさに「医は仁術」な内容だが、この厄もあくまでも貧しさによる苦しみである。

しかし、厄年で言われる25歳や42歳という年齢については、西暦1155年に編纂された医学書「黄帝内径」にその記述が見られる。と言っても医学書であるからして、傷病に掛かりやすい年齢として注意喚起をしているだけである。25歳は身体と精神が最も良好で結婚の適応年齢であり、42歳は老齢に差し掛かり、かつ人生において多忙時であり健康の変わり目でもあるため養生しなさいよ。というようなことが医学的な見地から記述されているのであって、厄はもちろん占いや気学風水との関連性も認められない。

つまり中国においては、日本の厄年のような運命論的な解釈がなされたものは歴史的には存在しないようである。

平安時代は12年ごとに厄が巡る、厄年が定まった江戸時代では厄落とし

では、日本における厄年の歴史を探ってみよう。厄年は伝聞として空海が密教と一緒に伝えたと言われているが、伝来した時期の特定はできていない。

この空海起源説というのが実際に曲者で、昔の人は何だか良く分からないことは、全て弘法大師さまのお陰にしてしまう癖があり、いろは唄や平仮名を作ったのも、曜日を考えたのも、お灸を始めたのも、水銀鉱脈や各地の温泉を発見したのも、本邦初のダウジングを行なったのも弘法大師さまの功績だと伝えられている。

このような伝承や口伝の類ではなく、文献資料として残されているものとなると、平安時代の源氏物語に「三十七にぞおわしましける、慎しませたもうべき御年なるに」、「今年は三十七にぞなりたもう」という記述や、鎌倉時代の歴史物語である水鏡に「三十三を過ぎ難し」、室町時代の細川高国の書いた高国記では「太栄五年四月、高国四十二の重役とて出家す」など、特定の年齢に関して言及したものがいくつかある。

しかしどれも人生の帰路を迎えたことや健康上注意すべき年齢について記したもので、厄年という文字は見られず、その概念も成立しているとは言い難いだろう。むしろ、この当時は十二支での生まれ年、すなわち12年一回りの年を厄とする風潮があって、男42歳女33歳が本厄といったような現在の厄年の形は定まっていなかった。

はっきりと厄年という言葉でその概念が出現するのは、その後ぐっと歴史が下がって、1700年代に発行された「和漢三才図会」と「石燕雑記」であろう。和漢三才図会とは、1712年に寺島良安によって編纂された百科事典で、その中に「今の俗男女厄を分つ、その拠るところを知らず。男四十二を大厄とし、その前年を前厄といい、翌年を跳厄(はねやく)といい、前後三年を忌む」と記述されている。また1750年に鳥山石燕という浮世絵師が考察を残した「石燕雑記」の中には、「男の本厄25歳と42歳は、フグとシニの語呂合わせ」との記述が見える。

ここでやっと厄年登場というわけだが、いずれの文献でもそもそも厄年とは何かという、その本質は説明してはおらず、また分からないことを問題視もしていない。なぜかはよく分からないが、何となく忌むべき存在として認知されている状態である。

そして、もう一つ面白いことに、この両書が記された1700年頃には、寺社に厄逃れ祈願をする風習が、未だ確立していなかった様なのである。この当時の江戸市民たちは、神仏に頼る前に自分たちでできる「厄落とし」をすることを選んでいた。

江戸時代になると貨幣経済の発展で、町人文化の花が開き現在まで残る多くの習俗が生まれた江戸時代になると貨幣経済の発展で、町人文化の花が開き現在まで残る多くの習俗が生まれた

厄除けは寺院、厄祓いは神社。江戸時代は厄年に新築・増築は良し、引っ越しは禁忌

神前で結婚のお祓いを受けるという風習は明治時代以降に一般化された神前で結婚のお祓いを受けるという風習は明治時代以降に一般化された

厄落としとは簡単に言えば庶民の知恵によるゲン担ぎのようなもので、各地に残された古くからの文献、伝承や民話等から厄年に関する痕跡を拾い集めていくと、実に多くの人々が様々な厄落としを行っていたことがわかる。

1.役に着くことで厄を逃れる群
①祭りやおめでたい事に参与する。②町村の行事で重要な役を担う。

2.捨てることで難を逃れる群
①身に付けた物を捨てる。②縁起物や金品を撒く。

3.他人に善行を施して難を逃れる群
①祝儀や物を配る。②人を招いて振る舞う。③厄年の者同士で祝い合う。

4.縁起物や貰い物を身につけて難を逃れる群
①赤い色のものを身につける。②親や子、親類から身につけるものをもらう。

5.新しくすることで難を逃れる群
①年重ね・年直しをする。②新築、増築を行う。

この年重ね・年直しというのは、2月1日にもう一度正月祝いをして、厄年を1ヶ月で終わらせてしまおうということで、厄落としの中ではかなりの大技と言えるだろう。

江戸っ子の間ではこれらのうち、祝儀や物を配る、つまり贈与により厄を無くす、人を招いて振る舞う、つまり共食により厄を分散させる方法がポピュラーであったようだ。変わったところでは、厄年の親から生まれた赤ちゃんを一度手放すということも行なっていたようで、これは当人たちの厄落としというより、生まれた子供への影響を恐れた儀式の意味合いが強いと思われる。

古来、嬰児を始め乳幼児の生存率はかなり低かった。そこで生まれた子供の無事成長を祈願するために、一度手放すことで丈夫に育つという言い伝えから、そのようなことを行っていたようである。有名なところでは、豊臣秀吉は晩年にようやく生まれた我が子を一度道端に置き、名前を「おひろい」と付けて育てたほどである。

住宅に関していえば、新築や増築は厄年に行うことで却って厄落としになると考えられていた。反面、禁忌もあり、家移り、つまり引っ越しと井戸替え、隠居と商売変えは厳禁であった。捨てる・貰う・贈る・振る舞う・新しくするは良いが、「変える」は「返る」、つまり厄が自分の身に返るに通じて禁忌だったようである。このように江戸時代の庶民の間では厄落としが広く行われていた。

では現在のような厄年に神社や寺院へ行き、お祓いや祈祷をしてもらうという習慣は、いつ頃から始まったのだろうか。これは江戸時代後期に「厄除け」の祈願を寺社ですることが大流行し、新たな宗教行事として定着したと言われている。そしてその後、明治時代になると神仏分離令が発布されることで、当時の宗教界は大混乱に陥った。

神仏分離令とは、文字どおり神と仏を分離しなさいという法律で、日本ではこの法律が出されるまでの約1000年以上の間、日本神道は仏教に併合されていた。簡単に言えば、日本の古来の国津神と天津神といった神様たちは、中国から輸入された仏教の守護者「仏様」の仮の姿だとして、例えば天照大神の正体は大日如来、素戔嗚尊は薬師如来、天神様は大自在天、お稲荷様は荼枳尼天という具合であった。

寺院と神社が分離されたことで、それぞれの宗教的な立場の棲み分けが必要となり、そこでもともと「死穢」を担当し死者の回向をしていた寺院は葬儀を行い、「産穢」を担当することになった神社はお七夜のお祓いや結婚式などを受け持つこととなった。このような棲み分けの影響が厄年にもおよび、寺院の「厄除け」と同じ様に、神社でも身に纏ってしまった厄を祓い清めるという「厄祓い」が行われるようになったのである。

男42歳女33歳は1000年の歴史が。厄年でいったん立ち止まってみるも良し

我が国における占いの歴史は古く、卑弥呼の時代まで遡る。江戸時代には街中での辻占いが流行り、土御門家を頂点とした陰陽師の家元制度も確立していた我が国における占いの歴史は古く、卑弥呼の時代まで遡る。江戸時代には街中での辻占いが流行り、土御門家を頂点とした陰陽師の家元制度も確立していた

さて、ここまで厄年について様々な角度から検証してきたが、起源も年齢の根拠も曖昧で、確固たるいわれも発見することができなかった。

しかし歴史的に見れば、各時代時代で様々な年齢が注意すべき年として挙げられていて、諸説ある中、現代まで残った伝承として、男性は数え年の25歳42歳61歳、女性は19歳33歳61歳にほぼ落ちついている。

一つの伝承が社会的なコンセンサスとして認知されたということは、それだけ説得力がある理由付けがなされたと言うことであろう。例えば、社会的にちょうど環境が変わる時期だったり、健康を害しやすい時期だったりというようなことである。

特に男42歳女33歳に関しては、1000年もの長きに渡り受け継がれている年齢だ。しかし、それにしてもなぜ42と33という数字が選ばれたのだろうか。

筆者は、それは「易経」の卦の影響もあったのではなかったかと推察している。易経の卦は64種類ありそれぞれに番号を付け分類されている。その卦の25番は「无妄」というもので、その意味は「至誠真実で頑張れば吉」というものである。42番は「益」で「増長すれば凶、一歩引けば助力を得る」で、19番目は「臨」で「志操を守れば吉」、33番目は「遯」で「節操を変えることがなければ吉」というものである。

61番目は「中孚」で意味はちょっと難しく、原文は「虞吉。有它不燕。翰音登于天。貞凶」と言うもので、明代の易大家の訳では「成功し達成感を得た時が危うし、如何に貞すれど凶」というものである。

江戸期における25歳、42歳は人生において大変重要な年齢であった。武家の25歳は隠居した父の後を継いで当主になったばかりの頃、町人は10歳から奉公して15年の修行の甲斐あって一人前になったあたり、手代や番頭などになる頃合いで、仕事を任されて世間の期待も大きくなり、見る目も厳しくなる頃であった。そんな人生の帰路に立った若者に贈る言葉は、「至誠真実で頑張れば吉」が一番相応しかったのではないだろうか。

42歳は、武家の出世レースも仕上げの時期で、そろそろ跡目相続についても考え始める頃、町人は長年お世話になったお店からのれん分けしてもらって自前の店を構える頃合いである。 この年齢の人たちは世間から容赦なく、様々なプレッシャー、様々な試練を与えられ、「増長すれば凶、一歩引けば助力を得る」という心得を身に染みて感じることだろう。

このような易経の言葉は、人生のプレッシャーに晒された人々の心に入り込み、不安に押しつぶされそうな時の心の拠り所となったのかもしれない。厄年は根拠が無いと言えば無い、あると言えばあるのかもしれない。どちらにしてもむやみに恐れる必要は全く無く、しかし一度立ち止まって今後の人生についてじっくり考えるにはちょうどいい機会であることは間違いないだろう。

2017年 09月17日 11時00分