2011年、国の重要文化財に指定された萬翠荘

愛媛・松山市…松山城を中心に発展してきた旧城下町である。松山は、有名な道後温泉があり、夏目漱石が教師として赴き、正岡子規と交流を深めたことでも知られる文学の街でもある。

その緑豊かな松山城の城山の麓に美しく目を引く洋館がある。
萬・よろずの、翠・みどりの、荘・やかた、萬翠荘(ばんすいそう)と名づけられたこの邸宅は、大正11年(1922年)に旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が別邸として建築したものである。

久松定謨は旧松山藩主の子孫であるが、明治維新の年に生まれたため、松山城主となれなかった。
また武士道の教育を受け、人一倍愛国心が高かった定謨からすると、心ならずも維新後に松山藩は朝敵とされ、城を没収されていたことに悔しさがあったようだ。明治期を経て、大正時代に陸軍を引退した後の屋敷として、定謨が松山城の麓にこの壮麗な館を建てたのは、さまざまな思いの交錯があったからに違いない。

松山の迎賓館と呼ばれ、今も壮麗な姿を残す国指定重要文化財であるこの建物を、萬翠荘の研究員であり『萬翠荘物語』の著者でもある片上雅仁さんにご案内いただいた。

緑の中にあらわれる、まるで童話に出てくるお城のような洋館。</br>第15代松山藩主にあたる久松定謨伯爵の別邸として建てられた萬翠荘緑の中にあらわれる、まるで童話に出てくるお城のような洋館。
第15代松山藩主にあたる久松定謨伯爵の別邸として建てられた萬翠荘

贅を凝らした建物と室内にみえる、当時の世界と日本

松山市電の「大街道駅」を降り、坂の上の雲ミュージアムの横の緩やかな坂を上ると瀟洒な洋館、萬翠荘が見えてくる。現在確認できる敷地面積は9,535m2、建築面積は417.34m2、地上3階建で一部地階があり、延べ床面積は887.5m2となる。

当時の車寄せから外観をのぞむとフランスのネオ・ルネッサンス様式の建物にみえる。しかし、西洋建築のような左右対称ではなく、向かって右側には塔屋を備えているが左側にはなく、あえて非対称となるように設計されている。外装最下部は御影石、その上の壁面はタイル貼りであり、窓枠や玄関ポーチの支柱、階の境界線の蛇腹などには見事な装飾が施されている。屋根部分は天然スレート(玄昌石)葺のうろこ屋根で、塔や屋根につけられた避雷針の先には金が施された。まるで童話の世界でお姫様が出てくるような優美な外観の「お城」である。

玄関ポーチから正面玄関を入ると、一転、重厚な階段ホールが広がる。ホール両側に桜御影石のイオニア式の柱が立っており、大階段の欄干は装飾が施されたチーク材、階段のおどり場正面には、大海原を航海する帆船の大きなステンドグラスがみえる。

片上さんは、「定謨は当事のヨーロッパの名門だったフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学しています。のちに日露戦争で活躍する秋山好古も定謨の随行員として、フランスに渡りました。この建物にフランス様式がみられるのはそういったところからです。しかし一方、定謨は武家の誇りと陸軍軍人の誇りの両方を重んじる厳格な人物で、室内の空間でも食堂などに落ち着いたチーク材が使われ、フランス様式とはいってもベルサイユ宮殿のようなロココ式ではない、どこか軍人らしさを感じる内装がみられます」という。

豪華なシャンデリア、大理石のマントルピース、その上に飾られた大きなベルギー製の鏡……。松山の迎賓館の名にふさわしい洋館である。

写真左:チーク材を施した大階段をあがると踊り場に大海原を航海する帆船がデザインされた見事なステンドグラスが見える </br>写真右上:階段ホールにはイオニア式の桜御影石の支柱 </br>写真右下左:ご案内いただいた萬翠荘の研究員の片上雅仁さん </br>写真右下右:「謁見の間」のマントルピースとベルギー製の見事な一枚鏡写真左:チーク材を施した大階段をあがると踊り場に大海原を航海する帆船がデザインされた見事なステンドグラスが見える 
写真右上:階段ホールにはイオニア式の桜御影石の支柱 
写真右下左:ご案内いただいた萬翠荘の研究員の片上雅仁さん 
写真右下右:「謁見の間」のマントルピースとベルギー製の見事な一枚鏡

久松定謨・木子七郎・八木彩霞……明治・大正期に「世界を見てきた」人々がつくった鉄筋コンクリート造の建物

ちなみにこの優美な萬翠荘は、実は愛媛県で最初の鉄筋コンクリート造の建物である。大正9年(1920)、陸軍の現役引退を目前としていた定謨は引退後松山にしかるべき邸宅を建てるべく、設計を木子七郎という建築家に依頼した。

木子家は代々、御所に出入りする大工職の家柄であった。木子七郎の父は明治になって宮内省に所属し、帝国大学の講師としてはじめて日本建築史を教えた人でもあるようだ。四男の木子七郎は帝国大学の建築学科を卒業すると、大林組の設計部技師となり、大正2年からは独立して大阪に建築事務所を開設した。その後、愛媛県庁本館、京都市の関西日仏会館、西宮にある旧新田邸(松山大学温山記念会館) などを手掛けている。木子は定謨から建築の依頼を受けるとアジアからヨーロッパ、アメリカ・カナダを含めた海外視察に出かけている。木子のこの経験は少なからず萬翠荘の建築に生かされていると思われる。

当時の「本物の西洋」が生かされたのは、建物だけではない。萬翠荘の謁見の間には2枚の絵画がはめこまれている。ひとつが、軍人の定謨にふさわしく台場が築造された神奈川湾、もうひとつが三坂峠から見える松山平野の絵画である。描いたのは、松山出身の画家・八木彩霞…フランスに留学し、藤田嗣治らと親交を結んだ。

久松定謨・木子七郎・八木彩霞……明治・大正期に「世界を見てきた」人々が、それぞれ威信をかけて築いた建物であった。

みごとなチーク材の天井に豪華なシャンデリアが吊るされた重厚な雰囲気の「晩餐の間」みごとなチーク材の天井に豪華なシャンデリアが吊るされた重厚な雰囲気の「晩餐の間」

敷地内に復元・再建された、夏目漱石・正岡子規ゆかりの『愚陀仏庵』の今後のゆくえ

昭和57年に萬翠荘の裏⼿に再建された『愚陀仏庵』。残念ながら平成22年の⼤⾬による⼟砂崩れで倒壊してしまい、現在は再々建をまっている昭和57年に萬翠荘の裏⼿に再建された『愚陀仏庵』。残念ながら平成22年の⼤⾬による⼟砂崩れで倒壊してしまい、現在は再々建をまっている

かくして萬翠荘は「松山の迎賓館」と呼ばれ、当時最高の社交の場となった。また、皇族方も松山にお出でになる際は立ち寄られたという。敷地内には数本の皇族方の御手植えの松がある。

また、⽂学の地にふさわしく、⽂豪夏目漱⽯ともゆかりがある。萬翠荘の敷地内にかつて愛松亭という建物があり、漱⽯は松⼭中学校に赴任した際、その2 階に下宿していた時期があった。また、その後移り住んだ市内の下宿を、自分で「愚陀仏庵」と名付けていたが、やがて、ここに正岡子規が同居するようになり、毎日のように句会が開かて、漱石も俳句をつくるようになった。
この「愚陀仏庵」は、昭和20年の戦災で焼失。昭和57年に萬翠荘の裏手に再建されたが、残念ながら、平成22年の大雨による土砂崩れで倒壊してしまった。なお、近ごろ、もともとあった場所に「愚陀仏庵」が再々建されることが決まったようだ。近くの道路には、すでに「漱石先生の道」という標識が立っている。

萬翠荘は平成23年(2011)11月、国の重要文化財に指定された。とはいえ、今でも市民の集まりや結婚式、ギャラリー・イベントなどの利用に開放されている。

「ここを訪れると、いかに松山や当時の日本が誇りをもって文化を大切にしていたのか、諸外国に気概をもって対応していたのか、ということが感じ取れると思います。良いものが時代を経て次の時代に引き継がれていく……ひとつの意味だと感じています」と、片上さんは話してくれた。

■取材協力:
萬翠荘 http://www.bansuisou.org/

■参考資料:「萬翠荘物語」

2019年 05月20日 11時05分