商人の町・神田
日本橋、京橋、神田を第一下町と本論では定義した。
しかし江戸っ子といえばやはり神田というイメージだ。実際神田には江戸っ子寿司という寿司屋もあるくらいだ。落語に出てくる熊さん、八っつぁんも、きっと神田あたりに住んでいたのだろうと、おそらくみんな勝手に思っている。日本橋だって越後屋呉服店(三越)などの大店のすぐ裏には貧しい町人の住む長屋があったらしいが、神田明神もあるし、どうしたって神田のほうが江戸っ子らしい。
1878年(明治11年)東京に15区制度が導入されて神田区ができた。1884年の人口は10万9,900人。これが1912年(大正元年)17万2,190人に増える。だが他の区も、日本中も人口が増えたので神田だけが発展したのではない。
関東大震災後の1925年には11万7,875人に減少、その後少し持ち直すが、1940年は12万8,000人ほどであり、要するに明治初頭から神田区の人口は結果としてあまり変わらなかった。それだけ古くからの下町であり、新開地ではないということである。
またちょっと意外なのは、神田は職人の町では必ずしもない、ということだ。鍛治町、竪大工町、鍋町、塗師町などの町名があるように、たしかに江戸の初期は職人の町だったのだが、職人は次第に各所に分散していき、江戸中期には神田は日本橋北側に続く商人の町になっていたという(吉田伸之編『東京の歴史』第4巻)。
須田町の隆盛
特に須田町、連雀町、多町(たちょう)周辺には青物市場、水菓子(果物のこと)市場が集まる神田市場が形成され、江戸の流通の一大拠点だった。
また、岩本町には明治当初から古着市場が発展した。1881年に市場の中を貫く運河が掘られると、古着市場は岩本町、富松町、日本橋久松町の3箇所に分離したが、岩本町が他を圧倒した。神田川の柳原土手には露店の古着商も並び、東京名物になったという。
だが1882年に大火があり、神田川沿いの商業地がほぼ全滅した。だがそこから復興し、市区改正により道路が拡張され、路面電車が走り、万世橋駅ができると、今川橋、鍛治町を経て須田町交差点から万世橋に至る大通りが東京随一の商店街として発展することになる。
劇場と寄席でにぎわう
現在の水道橋駅南側の三崎町には、東京座、三崎座、川上座などの劇場ができた。東京座の1897年の開業には9世市川團十郎や猿之介が出演。1900年代には多くの歌舞伎役者が出演する劇場となった。
三崎座は91年開業で、女優を主体とする芝居を上演するところに大きな特徴があった。学生が多い土地柄なので、学生や文人の観客が多かったという。
川上座は川上音二郎(「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者)の拠点であり1985年にできた。劇場には附属の茶屋がいくつかあり、三崎町全体が芝居街として発展したという。
また神田には寄席が多かった。東京市内にあった100ほどの寄席のうち17軒が神田区内にあった。寄席には3種類あり、講談席、落語を主とする色物席、そして浪花節席があった。
伊勢丹も松屋も神田創業だが関東大震災で移転
鍛治町(神田駅東口)には1890年に松屋呉服店(現在のデパートの松屋)ができ、1907年には三越呉服店や白木屋に先だって洋館3階建ての店舗を建て、呉服以外の商品も売るようになり、デパート化に踏み出した。しかし大震災で焼失し、その後は銀座のビルの焼け跡に移転し、デパートの銀座進出の先駆となった。
伊勢丹は1886年に神田区旅籠町(昌平橋の北側)に伊勢屋丹治呉服店として開業した。その後、下谷の川越屋呉服店、市ヶ谷のあまさけや呉服店などを買収して業務を拡張したが、やはり大震災で焼失。1923年11月に新宿売店を開設。旅籠町には1924年に神田店を再建し、27年神田店新館を増築した。その後本格的百貨店化を目指して1933年神田店を閉店し、新宿店を開店、現在に至っている。
また学生街としての神田も、震災により大きな影響を受けた。1900年には神田区に315軒の下宿屋があったが(特に駿河台と三崎町に多かったようだ)、震災後には33軒に激減したのである。東京商科大学(現・一橋大学)などの学校が郊外に移転した、鉄道の発達により郊外から通学が可能になったなどの影響である。
そのため15区以外の郊外に下宿屋が増え、震災前の1911年には301軒だったのが、1930年には663軒、35年には1269軒と倍々で増加した。
神田区の下宿屋が東京市内全体と比較しても狭いことも不人気の理由だったかもしれない。
学生街でカフェーが人気
1930年ごろには神保町一帯、特にすずらん通りの南側に、カフェー、バー、飲食店、ビリヤード場などがたくさんできた。すずらん通り南側は続に「新天地」「喫茶店横丁」と呼ばれていた。
カフェーは、銀座のカフェーとはちがって庶民的で安価であり、学生たちのたまり場になった。「この横丁は神田学生街にできた喫茶街として最大のもので」、すずらん通りから角を曲がると「たちまち展開するネオンサインとジャズの狂騒曲を初めて見聞する人々は必ずびっくりするでありましょう」と『新版大東京案内』には書かれている。現在は再開発されてタワーマンションなどがあり、当時の名残はない。
また、靖国通りの北側、現在石井スポーツがあるところに昔は日活の映画館があり、その北側の横丁も喫茶店やカフェーが多かったという。喫茶「マダム」、カフェー「美人座」などという店もあったらしい。
こう見てくると、ひとくちに神田と言っても、区内の地域によっても異なるし、震災前と震災後とでは異なる。落語に出てくる大工や魚屋を商売とする威勢のいい江戸っ子たちのいる下町らしい神田というものは必ずしもずっと続いていたわけではないようだ。
震災後は、むしろデパートができ、カフェーができ、モダンガールとモダンボーイ、カフェーの女給がたむろするモダンな都市に変貌した、ともいえそうである。
公開日:







