東京の下町はどこか?

東京の下町はどこかと聞かれると、あなたはどこを思い浮かべるだろう。浅草、柴又、門前仲町、あるいは足立区と答える人もいるだろう。だがそれらの地域は最初から下町だったわけではない。

図1は1975年の中央区の倉庫の分布図だが、ほぼ現在はマンションに建て替わっていることがわかる。だが、そうした街の歴史を新住民自身があまり知らないのも事実だ。
だとしたら私がその東側郊外について研究をし、その成果をわかりやすく、面白く、このLIFULL HOME'S PRESS連載において断続的に書いていきたいと考えた。

結論を先に言うと、東京の下町は歴史的に言っておよそ以下のように4段階に分けられる。

第一下町 江戸以来の下町。1920年が人口最大。旧区名で日本橋、神田、京橋。
第二下町 明治・大正以降の下町。震災前に人口が急増したが震災後は減少し1940年が人口最大。浅草、下谷、芝、本所、深川。
第三下町 昭和以降(関東大震災以降)の下町。旧東京市15区の外側。震災前から人口増加したが震災後に急増し1940年が人口最大。1932年に区となった荒川、向島、城東。
第四下町 戦後の下町。震災後人口が急増し、戦後も人口増加。城東、および1932年に区となった江戸川、葛飾、足立。

第一下町の時代において、第二下町はまだ郊外の農村、漁村であり、場末である。次に第二下町ができた時代は、第三下町はまだ郊外であり、場末である。第三下町ができた時代は、第四下町はまだ郊外であり、場末である。というように人口の増加によって次第に東京が外縁部に拡大するにつれて、下町は東京の東側に拡大してきたと言える。

もちろん、東京の地形は入り組んでいるので、西側郊外の小石川区、王子区、滝野川区、板橋区、品川区、大森区、蒲田区などにも下町的な地域はたくさんある。王子区、品川区の川沿い、海沿いの地域は、東京東側の下町に含まれるとも言える。王子区は荒川区と地理的につながっているし、品川区も芝区とつながっているためである。

だが本連載では日本橋から見て東側、北側の地域だけを対象にして、その「郊外化」の歴史を概観することにしたい。

図1 1975年の中央区における倉庫の分布 出所:『中央区三十年史 下巻』1980年図1 1975年の中央区における倉庫の分布 出所:『中央区三十年史 下巻』1980年

人口の動向

人口を見ると、1900年には、第一下町である日本橋区、神田区だけで27万人の人口がいた。これに京橋区を合わせると42万人。大都市である。
しかしこの3区の人口は1920年になっても42万人と横ばいである。これらは江戸の下町としてすでに完成されており、その後は成長しなかったのである。(表1)

第一下町の人口が横ばいであるのに対して1900年から20年に人口が増えたのは、東京の東側では下谷区、浅草区、芝区、本所区、深川区の5区であり、人口増加率は3割台から5割台である。これが第二下町である(下谷区、芝区は地形的に山の手の台地も含むが)。

ところがこれらの第二下町も1925年には人口が減る。主に23年の関東大震災が原因である。もちろん第一下町の神田、日本橋、京橋も減少。第二下町の人口は、その後復興により持ち直すが、1925〜35年の増加率は1割前後にとどまっている。

対して、その時代に人口が激増したのが、1932年の東京35区制度によって東京市に編入された品川区(特に旧・荏原区)、杉並区などの西側台地地域と、東側の低地の6区。つまり荒川区、向島区(墨田区の北半分)、城東区(江東区の東半分)、足立区、江戸川区、葛飾区だ。6区全体で7割近く人口が増えている。

表1

表1 東京35区人口の推移(1900-1940年)</br>東京都資料より作成表1 東京35区人口の推移(1900-1940年)
東京都資料より作成

関東大震災後に激増した周辺の村の人口

また1920〜30年の町村別人口増加率で見ると、現品川区の平塚村が15倍以上、杉並村が14倍と激増しており、西側の郊外の増加が激しい。しかし東側も、現荒川区の尾久が10倍近く、現江戸川区の小松川、現葛飾区の本田が5倍弱、現足立区の南綾瀬、西新井、現荒川区の三河島が4倍前後と、その他、小岩、梅島、金町、砂町が3割前後増えていることがわかる(表2)。

だが、1925〜40年の35区別の人口増加率を見ると、荒川、向島、城東はすでに伸びが鈍化している。そのためこの3区は第三下町と言えるのである。
対して、足立、江戸川、葛飾の人口はその後、戦後も増え続けた。だからこれら3区は第四下町である。このように東京の下町には4つの段階があるのだ。

表2

表2 東京市15区以外の郡部の人口増加率</br>東京都資料より作成表2 東京市15区以外の郡部の人口増加率
東京都資料より作成

郊外の工場地帯化と人口増加

下町と言えば葛飾柴又を思い浮かべる人もいるが・・・下町と言えば葛飾柴又を思い浮かべる人もいるが・・・

以上のような東京の人口移動を考える上で重要なのは、1919年に制定された都市計画法である。これにより東京は地域ごとに、商業、工業、住宅などと用途地域指定された。 
簡単に言えば、東京の都心は業務地・商業地、東半分と湾岸は工業地、西半分は住宅地と指定された。そのため同じ郊外でも西側山の手は中流ホワイトカラーが多く、東側下町は工場、倉庫などで働く労働者階級が多い、ということになった。
それまでの東京の下町には、異なる階級が混在して住んでいた面もあったが、20世紀になって、居住地の階級に基づく分離が進んだのである。

したがって1940年度の東京市の工場労働者数74万6,549人を35区別にみると、蒲田区が最多で7万4720人だから、東京市全体の約1割。次いで品川区5万8644人、城東区4万7,643人、荒川区4万4,131人、本所区4万3,680人、足立区3万6,072人、向島区3万5,769人、芝区3万5,464人、大森区3万4,276人。明らかに東側と湾岸で多い。

対して西側台地の赤坂区は2,000人、四谷区は2,982人、麹町区は5,226人、郊外でも中野区は6,211人、世田谷区は8,257人、杉並区は8,492人にすぎない。

これまでの郊外研究というのは郊外住宅地研究を中心に行われてきた。田園調布、成城学園などの良好な住宅地は西側でつくられてきたからである。
だが東側の郊外農村部にも人口が増え、下町化が進み、工場労働者を多く含む人々が住んできた。そのことはあまり研究されてない。著名な住宅地もないし、おそらく資料があまりないからだ。

だが最近は何かと東京の東側が注目されるようになった。タワーマンションは隅田川沿岸から東側に多いし、清澄白河などの「トレンドスポット」も東側だ。
かつては工場地帯と言われた地域の工場や倉庫の跡地にマンションができて、西側郊外住宅地よりも安い値段で都心の職場に近いところに住める、ということで、若い世代を中心に人気が出たためだ。

このように東京の下町は、江戸時代は近郊農村、漁村、水郷地帯であり、明治、大正以降に工場地帯化し、さらに近年はマンション街という歴史的変遷を持つ。そのダイナミックな歴史を今後記事で見ていくことにしたい。

2018年 10月23日 11時05分