日本最古の国道「竹内街道」

古来、人々は道を通って土地から土地へ移動してきた。むろん、古代は道といってもけもの道のような細い道だったろう。日本最初の国道が登場したのは飛鳥時代のこと。推古天皇21(613)年に難波から飛鳥の都に至る「大道(おおじ)」が置かれたと『日本書紀』に記録がある。

大阪府堺市から奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26kmの街道が竹内街道である。先に述べた大道(おおじ)の3分の1程度が、現在の竹内街道と重なっている。竹内峠界隈には大道ができる以前から人の往来が盛んにあり、それ以降もたくさんの人に利用されていたようだ。その歴史を伝える施設が、竹内峠のそばの太子町立竹内街道歴史資料館である。館長の吉田光男氏に竹内街道の歴史や魅力を教えていただいた。

「堺の大小路(おおしょうじ)から太子町を経て二上山南側の竹内峠を下り、葛城市の長尾神社までが竹内街道と呼ばれ、金岡から長尾までの道程が大道と重なっています。竹内街道と刻まれた江戸時代以前の道標はみつかっていませんから、竹内街道の名が定着したのは、明治時代です。この時代、大阪南部は堺県になり、のちに大和を併合しました。その時、竹内街道を含む広い土地が堺県となったので、県が道を整備したのです。堺県がその道の名前をつけるにあたり、昔の道は行き先が名称になっていることが多く、この街道は竹内峠を通り、長尾神社に至るので、竹内街道と名付けられたのでしょう」。

長尾から桜井に至る道は横大路と呼ばれ、平成29(2017)年4月28日に、竹内街道と併せて日本遺産に認定されている。

太子町立竹内街道歴史資料館太子町立竹内街道歴史資料館

竹内街道(大道)の歴史

竹内峠界隈は、二上山の火山活動て生成されたサヌカイトを求めて、原始時代から多くの人々が集まる場所だったらしい。サヌカイトは割るだけで鋭利な刃物状になり、石包丁や鏃などに加工され、利用されていたからだ。峠界隈には弥生時代の祭具・銅鐸も発見され、弥生時代後期の「チンチの森遺跡」からは数々の土器や籾跡のついた土器も発掘されている。古墳時代になると、加工しやすい凝灰岩は墳墓や石棺にも使用されるようになったから、サヌカイトを求める人々はさらに増え、竹内峠に集まるようになったらしい。

「推古天皇15(607)年に遣隋使として派遣された小野妹子が、翌年帰京の際に裴世清(はいせいせい)という使者を連れてきています。このときは、大阪湾の難波津から海柘榴市(つばいち)まで大和川の水路を使い、そこから飛鳥までは陸路でした。大道が置かれたのはそれから5年後のこと。隋からの使者を迎えるには、立派な道が必要だと考えられたのでしょう。日本の文化が進んでいるとアピールする目的があったからこそ、仁徳天皇陵が見える場所や、古市古墳群のそばを通るコースなのだと思います」と、吉田館長は語る。

大道は隋や唐からの使節や渡来人、留学生らの優れた技術が真っ先に伝えられる場所であっただけでなく、シルクロードの東の終着点でもあり、遠国の文化が伝わってきていたらしい。遣隋使派遣に大きくかかわった聖徳太子のほか、敏達天皇・用明天皇・推古天皇・孝徳天皇といった6~7世紀の天皇が葬られた磯長谷(しながだに)古墳群が分布しており、この地がどれほど繁栄したか想像できるだろう。

特に聖徳太子と大道は深く関連づけられており、聖徳太子の墓所とされる叡福寺も、この街道沿いにある。平安時代の天喜2(1054)年、御廟前から聖徳太子の予言書『太子御記文』が出現し、公卿や武家に影響を与えた。たとえば楠木正成は四天王寺で予言を実見したとも伝えられている。

7~8世紀には、磯長谷に集落が営まれたらしく、伽山遺跡や尺堂遺跡、長野前遺跡が残っている。すべて磯長谷南辺を流れる太井川流域に所在しており、土器などが発掘されていることから、多くの人々がここで生活していたことが想像できる。

昔ながらの風情を残す竹内街道昔ながらの風情を残す竹内街道

江戸時代には、西国三十三カ所巡礼が通る道に

竹内街道の伝統的景観を特徴づける国登録文化財・大道旧山本家住宅は、4~5月と9~11月の土日・祝に特別公開される竹内街道の伝統的景観を特徴づける国登録文化財・大道旧山本家住宅は、4~5月と9~11月の土日・祝に特別公開される

また、平安時代には仏眼上人が聖徳太子廟に現れ、花山法皇とともに、西国三十三カ所の霊地を初めて巡礼したとされる。上人の名を冠する太子町葉室の仏眼寺は西国巡礼元祖の寺とされ、江戸時代になると、西国巡礼や円光大師二十五霊場巡礼、伊勢参り、山上参りの人々が盛んに大道を往来するようになる。太子町春日から竹内峠や岩屋峠にかけては、多くの旅籠や茶店が繁昌していたらしい。

仏眼寺には行者が集まり、西国三十三度行者集団の拠点となった。西国三十三度行者は西国三十三カ所を三十三回巡礼するのを満行とする行者のこと。背に背板(せた)と呼ばれる笈(おい)を背負って巡礼していた。その中には三十三カ所それぞれの観音像が納められているほか、花器などの仏具が入っており、仏道を説きながら道中の村々で観音像を開帳する。行者が道中に立ち寄る信仰心の厚い家は「宿」と呼ばれ、経済的な後援者でもあった。その数は紀伊・和泉・河内を中心に数十軒から数百軒にものぼり、行者たちの巡礼往来手形や、立ち寄った宿を記録した宿帳も残されている。
行者集団は地名から「葉室組」と呼ばれ、仏眼寺は『西国三十三カ所巡礼元祖古跡』とされ、極楽往生を願う人々も、竹内街道を通ってこの地をめざすようになった。

そして現在、竹内街道や横大路は日本遺産に認定され、日本最古の国道を歩こうと訪れる人も少なくない。

「竹内街道に興味を持ってくださった方には、飛鳥時代の磯長谷古墳群を見てほしいです。また、二上山の登山口を少し登れば石切場跡があり、日本には珍しい石窟寺院跡の岩屋や鹿谷寺跡(ろくたんじあと)の十三重の塔があります。奈良時代のもので、そこにあった岩を掘り出して作った珍しいものですから、ぜひご覧いただきたいです」と、吉田館長。

街道に灯篭が点され、時代行列も行われる竹内街道灯路祭りは、2018年は10月20日の予定。4月上旬には、叡福寺で太子聖燈会も開かれるほか、夏には科長神社の地車(だんじり)などのみどころもある。
土日・祝には、国登録文化財であり、江戸末期に建築された大道旧山本家住宅が公開されるから、当時の竹内街道がどのような風景だったか、想いを巡らせるのも良いだろう。

太子町観光・まちづくり協会のガイドが案内するウォーキングコースもあるという。昔を偲び、多くの人々が歩いた日本最古の国道を訪れてみてはいかがだろうか。

2018年 03月27日 11時05分