東京23区北部の地価が上昇

荒川区は現在最も地価上昇率が高い区である。2018年の住宅地の基準地価の上昇率では、都内のベスト3を「西日暮里4-19-9」「荒川2-21-2」「南千住8-4-7」が占め、7位には「東日暮里2-16-4」も入った。荒川区以外でも、足立区、北区、板橋区など東京23区の中の北部地域の上昇率が高い。
地価上昇の理由はいうまでもなく近年の人口増加であり、今後も人口増加が期待されるために土地が買われているからである。

荒川区の人口は戦争中の1943年に35万人でピークだったが、戦争直後は減少、60年に28.5万人となったが、その後また減少。しかし2000年代に入ってからは人口が増加し、18年は21.5万人にまで増えている。

中央区でも港区でも江東区でも世田谷区でもない荒川区でなぜ人口が増え、地価が上がるのか。疑問に思う人も少なくないだろう。
簡単に言えば、都心に近いにもかかわらず、これまで荒川区は住宅地としては見なされてこなかったのが、近年マンション建設が進み、急に住宅地として注目されてきたということである。
それらの地域に行ってみればわかるが、まずマンション用地がまだ多い。準工業地域も多いので高層化がしやすい。

交通面でも、荒川区は日暮里駅からの成田スカイアクセス、舎人ライナーによって利便性が高まったし、足立区はその2つに加えてつくばエクスプレスができた。ビジネスパーソンにとって便利な街になったのだ。

都心3区、台東区、江東区、墨田区などに近年たくさんのマンションが建ち、人口増加に寄与してきたが、それらの地域で飽和感が出始めたところで、上記のような理由から、荒川区などの北部地域に注目が集まったのだろう。

荒川区の人口と世帯数 荒川区資料荒川区の人口と世帯数 荒川区資料

荒川区は台東区などの後に人口が増加した

ではなぜこれまで住宅地と見なされなかったか。そこで荒川区の歴史を概観してみることにする。

荒川区の人口は1900年には2万1,634人に過ぎなかったが、関東大震災前の1920年には12万1,412人と6倍近く増加している。
その間、第1下町である日本橋区、京橋区の人口は減少、神田区は微増しただけである。対して、第2下町である浅草区、下谷区、本所区、深川区、芝区が数割増加。
さらに、向島区の人口は1900年の11,473人から20年は64,426人、城東区は同じく13,123人から73,065人へとやはり6倍近くに、品川区は25,572人から112,555人と4倍に増加している(荒川区、向島区、城東区、品川区※荏原区を含まない は1932年に成立)。
つまり、浅草区の北側の荒川区、本所区の北側の向島区、深川区の東側の城東区、芝区の南側の品川区へと人口増加地域が移行、拡大し、第3下町が形成されていったのである.

また、荒川区の中で最初に人口が増加したのは現在の台東区に隣接した南千住と日暮里であった。しかし関東大震災後の1923年には三河島の人口は南千住や日暮里より増え、30年になると尾久の人口が最大になった。同じ荒川区内でも台東区に近い側から発展していったのである。

資料:東京都「平成30年東京都基準地価格」資料:東京都「平成30年東京都基準地価格」

自然が豊かな地域だったが20世紀に入り工場地帯に

鬼怒川電気東京変電所に至る商店街の標識が残っていた鬼怒川電気東京変電所に至る商店街の標識が残っていた

明治以前の荒川区は基本的には水田地帯、湿地帯だった。幕末の歌川広重の絵で見ても、三ノ輪、金杉、三河島というタイトルの絵は鶴が沼地にいる図である。江戸時代、将軍は鷹狩りといって、江戸近郊の各地に鷹を使ってキジなどを捕る狩猟をしたが、その鷹狩りの最大の獲物が鶴である。三ノ輪あたりでも鶴を捕ったらしい。それくらい荒川区あたりは自然が豊かだった。

ところが東京の近代化によって荒川区には工業を中心とする職業の人口が増えた。1920年の国勢調査では、工業関係の人口が59,574人で最も多く、商業が27,162人、交通業が17,477人だった。交通業とは人力車の車夫であろうと思われる。

荒川区の最初の大きな工場は隅田川沿いの田んぼをつぶして1879年にできた千住製絨所である。当時はまだ珍しい煉瓦造りの巨大な工場で、羊毛の布をつくった。これは軍服のためのものであり、特に日露戦争や第1次世界大戦で需要が増大し、1915年にはロシアからも注文を受けたという。

また1912年には鬼怒川電気東京変電所、14年には東京電燈(現在の東京電力)田端変電所、同・荒川変電所など、以来次々と電力関係の施設ができた。
その他、南千住に東京板紙、東京毛織、日本石油、東京瓦斯などの工場ができ、荒川区は一大工場地帯となっていく。1889年の南千住の工場数はたった2ケ所だったが、1918年には68ケ所に増え、工業生産額は4万8474円から3434万6千円に激増。

そして1932年から35年までの数年間、荒川区の工業は最高潮に達した。
1935年の工場を規模別に見ると、全体では1153ケ所の工場のうち、従業員1〜4人の零細工場が652、5〜30人が436と圧倒的に小規模であり、100人以上は12ケ所だけであった。特に金属製品工場は315のうち209ケ所が1~4人と零細中心であり、南千住以外の地域にそうした零細工場が密集することになった。
また、荒川区の小規模工場は台東区などの親工場からの下請けが多かった。1953年の数字だが、製造品の1948件の商流のうち、台東区への納品が357件であり、23区全体で746を占めた。

技能者の集まる区にアーティストが住む

熊野前商店街にはカフェもできていた熊野前商店街にはカフェもできていた

業種的にも幅が広く、既製服、家具、紙器、セルロイド、ゴム、皮革、自転車、三輪車、鉛筆、玩具など、多様な業種の中小工場が成立した。だから荒川区を歩くと、今でも、あっ、こういうものは荒川区でつくっていたのかと驚くことがある。おそらく高度成長期に荒川区を歩いたら、街中に機械の音が響き、ありとあらゆる物が生産されている風景を目にすることができただろう。

そのため荒川区では区として登録無形文化財保持者を指定している。分野としては、筆・刷毛づくり、染織・刺繍、看板文字、印刷装こう(書画を表装すること)、人形づくり、竹工、漆工、木工、金工などでこれまで保持者が指定されている。
また区内において長く同一の職業に従事し、培った高い技術と卓越した技能をもって後進の指導・育成に力を注いでいる技能者を、「モノづくりの街・荒川」を象徴する存在として、「荒川マイスター」に認定している。
条件は、主として区内で同一の職業に30年以上従事し、満年齢が45歳以上であること。技術・技能が卓越しているとともに、そのことが業界にも認知されていることなどである。

このように荒川区は工業を中心に20世紀の東京の産業を下支えしてきた区であったと言える。それだけに区内には今は操業を停止した工場や空き倉庫などが多い。それらが近年マンションに変わっているのであろう。

今は工場は減っているし、騒音もほとんどない。商店街は衰退気味ではあるが、まだ数は多い。人口が増えれば新しい店もできるだろう。今回の調査でも尾久の熊野前の商店街にはカフェができていたし、アーティストインレジデンスと思しき物件にもいくつか遭遇した。
銭湯や長屋や商店街があって職人が住んでいる庶民的な街は、墨田区京島などと同じで、若いアーティストなどには住みやすいだろう。

2019年 03月29日 11時05分