古い歴史を持つ葵祭

京都三大祭と言えば、5月15日に賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で催行される葵祭、7月の1ヶ月間八坂神社で催行される祇園祭、10月22日に平安神宮で催行される時代祭を指す。
中でも葵祭は6世紀から続く、由緒正しい祭儀だ。

葵祭が始まったのは欽明天皇の時代とされる。欽明天皇は聖徳太子の祖父にあたる天皇で、在位期間は西暦539年~571年だ。
『袖中抄』巻十にある賀茂縁起によれば、この時期に天候が大いに荒れ、農作物に甚大な被害を受けた。そこで卜部伊吉若日子(うらべいきのわかひこ)に占わせると、賀茂大神の祟りであるとわかったので、四月吉日を選んで馬に鈴をかけ、人は猪頭(いのかしら)をかむって駆馳(くち)をした。これが賀茂祭(葵祭)の始めだという。祭礼が終わると風雨はおさまり、五穀が豊かに実ったのだとか。
平安時代に至ると、平城天皇の大同2(807)年4月、勅祭(天皇の使者が派遣される祭り)として催行されるようになった。室町時代に起きた応仁の乱以降は断絶したが、明治17(1884)年に復興。太平洋戦争により行列を中断するも、戦後昭和28(1953)年には復活し、昭和31(1956)年には、斎王代と女人列が創設されている。

『日本書紀』や『古事記』の中で、疫病の流行や荒天に際し、時の天皇が神託を求めたのは数度ではない。そして神託を得る神は、多くの場合が大国主命(おおくにぬしのみこと)、出雲大社の祭神だ。大国主命は別名を幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)とも言い、冥界……つまり、死者の世界と非常に関わりが深いとも考えられてきた。疫病を封じるため、大国主命に伺いをたてるのは、自然だろう。

それではなぜ、欽明天皇は賀茂大神の神託を求めたのだろうか。上賀茂神社と下鴨神社の歴史をおさらいしておこう。

下鴨神社の楼門と舞殿
下鴨神社の楼門と舞殿

上賀茂神社と下鴨神社の歴史

下鴨神社の金鵄八咫烏下鴨神社の金鵄八咫烏

上賀茂神社と下鴨神社が創建された経緯は、『山城国風土記逸文』に詳しい。風土記とは、奈良時代の初期、律令国の国庁が、それぞれの国の歴史や風土を編纂して、大和朝廷に報告した地誌のこと。そのほとんどが散逸してしまったが、『釈日本紀』や『倭漢三才図会』などに風土記の引用があり、その内容がうかがい知れる。その引用を指して「風土記逸文」と呼ぶのだ。

これによれば、上賀茂神社と下鴨神社の歴史は西暦前、神武天皇が九州から大和へ到来した時代に遡る。
神武天皇が逆賊に苦しめられ、大和入りに苦労していたところ、八咫烏(やたがらす)が道案内をしてくれたという。「咫(あた)」は手を開いたときの中指と親指の先を結んだ長さで、20センチメートル前後。八咫は160センチメートルだからさほど大きいとは言えないが、古代においては、大きく長いものに「八咫」を冠していた。
つまり、八咫烏はとても大きなカラスを意味し、その正体は賀茂建角身(かもたけつのみ)であったとされている。

神武天皇が橿原に都を造営した後、賀茂建角身は「久我の国の北の山の麓(賀茂川の上流の北で、西賀茂の大宮の森近辺とされる)」を褒美として授かり、住居を定めた。その娘の玉依日売(たまよりひめ)が、小川で遊んでいたところ、真っ赤な矢が流れてきたので、珍しく思って寝室に飾っておくと、いつしか妊娠して美しい男の子を生んだという。後に父親は火雷命(ほのいかづちのみこと)であるとわかり、男の子は別雷(わけいかづち)と名づけられて上賀茂神社の祭神となっている。下鴨神社の祭神は、その母で賀茂建角身の娘である玉依日売である。

火雷命や分雷命は、その名の通り雷神だから、上賀茂・下鴨両社は両社とも雷に深い関係のある神社といえる。人々が荒天の回復を祈る場所としてふさわしかったのかもしれない。古来より両社は皇室の崇敬が深く、嵯峨天皇の弘仁元(810)年には、未婚の内親王が斎王(さいおう)として奉仕するようになっている。

「路頭の儀」と「社頭の儀」

次に、葵祭の祭儀次第を見てみよう。
葵祭の本祭は5月15日だが、12日に下鴨神社において催行される御蔭祭(みかげまつり)も重要だ。比叡山西麓に鎮座する御蔭神社から下鴨神社の祭神の荒魂(あらみたま)を迎え、本宮に鎮座する和魂(にぎみたま)と新しい荒魂を合体させる古代祭祀で、下鴨神社の社記によれば、西暦前581年ごろに始まったとされている。

日本古来の神道では、神霊には「荒魂」と「和魂」があると考えられてきた。荒魂は和魂より活動的で、時には天災や疫病などを引き起こすが、戦に勝利をもたらしもするから、欽明天皇の時代に荒天を引き起こしたのは、下鴨神社の神の荒魂だったのかもしれない。

そして15日の葵祭の本祭では、現在、「路頭の儀」と「社頭の儀」がおこなわれる。
路頭の儀では、斎王代を中心に、命婦(みょうぶ、女官のこと)や女嬬(にょじゅ、食事の世話をする女官)、童女(わらわめ、女官見習いの少女)などの平安装束をきらびやかに着飾った女人列(にょにんれつ)や、勅使(ちょくし、天皇の使者)をはじめ検非違使(けびいし、警察官のような官職)など、平安貴族の装束をつけた行列が京都御所から下鴨神社を経て、上賀茂神社までを行進する。路頭の儀の行進の総勢は約500名、馬36頭、牛4頭、牛車2台、斎王代の乗る腰輿1台という華やかさ。行列の長さはおよそ1キロメートルにも及び、8キロの道を歩く。人々が思う葵祭のイメージといえば、この行列ではなかろうか。

平安時代の貴族を思わせる姿の行列が下鴨神社・上賀茂神社に到着した際、その社頭で行われる儀式が葵祭の「社頭の儀」である。勅使が御祭文を奏上し御幣物を奉納する。そして神馬が舞殿の周囲を引き回された後、舞人が舞殿に昇って優雅な「あずまあそび」を舞う。

ちなみに葵祭のヒロインと言われる斎王代はその字のごとく、斎王の代理の意味。内親王ではなく一般女性から選ばれるため「代理」と呼ばれるわけだ。今年(2018年)の斎王代は第63代となる。

京都三大祭の中でも特に古い歴史を持つ葵祭。その由緒や祭式の次第には日本古来の信仰が息づいている。ただ華やかな行列を楽しむだけではなく、その由緒や意味を知り、古代に思いをはせてみてはいかがだろうか。

■参考文献
賀茂御祖神社社務所『賀茂御祖神社略史』平成11年4月発行
賀茂別雷神社社務所『賀茂別雷神社由緒略記』平成8年3月31日発行

上賀茂神社の斎王代列
上賀茂神社の斎王代列

2018年 05月10日 11時05分