深川が下町と言われるのは昭和初期から

深川とは現在の江東区の西半分、明治期に深川区となった地域である。東半分は南葛飾郡であり、1932年に城東区となった。だから東西でかなり歴史が違う。
深川は、木場があり、門前仲町があり、辰巳芸者という芸者衆が一世を風靡するなど、江戸時代から栄えていた。「赤穂浪士」の吉良上野介邸など武家屋敷も多かった。

だが、江戸東京学の大家、竹内誠氏によれば、深川が下町と称するようになったのは江戸時代どころか明治ですらなく昭和になってからだという。

「しかし大正12年の関東大震災以降、本来の下町である京橋・日本橋・神田地域は、多数の企業が進出して個人住宅より会社のビルが多くなり、また問屋など大商店の職住分離が進み、店はそのままで家族は郊外に移住することが盛んになり、昼間人口にくらべて夜間人口がこの地域では著しく減少するようになった。
その結果、江戸時代以来培われてきた下町の人情といった温かい人間関係が失われ、むしろその中心は、下町の情緒を色濃く受け継いでいる浅草や深川に移ったのであり、今や深川は、浅草と並んで下町の中心的な位置を占めている」と竹内氏は言う。

美しかった昔の深川 葛飾北斎「富嶽三十六景」 美しかった昔の深川 葛飾北斎「富嶽三十六景」 

風光明媚な別荘地

岩崎家所有のころの清澄庭園岩崎家所有のころの清澄庭園

かつて深川は隅田川河口のデルタ地帯であり、ヨシ、アシなどが繁る洲であった。これを深川八郎右衛門という者が埋め立てて開発し、慶長年間に深川村をつくった。明暦の大火(1657年)の後、深川の市街地化が急速に進み、隅田川以西にあった寺院が多数移転、武家の別邸もたくさんつくられた。

1661年に両国橋、1963年に新大橋、1698年に永代橋が架けられ、深川の市街地化はさらに進んだのだという。海岸や河口の風景は美しく、下町に比べてずっと自然美が豊かであり、永大橋からの眺望はまさに絶景で、その風光明媚さのために保養地として最適であり、豪商の別荘も多かった。

ある豪商は取引先の藩主などの接待に深川の別荘を頻繁に使ったというし、その豪商の三代目が病弱で深川の別荘に保養に来たという話もある(竹内誠『江戸社会史の研究』)。まったく今からは想像し難い話である。

おきゃんな芸者

このように、深川は江戸と川を隔てて隣接しているだけなのに、江戸から見れば自然豊かで美しい別荘地であり、深川の人は隅田川を渡って西を行くことを「江戸へ出る」と言った。
そのため「江戸の中にありながら江戸でない」という独特の深川気質が形成され、富岡八幡(1620年代創建)の門前の岡場所では、「粋」で「いなせ」で「おきゃん」な辰巳芸者が生まれた(竹内誠『江戸社会史の研究』)。 

深川にはそれ以外にも岡場所が6箇所あったが、そこに限らず広範な地域に遊里があったという。だが天保の改革(1942年)で江戸市中の岡場所が禁じられ、深川の遊里も壊滅的な打撃を受けた。しかし吉原が何度か火事になったとき、再建までのあいだに深川が「仮宅」(かりたく)として営業ができたために、繁栄を取り戻したという。

今でも、門前仲町で有名な居酒屋に行くと、「おきゃん」とはこういう感じかという女性が切り盛りしている。グルメのテレビドラマにもその店が出てきて、その女性の役をある女優が演じていたが、口調も身のこなしも本物そっくりだった。

華麗な芸者たち 喜多川歌麿「深川の雪」華麗な芸者たち 喜多川歌麿「深川の雪」

大工場地帯へ

風光明媚な深川も明治以降は次第に工場地帯化していく。
明治40年代(20世紀初頭)の地図を見ると、浅野セメント、東京紡績、日本製粉、東京ガスなど、当時に主力産業である紡績業をはじめとして、製糸業、セメント業などの工場が建ち並ぶようになった。

大正末期(1920年代中葉)になるとさらに工場は増え、中小の町工場が深川区およびその後の江東区内全域を覆うようになる。この時代には、石川島造船所の自動車工場など、鉄鋼、造船、機械といった重工業が増え、また藤倉電線深川工場など、従業員が300人以上の大工場が増えたのである。

参考文献
『江東区史 中巻』1997
竹内誠『江戸社会史の研究』弘文堂、2010
吉川伸之他編『みる・よむ・あるく 東京の歴史 5』吉川弘文館、2018

図 大正末期(1920年代中葉)の主要工場分布図 (出所:『江東区史 中巻』1997)図 大正末期(1920年代中葉)の主要工場分布図 (出所:『江東区史 中巻』1997)

2019年 01月30日 11時05分