中央区の人口は江戸時代から20世紀初頭まで25〜27万人

月島、勝どきは大タワーマンション街に変貌した月島、勝どきは大タワーマンション街に変貌した

下町論のまず最初に、第一下町である中央区(旧・日本橋区、京橋区)について、その近代史を概観しよう。
中央区の人口は近年のタワーマンションラッシュにより16万人にまで増えた。しかし95年には6.3万人ほどしかいなかった。戦後ずっとオフィス街化が進んで居住者が減り続けたためである。戦後のピークは1955年であるから、高度経済成長が始まった時期だ。それ以降働く街に特化していったのである。

それ以前も中央区の人口は減少していた。1935年には26.1万人いた(日本橋区と京橋区の合計)。1920年には27万人である。江戸時代も25万人ほどだったらしい。
つまり中央区の人口は江戸時代から基本的には変化がなかった。
しかし第2次世界大戦により7.6万人に減少。さらに高度経済成長によりオフィス街化が進んで完全な人口減少期に入ったのである。

20世紀初頭、下町からオフィス街に変貌した中央区、郊外の郡部が工場地帯になる

他方、中央区内で働く従業者数を見ると、1886年(明治19年)の中央区の就業者総数は5.2万人だったが、1890年には12.7万人に増加。しかし1930年には13.5万人にしか増えていない。
産業別では、商業関係は1890年から1920年に1.9万人から5.1万人に増加、1930年には6万人に増加した。20世紀初頭に中央区は商業中心の街、特に金融業が中心の街として発展したことがわかる。

工業従業者は1886年に1.3万人だったが1890年には3.8万人に増加。1890年から1920年はあまり変化がなく、1930年には2.9万人に減少している。
工場数を見ると、1895年には日本橋区で8箇所だったが1935年には78箇所に増加。同様に京橋区は60箇所から293箇所。神田区は9箇所から346箇所。また芝区は69箇所から621箇所、小石川区は8箇所から203箇所などと増えている。

さらに本郷区では4箇所から126箇所、下谷区では26箇所から313箇所、浅草区では19箇所から393箇所。深川区では68箇所から561箇所、そして本所区では65箇所から1257箇所への激増している。
明治末期から昭和初期にかけて中央区の周辺の区部で工業化が激しく進んだことがわかる。

もちろん中央区でも工場は増えたが、東京15区全体で1903年から1935年にかけて約4300箇所の工場が増えたうち、中央区は330箇所ほどを占めるだけである。
対して本所区は約1200箇所、芝区は約600箇所、深川区は約500箇所、現台東区(下谷区と浅草区の合計)約600箇所を占めている。15区の外側の郡部では5900箇所の工場が増えている。つまり中央区の外側の区部と郡部でほとんどの工場が増えたのである。工場が郊外化したのである。

表1 民間工場数の変化 資料:中央区三十年史 上巻表1 民間工場数の変化 資料:中央区三十年史 上巻

働く街と住む街の分離

次に、1920年の15区の流入・流出人口を見ると、日本橋区は区内への流入が4.6万人に対して区外への流出が6.6千人、京橋区は流入が4.7万人に対して流出が9.5千人であった。
同様に神田区は5.4万人に対して1.1万人、麹町区は11.4万人に対して7千人。芝区は5.7万人に対して2万人、赤坂区は1.4万人に対して9千人と、区外から区内に働きに来る人が多かった。

特に麹町区、今の大手町、霞ヶ関などの地域では圧倒的に流入人口が多かったことがわかる。職住分離が進み、都心のオフィス街化が進むとともに、商工業が発展して、区外から勤めに来る人が増えたのである。

ただし職住近接や職住一致の人たちも多く、1920年に日本橋区では5.6万人、京橋区では4.4万人がそうだった。つまり、区外から流入する従業者と同じか、それ以上の職住近接や職住一致の人たちがいたのである。その意味で中央区はまだ江戸時代のように町人の街であった。

対して、麻布、四谷、牛込、下谷、浅草、深川では流入より流出が多かった。麻布、四谷、牛込では郊外住宅地化が進んだからである。だが下谷、浅草、深川はいわゆる住宅地化が進んで人口が増えたのではない。関東一円などから何らかの工業、商業の仕事を求めて都心に流入したのである。

また、工場数が急増した本所区では区内に働きに来る人口流入が2.2万人に対して流出1.8万人であり、意外に流入が少ない。つまり工場労働者のほとんどは区内に住んで区内で働いていたのだということであろう。
しかし、もともと本所区に住んでいた者は少なく、多くは15区以外の地域、東京以外の地域から本所区に流入した人々であろうと思われる。

このように1890年ごろから1920年頃にかけて、中央区は江戸の中心から、近代都市東京の中心としてのオフィス街へと変貌を遂げ始め、職住近接(職住一致)の下町から脱皮。対して工業主体の下町は東側の区部に広がり、住宅地は西側の区部に広がっていったのである。

表2 1930年の東京15区の流出入人口 資料:昭和5年東京市役所『東京市昼間移動人口』表2 1930年の東京15区の流出入人口 資料:昭和5年東京市役所『東京市昼間移動人口』

区別の所得格差は20倍!

他方、麹町区などの山の手には、官僚、軍人、大企業従業者などの高給のホワイトカラーが住むようになった。1930年の有業者1人当たり所得を見ると、麹町区は1万3641円とダントツで高く、15区全体の総所得額の約25%を稼いでいた。
次いで日本橋区の4273円(同15%)、以下、京橋区1708円、芝区1495円、麻布区1283円、赤坂区1276円となっている。日本橋は下町とはいえ大きな商店の経営者が住んでいたので所得が高いのであろう(ただし裏町に行けば貧乏長屋もたくさんあった)。

対して所得が低いのは深川区683円、下谷区706円、浅草区711円、本所区747円などとなっている。ちなみに神田区は902円であり、日本橋区とは4倍以上の開き、京橋区とも2倍近いひらきがある。

昨今港区と足立の区民所得の差が3倍以上あると騒ぎ立てる本があるが、日本橋区と京橋区を足して2で割ると3000円ほどであり、神田区の3.3倍になるから、これがちょうど現在の港区と足立区の格差に相当するだろう。今とは違って隣り合わせの区同士で大きな格差があったのだ。

また麹町区と深川区の差は20倍ほどである。皇居と隅田川を隔てた土地には、今から見れば「超格差」があったことがわかる。
その格差は、江戸時代の武士と町人の格差をそのまま引き継いだとも言えるだろう。だが一方では、工業化によって都心部が下町からオフィス街に変貌し、町人が工場労働者などとして都心の周辺部に追いやられたことによって、区同士の格差が拡大したという面もあるのであろう。

表3 1930年の東京15区の所得格差 資料:東京市『東京市民の所得調査』表3 1930年の東京15区の所得格差 資料:東京市『東京市民の所得調査』

2018年 11月21日 11時05分