工場の増加により沿岸部が下町的になっていった

芝と言えば落語の「芝浜」である。江戸時代は、今の山手線の浜松町から田町にかけての鉄道のすぐ横は海だった。落語では魚屋がまだ暗いうちから魚を仕入れに来て、眠気覚ましに冷たい海で顔を洗うと、ふとそこで300両という大金を拾う。
その芝浜が明治以降次第に工業地帯になる。代表は(株)東芝。旧東京芝浦電気株式会社である。その他、東京電力、東京ガス、日本電気、沖電気、日本光学(ニコン)、森永製菓など、日本を代表する企業が「芝浜松町」「芝田町」周辺にできた。落語とはまったく異なる風景がそこに生まれた。

こうした工業化により、芝区の人口は明治5年(1872)には5.6万人だったが、大正9年(1920)の第1回国勢調査時には17.9万人と約3倍に増加した。1923年の関東大震災後も人口はさほど減少せず、1935年には19.1万人となった。

芝区というと増上寺もあり、武家屋敷も多かったので、地理学上は山の手に分類されることが多いのだが、海側に街区が広がり、海沿い、川沿いに工場や商店が増えたことにより、下町的な性格を強めたと言えるだろう。

図 港区の昭和初期の工場の立地。海側と古川沿いに多い。出所『港区史』1960図 港区の昭和初期の工場の立地。海側と古川沿いに多い。出所『港区史』1960

人口が爆発的に増えた白金

芝浦方面だけでなく、古川(渋谷では渋谷川という)の沿岸には小規模工場が集積した。新宿御苑(昔の内藤家の大名屋敷)に発し、渋谷、恵比寿、麻布十番を経て田町方面に流れてくる川だ。

まず田町に近い側に、三田製紙所(三田小山町)、工部省赤羽製作所、海軍造兵廠(赤羽町)、そして機織工場などが設立された。第一次世界大戦のころになると、麻布十番の一ノ橋より上流に工場が増えた。主に金属製品や機械の製造工場であった。

さらに上流の白金三光町は、白金といっても台地ではなく、古川流域の低地にあって、1872年(明治5)には戸数17戸、人口84人のみだった。
それが第一次世界大戦(1914−19)の好景気に乗って金属工場、鋳物工場、メッキ工場などが多数設立され1935年(昭和10)の人口は2万人を超えた。(『芝区誌』1938)
工業の発展に伴い、繁華街も成長した。芝浦には花柳街が誕生した。1872年に新橋—横浜間の鉄道が開通すると、沿線には温泉旅館、料理屋、海水浴場などができていく。

鉄道駅ができた新橋は、カフェー、バー、おでん屋、その他飲食店、遊戯場が急増。ネオンサインが光り、ジャズの音が響いた。4階建のビルディングには日本座敷を設らえた牛肉屋や、区内唯一のダンスホールがあり、100名近くのダンサーが裸身に薄衣をまとって踊り客席にはべった。新橋駅西側には大カフェー「処女林」が人気を誇った。
古川沿いの麻布十番にも三業地ができた。

芝浜花柳街。海水浴の文字も見える 出所『港区史』1960芝浜花柳街。海水浴の文字も見える 出所『港区史』1960

芝家具の隆盛

こうした時代の変化のなかで、現在の新橋の山手線の内側には「芝家具」と呼ばれる家具製造販売業者が増加した。
芝家具とは、建築の西洋化に対応してつくられた完全オーダーメイドの洋家具である。当時、西新橋、虎ノ門には官吏、実業家、貴族達の住居が増え、また、丸の内を中心にオフィス街、霞ヶ関の官公庁、鹿鳴館等の欧州風洋館が増えた。
そのため西洋家具の需要も増え、新橋、西新橋、虎ノ門一帯で洋家具製造の機運が高まり、多くの職人が集まったのだ。

最初の家具店は1871年(明治4)に千代田区内幸町で創業し74年に琴平町(現・虎ノ門1丁目)に移転した木下商店である。外国公館の家具の修理から始まった店だという。
もともとは西洋古物商だったところもあり、尾張屋、中野洋家具店などがそうだった。
江戸時代に駕籠をつくっていた業者が家具製造に転じた例もあったという。

明治20年代になると芝家具は定着期に入り、増大する洋風建築や博覧会のために家具を製作するようになった。明治40年頃には、洋家具店が軒を連ねるほど増えている。

関東大震災前の芝家具店の分布。左上に後述する、あめりか屋がある。資料 東京都芝家具商工業協同組合『芝家具の百年史』1966関東大震災前の芝家具店の分布。左上に後述する、あめりか屋がある。資料 東京都芝家具商工業協同組合『芝家具の百年史』1966

あめりか屋の登場

1923年(大正12)、関東大震災によりほとんどの店舗が焼失した。だが、震災によってむしろ東京の近代都市化が進み、郊外には洋室のある家が増えたので、都心のオフィス家具、郊外住宅用の家具の需要が増えた。お得な応接三点セットも流行した。築地の聖路加病院も1933年に新築するにあたり、芝家具を導入したという。

また、あめりか屋というアメリカから住宅資材を輸入して建築する会社ができた。芝家具と住宅建築の会社である。
同社はまだ福井県敦賀市で存続しているが、もともとは、明治30年代、アメリカのシアトルに渡り古着屋を営んでいた橋口信助が、当時の日本人の感覚では、椅子式の生活は「知性や経済力が無いとできない」と思われていたのに「アメリカ人は身分の高い・低い、お金を持っている・持っていないに係らず、イスに座って生活(椅子式の生活)をしている」と驚き、「日本にも椅子式での生活、要するにアメリカ式の洋風住宅を広めたい」という夢を持ったのが始まりだ(同社ホームページ)。

帰国し、1909年に開業。昭和初期にかけて、東京だけでなく、大阪、小倉、軽井沢、京都に店を構えるまでになったという。
だが最初から事業がうまくいったわけではない。まったく儲からず橋口は途方に暮れていた。彼を支援したのが建築家・武田五一教授だった。

武田は当時京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の教授であり、関西建築界の指導者の一人だった。
武田はあるときあめりか屋からドアを買い求め、それをきっかけに橋口と交友を深め、あめりか屋の事業に協力した。
その後武田は同志社女学校清和館を設計したので、そこであめりか屋のドアを使用した可能性があるという。

私ごとだが、私は最近自分の家をリノベーションし、オークションで買ったドアを設置した。それは武田五一が設計した京都市の島津製作所本社ビルで使われていたドアである。あめりか屋製かもしれないと思うが、なんだか嬉しい。

■参考資料
川越仁恵「幻の芝家具を探して」港区立港郷土資料館『研究紀要8』2004
内田青蔵『あめりか屋商品住宅』住まいの図書館出版局、1987

あめりか屋社屋あめりか屋社屋

2019年 01月21日 11時05分