難読地名が生まれる理由

枚方市内にある「ひらかたパーク」はユニークな宣伝が話題になることも多い枚方市内にある「ひらかたパーク」はユニークな宣伝が話題になることも多い

「枚方」「枚岡」をなんと読むかご存知だろうか?「まいかた」「まいおか」ではなく、「ひらかた」「ひらおか」と読む。常用漢字表にはないが、古くは「枚」を「ひら」と読んだ時代もあったからだ。「ひとひらのゆき」を漢字にすれば「一枚の雪」だ。枚方も枚岡も大阪の地名で、難読地名としてよく名が挙がる。

京都や奈良の難読地名はよく話題になるので、ご存知の方も多いだろう。京都や奈良は古い時代に都があり、独特の文化も育まれたから、他の土地にはない地名が多いのだ。たとえば「京終(きょうばて)」は奈良の地名。平城京が果てる地だからこの名がついた。京都の難読地名は、たとえば櫛笥大納言が住んでいた通りとされる「櫛笥通り(くしげどおり)」がある。櫛笥は、「玉手箱」を「玉櫛笥」と表現することからもわかるように、立派な箱のこと。大納言は櫛笥を作らせるのが好きだったのかもしれない。

大阪は、平安京や平城京より古い難波京があったため、古い言葉がそのまま地名に残っていることが多い。さらに、海の玄関口である難波津には多くの船が渡来したため、外国の地名や人名がそのまま地名になることもあった。
そこで、この記事では、大阪の難読地名を見ていくことにしよう。

歴史的事象に由来する難読地名

堺区大仙町の仁徳天皇陵(大山古墳)。周辺にも小さな古墳が点在している堺区大仙町の仁徳天皇陵(大山古墳)。周辺にも小さな古墳が点在している

歴史の古い大阪には、日本書紀に登場する難読地名が少なくない。
大阪の難読地名として有名なのは、大阪市にある「放出」ではなかろうか。「ほうしゅつ」ではなく「はなてん」と読む。天智天皇の時代、道行という僧侶が、三種の神器の一つである草薙(くさなぎ)の剣を盗み出す事件があった。新羅に逃げようとしたが、神の怒りで船が難破。現在の放出あたりに漂着した道行は「この剣を持っていたら、どんな祟りがあるかわからない」と剣を放ち出した(放り出した)。「はなちだす」が訛って、「はなてん」になったと日本書紀は説明する。地形が由来とする説もあり、大和川の氾濫を防ぐため、水を流す樋を作った際、この地が放出口であったのだという。古い大阪の方言で、暗渠を「放出(はなで)」と言うのだとか。もちろん今はもう暗渠はないが、寝屋川と第二寝屋川に挟まれた放出は、今でも水害に注意が必要な土地だ。
藤井寺市にあった「土師(はじ)」は、古墳造営の技術者たちの氏だ。土師氏の祖となった野見宿禰(のみのすくね)は垂仁天皇に仕えた人で、力士の元祖でもある。当時、皇族の埋葬の際に臣下などが生き埋めにされる「殉死」という風習があったが、殉死者の苦しみ嘆く声を聞いて心を傷めた垂仁天皇が野見宿禰に相談したところ「粘土で人形を作り、人の代わりに埋めましょう」と提案した。この人形が埴輪なのだという。日本で二番目に大きな応神天皇陵は、「土師ノ里」駅から徒歩で20分ほど。古市百舌鳥古墳群が世界遺産に登録されれば、観光客であふれかえるかもしれない。
堺市にある「中百舌鳥(なかもず)」には、少し血なまぐさい由来譚がある。このあたりで仁徳天皇が狩猟をしたとき、鹿がふらふらと飛び出してきて倒れてしまった。死因を調べてみると、耳から飛び込んだ百舌鳥が脳みそを食い荒らしていたことがわかったとか。近代は工業都市として名を馳せた堺にはもう狩りのできそうな野原はないが、日本一大きな仁徳天皇陵があり、今もうっそうと木々を茂らせている。
日本書紀に記述はないが、松原市の「布忍(ぬのせ)」も古い歴史がある。天見丘の神を、白い布を敷いて迎えた故事から、「ぬのしき」と呼ばれたのが由来とされる。

地形や自然に由来する難読地名

阪急電鉄千里線柴島駅の駅名標阪急電鉄千里線柴島駅の駅名標

大阪市内に縦横に川が流れるだけでなく、大和川と淀川の一級河川を擁する大阪には、川が作り出す地形が由来となった地名も多い。
淀川が大阪湾に流れ出る手前にある中州「柴島(くにじま)」は、難波八十島のひとつに数えられており、淀川水運における要衝の地で、摂津と山城の中継地点として栄えた。本来は「茎島」で、茎は自然の堤防を意味していた。また、柴薪として利用されるクヌギが群生していたことから「櫟島」が訛ったとする説もある。
同じ淀川でも、少し上流にある「茨田」は、「まった」と読む。その由来は日本書紀にまで遡る古い地名で、当時は「まんだ」と言った。自然堤防を意味する「うま」と湿地を意味する「うた」が地名の由来とされる。日本書紀によれば、仁徳天皇が淀川の水害を防ぐために堤防を築こうとしたが、工事中に大水が出て、何度も切れてしまう箇所が2つあった。そこで夢占いをしたところ、「人柱を出せば無事工事が終わるだろう」と神託がある。人柱として選ばれたのが茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)。彼はひょうたんを川に浮かべ、「このひょうたんを沈めてみよ。もし人柱を欲しているのが本当に神なのならたやすいはず。もしできないなら、そんな力のない神が堤防を破れるわけがない」と言い放ったという。ひょうたんは何度か水の下に潜ったが、結局は沈まなかったため、衫子は助かった。このエピソードは伝説の域を出ないが、茨田には堤防造成の技術者たちがいたのだろう。衫子は、その頭領格の人物だったと考えられている。現在、彼が沈められそうになった附近には、茨田連衫子を祭神とする堤根神社があり、運気上昇の神様として参拝者が絶えない。
また、「杭全(くまた)」は、平野川が西除川や東除川など複数の河川に分岐していた地形で、「川俣(かわまた)」が転訛して「くまた」になったとされている。

外国語由来の難読地名

新羅や百済からの船の玄関口である大阪には、古代中国の国名や人名を由来とする地名も多い。たとえば「喜連(きれ)」は、「呉(くれ)」が転訛したもの。日本書紀の雄略天皇の時代に、「呉の客の道を作って、呉坂と名づける」とあるから、相当古い地名だろう。
また、難読とは言えないかもしれないが、大阪市中央区にある「高麗橋(こうらいばし)」は由来がわかりやすいだろう。この土地には高麗からの渡来人が多かったようだ。

池田市にあった「呉服」も「ごふく」ではなく「くれは」と読む。応神天皇の時代、兄姫(えひめ)・弟姫(おとひめ)・呉服(くれはとり)・綾服(あやはとり)という名前の4人の織姫が、日本に織物を教えるために呉から到着したのが由来だ。
また、上記織姫を連れて、百済から渡来した阿智使主(あちのおみ)にちなんだ地名もある。たとえば、八尾市にある「恩智(おんぢ)」は、阿智が「奄知(あむち)」に変化し、さらに恩智になったのだという。
呉服も恩智も、現在は服飾や織物の名産地ではないが、恩智のある八尾市は河内木綿の産地として、木綿の復興に力を入れている。

池田市の呉服神社。服飾関係者の信仰を集めている池田市の呉服神社。服飾関係者の信仰を集めている

難読地名の現在

上記した地名の中には、難読ゆえか、地名自体がなくなり、寺社や駅に名を残すだけのものもある。たとえば土師の地名はすでになく、近畿日本鉄道の駅名に「土師ノ里」が残るだけだ。「布忍」も地名にはなく、駅と神社の名に残るのみ。
読みづらいからとひらがな表記が標準になった地名もある。中百舌鳥は地名としては漢字で残っているが、泉北高速鉄道の駅名は「中もず」、地下鉄は「なかもず」とすべてひらがなの表記になっている。

しかし、地名を残す努力もされている。たとえば藤井寺市は、8.89km2しかない小さな市だが、地名の由来となった「葛井寺(ふじいでら)」は、西国三十三カ所の第五番札所でもあり、古い歴史を持つ土地柄だ。平成の大合併以前から、羽曳野市や柏原市との合併が取りざたされたが、「歴史ある地名を消さない」と、単独で存続している。
地名を調べれば、土地の成り立ちや歴史がわかることも多い。すでに消えてしまった地名を戻すことは難しいが、現在残っているものは、読みづらいからと安易に地名変更するのではなく、ひらがなを付記するなどして残していってもらいたいものだ。

■参考
株式会社プラネットジアース『大阪地名の謎と由来』 池田末則監修 2008年2月15日発行
株式会社創元社『大阪難読地名がわかる本』 創元社編集部編 2003年9月20日発行

2018年 11月01日 11時05分