銀ブラという言葉は、渋谷の「チーマー」に近かった?

銀ブラという言葉がある。銀座でウインドウショッピングをしたりしながらブラブラ歩くことだいう意味で今は使われている。

銀ブラという言葉は大正初期(1910年代)にはあったという。だが、どちらかといえば「あいつらは銀ブラだ」というように「遊び人」のイメージがあり、その意味合いは一昔前の渋谷の「チーマー」に近いかもしれない。

また、画家でカフェ・プランタンを創業した松山省三氏によると、「ブラ金」とか「ブラ何とか」とか、つまり人の名前の前にブラを付けて、あだ名のように使われたという。

銀座煉瓦街ができた当時の写真銀座煉瓦街ができた当時の写真

関東大震災後にモダンなイメージに一新

第1次世界大戦後あたりから「銀ブラ」 は、だんだん「銀座の散歩」という意味になっていった。ただし、日曜日の昼下がりのウインドウショッピングではなく、夕暮れから夜にかけての銀座漫步のことをいったようである。
平日のアフターファイブ、知っている誰かに会わないかなと思いながら、カフェや喫茶店をはしごするイメージだろうか。

この銀座が関東大震災によってまた変貌する。
銀座煉瓦街に象徴される高踏派のイメージが、もっとモダンではつらつとしたイメージに変わる。銀座の街は、店舗の前面や窓の飾りつけが新しくなり、照明は明るく輝き始めた。
客層も若返り、最新の流行の発信地としての銀座が再編成されたという。

銀座はカフェがたくさんあり栄えた銀座はカフェがたくさんあり栄えた

銀座通りの西側を歩くのが粋だった

銀座の歩く場所も現在とは違う。
銀ブラの常連は大通りの西側しか歩かない、といわれた。東側を歩くのは野暮であった。東側には伊東屋があり、松屋もある。人通りも多く、夜店も出た。メジャーな場所を嫌って、銀座の常連ぶる人は西側を歩いたのだろう。

この銀座の賑わいを東京市が調査している。
1936年(昭和11)9月17日から11月末日までの土曜、日曜、1日、15日、祝日、月末、8のつく日を除く晴天で風の弱い日から適当な日を選ぶ、という何だか複雑な条件で、当時の調査は行われた。

結果を見ると、三越前の午後5時から6時の1時間の通行量は4,906人。男女の内訳は、男性3,292人、女性1,614人。南向きの通行は3,314人、北向き通行は1,592人であった。

銀座の通行人。和装も洋装もあった。銀座の通行人。和装も洋装もあった。

銀座の当時の雑踏は、1980年代の渋谷公園通りに匹敵する

銀座の当時の1時間に1方向だけで3,314人という数は、相当な人出である。
私は1980年代にパルコに在籍し、毎月第1土曜日の午後1時から2時に渋谷公園通りなどの通行人の観測をした。公園通りを坂の下から上ってきてパルコの前を通り過ぎる人の数は、1980年代初頭の全盛期で男女合計約4,000人であった。女性だけだと3,000人ほどである。

つまり1936年の銀座三越前とだいたい同じである。
東京の人口が1936年と1980年代では相当違うことを考慮すると、当時の三越前で南向きだけで3,314人というのは途方もない数であろう。

モダンなカップルモダンなカップル

大雑踏というのは20世紀の大消費都市に独特な現象に?

1時間に約4,000人というと、1秒に1人以上である。
隊列を組んで行進をしてくるわけではない。2人組、3人組もたくさんいたと思われるので、1秒に10人くらい通ることもある。1時間に約4,000人というのは、それくらいの大雑踏である。

ちなみに同じ17〜18時、三越の反対側の服部時計店前は南北方向両方で3,006人、東西方向両方で3,872人。鳩居堂前が18〜19時、南北両方で3,838人。鳩居堂の向かいの早川亭の前で、17〜18時、南北両方3,099人。
重複もあるが、銀座四丁目交差点で約1万人以上の人々が、雑踏をなしていたのである。

今、1時間に4,000人の通行量があるストリートがあるのかどうかは知らないが、だんだんと東京のいろいろなところに商業・娯楽が発展したので、一ヵ所に集まる時代ではない。だから、きっとそんなストリートは今はないのだろう。

ましてや、現在コロナ対策で「密」が避けられる傾向は、今後もかなり長く続くだろう。
“大雑踏”というのは20世紀の大消費都市に独特な現象として、後世に記録されるのかもしれない。

参考文献
京橋区『京橋区史』1932

銀座には夜店もたくさんあった銀座には夜店もたくさんあった

2020年 07月21日 11時05分