「なにわ」の地名

東京には東京湾があり、大阪には大阪湾があるといったように、大都市の繁栄の陰には優れた港がある。

古代の大阪湾は、上町台地のあたりまで海が迫っており「茅渟(チヌ)の海」と呼ばれていた。大阪の古い地名である「なにわ」が「浪速」「難波」「浪花」「浪華」と表記され、「波・浪(なみ)」にまつわる地名がつけられたように、大阪の発展と海は切っても切れない関係である。

『日本書紀』によれば、初代天皇である神武天皇が九州から大和に東征する際、大阪湾あたりの潮の流れが速かったため、「浪速」の地名がついた。神武天皇は2600年以上前の人物とされているから、大阪は紀元前から海と深い関係があったのだろう。

垂仁天皇3(BC27)年には、新羅の王子である天日槍(あめのひぼこ)が妻の阿加流比売(あかるひめ)を追いかけて難波に渡来している。阿加流比売は東成区に鎮座する比売許曽神社に祀られており、上陸地もそのあたりだろうと推測できる。新羅からの客人も、難波にやってきていたのだ。

仁徳天皇元(313)年には上町台地の小高い丘の上に、天皇の宮として高津宮が造営されている。上町台地に鎮座する四天王寺も、推古天皇元(593)年に聖徳太子が建立した当時は、西門にある石鳥居から夕陽が海に沈むのが見えたという。現在に「夕陽丘」の地名が残っているのは、その理由によるようだ。古い時代の重要な建造物が、海に近い場所に建てられてきたことがわかる。

現在の大阪湾。古くより地名を「なにわ」と呼ばれ、「浪速」「難波」「浪花」「浪華」などの字が充てられた現在の大阪湾。古くより地名を「なにわ」と呼ばれ、「浪速」「難波」「浪花」「浪華」などの字が充てられた

外交の窓口として、大阪の発展を支えた「津」

「津」は船着き場のことで、大阪湾には難波津(なにわつ)や住吉津(すみのえつ)があった。
難波津は大阪湾に北向きに付き出した上町台地の先端にあり、『日本書紀』にも、「応神天皇13(282)年に、日向国の髪長姫が難波津に到着した」と、その名が記録されている。髪長姫は応神天皇の妃になるべく召し出されたが、その皇子である仁徳天皇が一目惚れをして、先に妻にしてしまったという。そんな美女を迎えた難波津は、利便性が良く、格式も高かったのだろう。

孝徳天皇元(645)年には孝徳天皇が難波に宮を置き、奈良に都が遷った後も国家的な交通の要衝で、大陸との外交や交流の玄関口、副都とされてきた。遣唐使船の多くも難波津から出発していたらしく、万葉集には「難波津に 御船泊てぬと 聞こえ来ば 紐解き放けて 立ち走りせむ」と、遣唐使の船出を詠んだ歌も掲載されている。天平5(733)年3月に山上憶良が、遣唐大使丹比広成(たぢひのひろなり)に贈った歌で、あなたが今乗る船が、無事難波津に戻ってきますようにという祈りのこもった歌だ。

多くの文化が渡ってきた「住吉津」

新羅の楽人の歌舞や百済の伎楽は、住吉大社で催行される祭りでその面影が見られる新羅の楽人の歌舞や百済の伎楽は、住吉大社で催行される祭りでその面影が見られる

難波津と並んで重要視されたのが、上町台地の南西端にあった住吉津。住吉の津に海の神を祀る住吉大社が鎮座するのも、古来この津から出港する船が多かったからに違いない。

また、住吉大社は、神功皇后が三韓(現在の韓国)から帰ってきた際、海路を守護した海神を祀ったのが起源だから、朝鮮半島や大陸からの船がこの地に着くことも多かったのではないだろうか。
唐からは多くの文化が渡来している。允恭天皇42(453)年の天皇の葬礼で、新羅王の命令により渡来した楽人が、歌い舞ったと『日本書紀』にあるし、推古天皇20(612)年には、味摩之(みまし)によって、百済から伎楽が伝来している。新羅の楽人の歌舞や百済の伎楽は、住吉大社で催行される祭りで演奏される音楽や舞に取り入れられており、現代でも、当時の文化交流を偲ぶことができる。

また、住吉津からも遣唐使船が出航しており、天平5年の入唐使に贈った「そらみつ大和の国 青丹よし平城の都ゆ おし照る難波に下り 住吉の御津に船乗り 直渡り 日の入る国に 遣はさる(後略)」という歌が、万葉集にのこっている。

難波津から渡辺津へ

大阪市の市章は「澪標(みおつくし)」を元に意匠化された大阪市の市章は「澪標(みおつくし)」を元に意匠化された

立地の良さから古代には重要視された難波津だが、航行の難しさとルートの関係から、中世には廃れてしまった。

そもそも難波津は浅瀬の多い大海原で、船の上から水脈(澪)筋を見分けるのが困難。だから、船が浅瀬に乗り上げたり、袋小路の水脈に迷い込んだりしないように、水脈と浅瀬の境に『澪標(みおつくし)』の航路標識を立てねばならなかった。澪標は難波津のシンボルでもあり、これを意匠化したものが大阪市の市章に採用されている。

そして785年、味生野に淀川から安威川に通じる運河が掘られ、航路が短縮されただけでなく、安全に航行ができるようになった。さらに平城京から長岡京に遷都した際、副都としての難波宮も廃止されたから、大陸から京に向かう船は難波津を通らずに、三国川河口の川尻を経て淀川に入るようになった。この三国川の津は、「大渡しの辺り」の意味を持つ「渡辺津」と呼ばれるようになる。

『扶桑略記』によれば、平安時代随一の貴人ともいえる藤原道長は、治安3(1023)年の高野山参詣の帰り、河内国を通って摂津四天王寺に立ち寄り、「国府大渡下」から乗船して淀川を通り、山崎の岸辺で下船したとある。この「国府大渡下」が渡辺津だ。11世紀後半から12世紀に王朝貴族の間で流行した熊野御幸は、都から淀川を下って渡辺津で船を降り、陸路を四天王寺、住吉大社と南下していた。平安時代の貴人も渡辺津を利用していたのがわかる。

ちなみに、渡辺津を支配していた渡辺党の首領の一人が渡辺綱。渡辺綱は酒呑童子を退治した源頼光の四天王とされる勇者で、津を支配していた集団が次第に力を持っていったのも推測できる。

中世以降の大阪を支えた堺

大阪湾の形は、土地の隆起によって時代とともに変わっていく。鎌倉時代には政治の中心が関東に移ったこともあり、大阪の津は発展しなかったようだ。

その後、室町時代中期ごろから自治都市が発達し、貿易港として栄えたのが堺だ。戦国時代になると、南蛮からの輸入品があふれ「東洋のベニス」と呼ばれていた。織田信長が千利休を重用したのは、茶道の大家としてより、堺の豪商だからだろう。堺は鉄砲の産地でもあり、江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷が今も残っている。

しかし、江戸時代に鎖国政策がとられると、堺の港も廃れる。幕末に、欧米の列強国から関西の開港が要求された際も、「天皇の陵墓に外夷が立ち入るおそれがある」と、古墳の多い堺は避けられてしまった。
そして明治以降、堺に代わる貿易港として発展したのが現在の神戸港だ。

しかし現在も大阪湾には多くの漁港があり、魚市場もあり、新鮮な魚を購入したり、味わったりできる。海を見ながら、湾岸都市としての大阪の歴史を偲ぶのも良いかもしれない。

■参考資料
清文堂出版株式会社『大阪の中世前期』 河音能平著 平成14年4月15日初版発行
関西大学皇陵崇敬会『難波津の研究』 八木博著 昭和6年8月初版発行
東方出版株式会社『遣唐使・遣隋使と住吉津』 住吉大社編著 平成20年6月25日 初版発行

室町時代中期ごろから自治都市が発達し、貿易港として栄えた堺の港室町時代中期ごろから自治都市が発達し、貿易港として栄えた堺の港

2018年 04月21日 11時00分