日本最古の橋が築かれた大阪

大阪の遠景大阪の遠景

江戸の「八百八町」に対して「八百八橋」というように、淀川河口地域を中心に発展し、東西・南北を貫いた堀川による運輸が経済を支えてきた大阪には、数多くの橋がある。
もし、大阪中心部にこれほどの河川がなければ運輸の発展もなく、「天下の台所」とも称えられる繁栄はなかっただろう。そしてもし橋がなければ大阪の町民は移動のたび川を渡らねばならず、町民の往来は盛んにならなかったはず。いわば川と橋が、大阪の成長を支えたのだ。

記録に残る日本最古の橋も、大阪に造られた。『日本書紀』の仁徳天皇14(326)年11月に、「猪甘津(いかいのつ)に橋を渡し。そこを名づけて小橋(おばし)といった」とあるのがそれだ。小橋にはたくさんの鶴がとまったことから「鶴橋」と呼ばれ、大阪市生野区の地名や駅名に残っている。

奈良時代までの橋

天保山大橋天保山大橋

「小橋」の名から考えても、仁徳天皇の時代に架けられた橋は大きなものではないだろう。
しかし、奈良時代になると律令国が誕生し、推古天皇21(613)年には「難波より京に至る大道を置く」と日本最古の官道が造られるなど、交通網の整備が行われており、大きな橋の造営も行われていたらしい。また、推古天皇20(612)年に百済から渡来した人が、宮殿の南庭に須弥山(しゅみせん)や呉橋を造営し、路子工と呼ばれたことも『日本書紀』にあり、このころには観賞用の橋が造営され始めたとわかるのだ。
そして、蘇我氏ら有力豪族が、海外の文化を取り入れるために難波から頻繁に船を出航させるようになると、河内湖から大和川や大川(旧淀川)は重要な水運路となる。
同時期に編纂された『万葉集』には、赤い塗装が美しい河内の大橋をはじめ、橋が多く詠まれており、各地に大きなものや小さなもの、さまざまな種類の橋が架けられていたことが偲ばれる。
当時の橋は、河原の石を飛び石のように並べた「石橋」や、河の中に板や丸木を渡しただけの「打橋」などが多かったようだが、河川の中に橋脚を立てて、その上に板を渡した「棚橋」など、現代の橋に近いものもあったようだ。

その後、孝徳天皇が難波長柄豊崎宮を築いた白雉3(652)年ごろには、大河川にも橋が架けられるようになる。造営作業の中心となったのは布教中の僧侶たちで、架橋や道路の整備により、人々の心を掌握していったらしい。特に大阪では行基が築造した山崎橋や泉川橋、高瀬大橋などが知られている。

中世にも大阪には数多くの橋が造られている。詳細は判然としていないが、僧侶達のほか、地方の有力な武士団が、権力を示すために橋梁を建設することも多かったようで、たとえば大川にかかる渡辺橋は、渡辺の津を本拠地とした渡辺党が架けたものとされる。

豊臣秀吉の時代に増えた橋

淀屋橋の風景淀屋橋の風景

大阪に立派な橋が増えたのは、豊臣秀吉の時代。天正11(1583)年に大阪城築城が開始されると、有力商人たちを中心として、堂島や曽根崎新地、堀江新地など川辺の町が開発され、東横堀川や西横堀川が完成して水運路が確保された。関ヶ原の合戦を記録した『当代記』には、東横堀川には浜の橋、高麗橋、平野町橋、淡路町橋、備後橋、本町筋橋、久太郎町橋、久宝寺町橋、鰻谷橋、横橋が架けられていたとある。
さらに江戸時代になって京街道が整備されると、旧大和川には京橋、備前島橋などが架けられる。江戸幕府は、軍事的見地から「公儀橋」を選んで直轄管理し、官費で補修や架け替え工事を行った。公儀橋は大川にかかる天満橋・天神橋・難波橋のいわゆる「なにわの三大橋」をはじめ、旧大和川にかかる京橋と鴫野橋、鯰江川にかかる備前島橋、東横堀川にかかる高麗橋・本町橋・農神橋、道頓堀川にかかる日本橋、そして長堀川にかかる長堀橋だ。

明治になると大阪市電が誕生し、淀川の改修が行われて市電のための橋も多数造営される。大正末にスタートした第一次都市計画事業でも、大阪港の開港や新淀川の開削が行われ、新たな橋が架けられたり、架け替え工事が行われたりした。

今も残る大阪の橋

それでは現代にも残る橋について、それぞれの歴史や物語を見てみよう。

なにわの三大橋
ライオンの像で知られるのは、なにわの三大橋のひとつ、難波橋。橋の北詰と南詰には狛犬のように口を開けた阿形と、口を閉じた吽形の一対が向かい合わせになっているが、これは難波橋から16の橋が見えたことに由来する。4×4=16(ししじゅうろく)にかけた洒落になっているのだ。
難波橋のほかになにわ三大橋と呼ばれた天神橋は鋼製のアーチ橋で、天満橋はガーダー橋。現代の姿に大きな特長はないが、天神橋は日本一長い商店街にその名が冠されていることで有名だろう。

淀屋橋
淀屋橋は大阪市内でも特に大企業が集まり、中央公会堂や中之島図書館などの文化財もある中之島東部一帯の地域名ともなっており、大阪でもっとも有名な橋の一つと言ってよいだろう。しかし江戸時代まで御堂筋は細い路で、淀屋橋も豪商の淀屋が米を運ぶために架けた橋だった。大正期の大阪市の第一次都市計画事業で御堂筋が大阪の目抜き通りになると、昭和10(1935)年には公募されたデザインで、鉄筋コンクリートの淀屋橋が完成。そして、平成20(2008)年には、都市景観の形成に大きな役割を果たしているとして国の重要文化財に指定されている。

本町橋
豊臣秀吉の大阪城築城とほぼ同時期に架けられたのが本町橋だ。大阪市で現役の橋としては最古のもので、江戸時代には幕府が維持管理する「公儀橋」として、商人達の賑わいを支えた。しかし享保9(1724)年の火事で焼失するなど、何度か架け替えが行われ、大正2(1913)年の大補修で、上部にバルコニーのある近代的なデザインとなった。

心斎橋
公儀橋の本町橋に対して、町橋として大切にされてきたのが心斎橋。有力な商人達が率先して架橋事業を推し進めたとされ、『浪華長塹心斎橋記』という古文書には、元和8(1622)年に、美濃屋岡田心斎が中心となって架橋したと書かれている。木橋であり、何度か架け替え工事が行われたが、町橋のため、計画から工事まで町民が行わなければならない。老朽化が進むと橋詰めの四つ角の人々が集まって架け替えに関する提案を行い、町年寄を集めて詳細を決定。奉行所の許可を得て入札を行い、工事をしていたようだ。

現代の大阪にも、歴史のある橋がたくさん残っている。陸路を歩いて橋めぐりするのも良いが、水上バスに乗れば、川の上から難波橋を見ることができるし、夜にはライトアップも楽しめるから、水の都大阪の魅力に注目してみてほしい。

■参考
株式会社松籟社『八百八橋物語』松村博著 1984年1月10日発行
財団法人大阪市土木技術協会『大阪の橋 大阪市における橋梁技術のあゆみ』平成9年3月20日発行
明治安田生命保険相互会社大阪総務部関西を考える会『関西の橋づくし、橋めぐり』 2015平成27年6月発行

左右に4×4=16の橋が見えるので、ライオン像がシンボルとなっているとされる難波橋左右に4×4=16の橋が見えるので、ライオン像がシンボルとなっているとされる難波橋

2018年 08月21日 11時05分