花街と遊郭の成り立ち

京都の旧遊郭「島原大門」京都の旧遊郭「島原大門」

そもそも、花街とはなんだろうか。
吉原を代表とする江戸時代までの花街は、遊女たちが芸を披露しつつ、春を売る場所だった。しかし、明治33年(1900年)に発布された「娼妓取締規制」により、一定の空間の内部における売買春が認められると、他所におけるものは警察に取り締まりをうけることになった。その結果、春を売る娼妓は遊郭で、芸を披露する芸妓は花街と、区別されるようになったとされる。しかし実状は、遊郭に芸妓が在籍することもあれば、花街に娼妓がいることもあり、重なり合っていたようだ。

現代において、芸妓のいる花街は、京都五花街(祇園甲部・先斗町・上七軒・ 祇園東・宮川町)や東京六花街(新橋・赤坂・神楽坂・芳町・向島・浅草)などが有名だが、芸妓を置く「置屋」からさまざまな座敷に芸妓を派遣させる形態なので、その範囲が把握しづらいらしい。「花街」の研究書でも、遊郭について書かれたものが多く見受けられる。

神話の遊女と歴史

花魁の姿花魁の姿

近代にいたるまでは娼妓と芸妓の明確な線引きもなく、遊女と総称されていた。
大正4年に発行された『遊女の種類』によれば、遊女の起源がいつであるかはっきりしないが、『日本書紀』や『古事記』に登場する天鈿女(あめのうずめ)がその祖と考えられている。天鈿女は、天照大神が天岩戸に隠れた際に神楽を踊った女神だ。舞いながら女性器を見せたところ、神々がどっと笑ったので、天照大神が「何事か」と顔を出した。天鈿女は、天照大神の孫にあたる瓊瓊杵(ににぎ)が高天原から地上に降臨した際、待ち受けていた猿田彦に対しても、女性器を見せて脅かすくだりがある。天鈿女に娼妓の面影があることは無視できないだろう。

住吉大社の御田植神事では、植女(うえめ)と呼ばれる女性たちが、華やかな舞を踊り、田の神に豊作を祈るのだが、古来、植女役を担ってきたのは堺の遊女たちだった。住吉大社の解説によれば、そもそもこの祭りは、3世紀の初めに神功皇后が三韓(現在の韓国)から凱旋して住吉大社を創建した際、住吉大神の御供田として神田を定め、長門国(現在の山口県)から植女を召したことに始まると伝えられる。そしてこの植女たちの末裔が後に堺の遊女になったと言われるのだ。

万葉集にも蒲生娘子や大宅娘子などの「遊行女婦」の歌が収められている。遊行女婦は宴席に招かれて歌舞を演じる女性だが、春も売っていたようだ。
平安朝には遊女という職業も生まれ、『撰集』などに記録されている。また、平安朝末期から鎌倉時代に活躍した白拍子は、貴族や武士の宴席で男装をして舞うと同時に、夜の相手もつとめた。源義経が愛した静御前も白拍子だ。

織田豊臣時代になると、出雲の阿国が歌舞伎を創始するが、阿国は歩き巫女と呼ばれる布教行脚の遊女だったとされる。出雲大社の巫女を名乗ったため「出雲の阿国」と呼ばれるのだ。京都四条河原で興業された遊女歌舞伎も、出演者すべて遊女だったらしい。江戸時代には江戸に吉原遊郭、大阪では曽根崎遊郭などが登場し、花魁や太夫などの高級遊女も生まれる。彼女たちに相手をしてもらうには、何度も遊郭に通い詰め、大枚をはたかねばならなかった。

そして、人気の遊女は優遇された。大阪の遊女は、近松門左衛門の人情物にも数多く登場するが、『曽根崎心中』のお初など、人気遊女は多くの男たちが憧れるアイドル的存在で、置屋の主人も丁重に扱っている。その一方で、親に売られて遊女となり、ひどい扱いを受ける女性たちもいた。遊女にもさまざまあるのだ。

大阪における遊郭とは

和本「大阪 新町遊郭」和本「大阪 新町遊郭」

さて、大阪における遊郭の歴史を見ていこう。
大正から昭和初期に活躍した川柳作家・岸本水府によれば、当時の大阪には、江戸時代に創設された新町遊郭、堀江遊郭、曽根崎新地組合、南地五花街(宗右衛門町・九郎右衛門町、櫓町、阪町、難波新地)、明治初年に創設された松島遊郭、大正初期の飛田遊郭、大正後期の住吉同盟組合、南陽組合、昭和初期に創設された今里新地組合と、遊郭が9箇所あったようだ。

そして、花街には芸妓と娼妓がおり、娼妓にも「送り込み」と「てらし(居稼)」の2形態があったと書いている。「送り込み」は現代の芸妓や舞妓と同じように、通常は屋形におり、客から呼ばれれば茶屋に出かける。一方「てらし」は、妓楼に住んで部屋を与えられていた。

江戸期に生まれた新町遊郭と堀江遊郭、そして曽根崎新地、南地五花街は送り込みが主だった。しかし例外もあり、たとえば新町の郭内は、娼妓を主とする東側と、芸妓を主とする西側に分化していて、さらに「てらし」の娼妓も少数ではあるが存在していたようだ。

反対に、松島遊郭と飛田遊郭はてらし専門で、「貸座敷」の形態をとっていた。つまり、てらしの遊郭はより近代的であったと言えるだろう。松島遊郭誕生の背景は、明治政府によって意図的に、「悪所」に遊女屋などが集められたことにあるようだ。明治2年8月に発布された大阪府の府令「茶屋置屋業許可ノ件」では、遊女屋や芝居小屋を現在の松島遊郭に移転するよう促している。

飛田新地も明治45(1912)年に起きた難波新地の大火により、代替地として大阪府が意図的に創設したもの。大火の4年後にあたる大正5(1916)年、大阪府は、東成郡天王寺村の大字天王寺東、松田西、松田、稲谷、堺田の一部、約2万坪の土地で、「貸座敷」の営業を許可すると指定した。これが飛田遊郭だ。

そして、大正後期以降に誕生した住吉同盟組合や南陽組合、今里新地組合は「芸妓居住地」として指定されたものだ。つまり、娼妓ではなく芸妓たちが演舞を披露する場だったのだが、そこに建設された売店や飲食店の中には「待合風の料理店」が多く含まれていた。「待合」とは席料だけをとる形態で、料理は仕出し屋などから取り寄せる。宿泊用の寝具も備えており、そこで一夜を過ごす客も多かったというから、実態は「貸座敷」に他ならないだろう。
大阪に残っていた遊郭は、誕生した時代により誕生の事情も、その様子も違ったのだ。

遊女は、暗いしいたげられた歴史の部分も多い。しかし天鈿女や神功皇后の植女の神話の例を見てもわかるように、歴史や文化のひとつであることはいなめない。
外国においても、たとえばメソポタミアの『ギルガメッシュ叙事詩』では、ギルガメッシュを助けるのは聖なる遊女だし、金星の女神・イシュタルは遊女の女神でもある。ギリシャ神話のアフロディテは愛と美の女神だが、ウラノスの男性器から生まれた遊女の女神という側面もある。古今東西を問わず、どこにも遊女はいて神話や歴史に数々の影響を与えているようだ。

村上静人著 東京堂書店 大正4年10月28日発行『遊女の種類』
朝日新聞社 加藤政洋著『花街 異空間の都市史』 2005年10月25日発行

2018年 07月06日 11時05分