大阪に現存する「世界最古」の建築会社

今年のお正月、どこかへ初詣をしただろうか。近所の氏神様に行く人もいるし、有名な神社や寺院へ出向く人も少なくない。参拝客の多い初詣先には、明治神宮や成田山新勝寺、川崎大師、伏見稲荷大社、鶴岡八幡宮、浅草寺、熱田神宮、住吉大社などの名が挙がる。神社も寺院もあるが、平成最後の新年となった今年の初詣は、例年以上に注目が集まった。

大阪市内に住む私は今年のお正月、いくつかの社寺へ初詣に行ったが、天王寺区にある「四天王寺」も訪れた。ここは聖徳太子建立七寺の1つとして知られ、593(推古元)年に建てられた。高校生の時、日本史の授業で、「四天王寺式伽藍配置」を学んだことを思い出す。南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む。日本で最も古い建築様式の一つで、その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な建築様式とされている。寺の中には国宝や重要文化財の建築物や美術工芸品も多い。
しかし、今年のお正月には、意外な風景が四天王寺にあった。中心伽藍には入れず、見られる一部の建物だけに参詣客が並んでいたのだ。2018年9月4日、日本に上陸した台風21号による暴風で、大きな被害を受けた近畿地方の建築物は多い。四天王寺もその一つで、お正月もまだ修理中だったのだ。
それを見て思った。この四天王寺は、聖徳太子ではなく実際には誰が建て、誰が修理してきたのか、と。

社寺建築の歴史を紐解こう。日本に仏教が伝えられたばかりの6世紀、百済の国から、金剛(こんごう)、早水(はやみ)、永路(ながみち)という3人の工匠が招かれた。当時の日本には、本格的な寺院を建てられる技術者がいなかったため、いわば仏教建築の先進国から派遣してもらったわけだ。
その1人、金剛重光(こんごうしげみつ)は、聖徳太子から、日本で最初の官寺、四天王寺の建立を命じられる。主要部が完成するだけで十数年、ほかの伽藍が完成するまでさらに時間を要した。
この金剛重光を初代として、578年に創建された宮大工集団が金剛組だ。この金剛組は、今も大阪市天王寺区に本社を構える、日本で最古の社寺専門の建築会社である。古代の資料が残っておらず、詳細な資料は最近400年ほどしか整っていないためギネスへの登録申請はしなかったが、おそらく世界でも最古の建築会社と思われる。

日本で最古の官寺「四天王寺」は、593(推古元)年、金剛家の初代、金剛重光が建築した。これは明治・大正時代の四天王寺金堂と五重塔日本で最古の官寺「四天王寺」は、593(推古元)年、金剛家の初代、金剛重光が建築した。これは明治・大正時代の四天王寺金堂と五重塔

6世紀から四天王寺の正大工職を務め、技術を磨き続ける

日本では6世紀に仏教建築が始まり、8世紀に遣唐使を通じて中国様式が入ってくる。9世紀末に遣唐使が廃止されてから鎌倉時代までは、大陸文化の影響を受けず、日本の国土や習慣に合わせた独自の様式「和様」が発達する。
13世紀に中国から「大仏様」「禅宗様」という建築様式が入り、14世紀、鎌倉後期から室町にかけて、和様と禅宗様のハイブリッドな「折衷様」も生まれる。
各時代の宮大工たちは、さまざまな工夫をしながら、建築技術の向上と伝承に挑んできた。材料を継いで長くする「継手」(つぎて)も、直角に交差する「仕口」(しぐち)も、独特の技法を生み出し、その技を磨いてきた。

金剛家の当主は代々、四天王寺の「正大工職」(しょうだいくしょく)を拝命してきた。四天王寺のお抱え大工であり、会社の歴史の9割近くの時期を、四天王寺のために働いてきた。現在の四天王寺は、3万3,000坪(約11万m2)、甲子園球場の3倍の広さを有しているが、かつては今の5〜6倍の広さがあったという。それだけの大きさの寺院の建築や改修を、金剛組は一手に引き受けてきた。
金剛組の棟梁(正大工職)は、初代の重光から39代目の利隆まで「金剛」の姓だが、すべてが直系ではない。血縁男子であっても能力がなければ外され、棟梁として優秀な人を養子として迎えた。
「創業時代から現在に至るまでずっと四天王寺さんの正大工職を拝命しておりますが、明治の初めの神仏分離令までは、仕事のほとんどが四天王寺さんだけでした。その間、大変な努力をしたのだと思います。技術がなかったら続かなかったでしょうしね。実力主義を貫き、血縁男子を優先せず養子も女性棟梁も厭わなかったのは、宮大工をはじめとする職方をまとめあげる能力そのものを重視する教訓があったからでしょう。そして、仏様と神様の家をつくっているという自負は、時代を超えて大きかったと思います」と現在の金剛組トップ、刀根健一社長は話す。

金剛組が生き続けてきたのは、四天王寺を護るために常に仕事をしてきたからであり、その間に1400年を超えて生き残るだけの技術を培い、承継してきたからといえる。

各時代の宮大工は建築技術の向上と伝承に励んだ。材料を継いで長くする「継手」(上)、直角に交差する「仕口」は、その代表的な技法の1つ各時代の宮大工は建築技術の向上と伝承に励んだ。材料を継いで長くする「継手」(上)、直角に交差する「仕口」は、その代表的な技法の1つ

金剛組の危機を救ったのは38代目の女性棟梁

刀根健一金剛組代表取締役社長。1954年生まれ。73年髙松建設入社、2001年同社取締役、04年青木あすなろ建設常務執行役員大阪建築本店長、05年青木マリーン取締役、11年金剛組専務執行役員を経て、12年から現職刀根健一金剛組代表取締役社長。1954年生まれ。73年髙松建設入社、2001年同社取締役、04年青木あすなろ建設常務執行役員大阪建築本店長、05年青木マリーン取締役、11年金剛組専務執行役員を経て、12年から現職

日本の社寺建築の歴史には、危機と再生が織りこまれている。
まずは、日本史上のいくつもの戦争や天災のたびに、社寺建築は焼失したり、崩壊したり、傷んだりした。
1868(明治元)年、新政府が神道国教化の方針から神仏分離令を出すと、神仏習合の風習が否定され、廃仏毀釈運動が起きた。これによって、全国の多くの寺院が廃寺となり、価値の高い建築物や仏像が大きな被害を受けた。明治時代以降、四天王寺は寺領を失い、金剛組は四天王寺からの禄を減らした。その後、四天王寺をベースにしつつも、四天王寺以外の社寺建築に進出せざるをえなくなった。

さらに大きな危機が1932(昭和7)年に訪れた。37代、金剛治一棟梁は職人気質が強かった上、昭和恐慌の煽りも受けて、経営を極度な困窮にさらしてしまう。これを先祖に詫びるため、墓の前で自殺した。
あとを継いだのは妻のよしゑさんで、初めての女性棟梁となって金剛組を取り仕切り、四天王寺で培った技術を全国に売り込みに行く。営業に秀でた「なにわの女棟梁」が、老舗の立て直しに奔走する。1934年、室戸台風で崩壊した四天王寺五重塔の再建を引き受けたことが、会社の危機を脱する突破口となった。

第2次世界大戦中は、神社関係の仕事はあっても、寺院関係の仕事は途絶え、経営は不安定となった。戦時下は政策的に企業統合が行われ、金剛組も他社と併合される危機に直面したが、よしゑ棟梁は軍事用の木箱を製造することで、かろうじて会社の命脈を保つ。
1955(昭和30)年に法人化、株式会社金剛組となり、よしゑ棟梁は、代表取締役社長となる。営業活動によって顧客は徐々に広がってきたし、戦争や台風、地震などの災害に傷んだ建築物を復興する過程で、防火・防災・経済性に優れた鉄筋コンクリート工法による建築技法にも着手した。

大きな転換点となるのは、よしゑさんの三女と結婚し、金剛家に入った利隆氏が39代を継いだ1967(昭和42)年以降だ。それまで社寺専門だった金剛組が一般建築にも携わるようになり、東京にも進出。しかし、一般建築では大手ゼネコンとのコスト競争に勝てず、売上高はピーク時の130億円から75億円へ下がる。事業の幅を広げ過ぎたことが敗因だった。
そこへ「金剛組を潰すのは大阪の同業の恥」と支援の手を差し伸べたのが髙松建設で、利隆さんは著書「創業一四〇〇年」で「金剛組は、大阪という街が育んだ企業の義理と人情で救われた」と書いている。
06年、髙松建設が全額出資した新しい金剛組に、従来の金剛組から営業権を譲渡させ、従業員の大半を移籍させ、新生・金剛組として再出発した。2008年には親会社の持ち株会社移行に伴い、金剛組は株式会社髙松コンストラクショングループの一員となった。
創業者の金剛家は、新会社の経営から離れ、髙松建設から小川完二社長を迎え、2012年から刀根健一社長が就任している。
「建築を勉強していた学生時代に、社寺建築は見学に行きましたが、自分のキャリアの最後にそれに携わることになるとは意外でもあり、感無量でもあります」と刀根社長は話す。

金剛組専属の宮大工には、金剛家の弟子という意識が強い

2006年以降、社寺専門の建築会社という本来の姿に戻った金剛組は、宗教法人からの発注と、国などから発注される文化財関係の事業を営んでいる。

社寺の建築や修復には、数年から数十年単位のスパンが必要だ。建築会社にとっては、その間、仕事が途切れないのがメリットなのだが、竣工後、数百年にわたって使われ続ける建築物だからこそ、手を抜くことは一切許されない。一般建築とは事情が異なる点は少なくない。
金剛組の建築技術を支えてきたのが専属の宮大工だ。
金剛組での会社と宮大工の関係は、現代の会社と社員の関係とはやや異なる。
金剛組は社寺を専門としているものの、ゼネコンと同じように営業部や工事部、積算部、設計部などの組織があり、企画提案型の開発営業をしている。「調査させてください」と申し出て、社寺の床下や屋根裏に入り、傾きや蟻害、軒裏の雨漏りから建築物の傷み具合を調べたり、社寺の困りごとを聞きながら、新築、改修とも一緒にかかわっていくのが営業スタイルの特徴だ。事業化にあたっては、企画から合意形成、設計、契約、施工、保全と時間をかけ、社寺と長い関係を構築する。

一方、お堂や山門、塔、鐘楼、神社などの建築や改修に携わる宮大工の技術は、初代金剛重光以来、師弟関係を通じて伝えられてきた。宮大工の採用や教育は棟梁に委ねられており、棟梁と宮大工の絆は太い。
金剛組の宮大工は、金剛組に「専属」している技術者だが、社員ではない。加藤組、土居組・・など関西に6組、関東に2組に分かれ、8組総勢で100人ほどが属している。8組は「匠会」という組織を作り、木内組の棟梁が匠会の会長を務めている。
各組の作業場として、金剛組は大阪で2,000坪、東京で1,500坪に及ぶ大きな加工センターを提供している。センターにかかわる家賃も光熱費も、金剛組負担だという。組が違う者同士でも、一緒にここで作業をするし、仕事に応じて全国の現場で泊まり込んで働くこともある。
各組の棟梁は自分の組の社長だが、月に1回、金剛組の本社にきてもらい、刀根社長もほぼ月1回は加工センターに出向く。

一般的な会社員の働き方とか、親会社と協力会社の関係と比べると、随分違う。
「宮大工それぞれは切磋琢磨しあう関係で、組が違っても同じ技術品質を保って金剛組を形成し、それが金剛組の強さと言えます。師弟関係を伝承していく過程で、今も〝金剛家の弟子〟としての意識が強いのです」(刀根社長)
落慶法要が行われると、「金剛組のおかげで、使い勝手のいい寺になったなぁ」と言われるそうだ。建物の外見だけでなく、その細部にも1400年超のノウハウがつまっているからだろう。

西国33か所第1番の和歌山県の那智山青岸渡寺の三重宝塔の建築(左)、国指定重要文化財の総本山四天王寺五智光院の保存修理(右上)、コンクリート造で再建した四天王寺和宗総本山四天王寺金堂(右下)、すべて金剛組によって手がけられた西国33か所第1番の和歌山県の那智山青岸渡寺の三重宝塔の建築(左)、国指定重要文化財の総本山四天王寺五智光院の保存修理(右上)、コンクリート造で再建した四天王寺和宗総本山四天王寺金堂(右下)、すべて金剛組によって手がけられた

楽観視できない社寺建築市場で、次の100年をどう狙うか

1802年、32代棟梁の金剛喜定が記した遺言書「職家心得之事」が、今も金剛組の精神として残されている。読み書き算盤を学ぶ、仕事を一生懸命にする、身分に過ぎたことはしない、大酒を慎む…など、当たり前のようだが、現代にも通じる「職業人」としての教訓だ。

「社寺建築の寿命は最低でも300年、金剛組はそんなスパンでかかわり、建築に対する評価が数十年後になされるのはごく当たり前ですが、その間、多くの人々に見られるからこそ、やりがいもあるし、見えないところで手を抜くわけにはいかないのです。今も、社寺の天井裏や床下、棟札に昔の大工の名前が書いてあり、どんなにいい仕事をしたかがわかります。最近、現代の宮大工たちではどうしても解けない『継手』がありました」(刀根社長)

木造の社寺建築では、木組(きぐみ)が大事で、金物に頼らないところが宮大工の腕の見せ所という。そのためには木の特性を知っていることが大切で、長年にわたって培ってきたたくさんの知恵と工夫が使われている。
「どんなに乾燥させても、木は暴れてねじれていく。木をまっすぐに立てているのは、実はすごい技術です」と刀根社長は話す。
電動工具を使う工程はあっても、最後の仕上げは必ず手作業だ。宮大工がカンナをかける薄さは3ミクロンで、それだけ薄いと表面が滑らかになり、水をはじき、汚れにくい。機械でカンナをかけると表面が毛羽立つ分、水をはじかず、そのため数年後には汚れが目立ってしまうという。
「途中まで機械・工具を使ったとしても、最後は手カンナ、手ノミとするのは、最高品質で長寿の建築物にするためです。宮大工が1日2,3時間は刃を研いでいるのは、それが必要だから。湿度が違うと仕上がりも違いますね。建築物も、飾り金具も、仏具もみな、手作業の塊ですから、社寺建築は坪単価で350万円前後の世界になります。それで200年、300年間、建物を生きさせるのが、一般の建築と大きく違う点です」(刀根社長)

ただ、悩みも少なくない。建築のスパンが長いため、年によって売り上げがばらつく。金剛組の売上高はこの12年間を平均すると42億円。現在、社員は97人、専属の宮大工が100人前後で、ピーク時は、もっと多かったが、スリム化した結果という。

文化庁「宗教法人年鑑平成29年版」によると、全国の宗教法人数は181,497法人(2016年12月31日現在)。全国のコンビニエンスストア数の55,743店(一般社団法人日本フランチャイズチェーン協会調べ、18年12月現在)より3倍以上多い。そう聞くと、社寺建築の市場は大きいように思えるが、この業界の課題は深刻だ。
まず、少子高齢化や人口減少、地方都市の衰退、宗教離れなどから、信者(*)の数は減っている。境内建物を有する単位宗教法人の内訳は、神道系が84,860法人(46.9%)、仏教系が77,168法人(42.6%)、諸教14,380法人(7.9%)、キリスト教系4,690法人(2.6%)だが、すべての宗教法人で信者数は減っており、宗教法人の着工数は右肩下がりを続けている。宗教法人の建築に対する事業費用は、信者からの寄付や瓦懇志(寄進)などで賄われている。寄付が想定通りに集まらずに、着工が遅れるケースも少なくない。

(*)宗教法人によって、氏子・檀徒・教徒・信者・会員・同志・崇敬者・修道者・道人・同人など呼称は異なる

そのほか、古い建築物の中には現在の法令では既存不適格となり、再建築ができず、改修を重ねるしかないケースもある。昨今、激しくなる一方の地震や水害などの天災被害で、建築物が根こそぎ傷むこともある。
社寺建築の材料はヒノキが中心だが、国内では大きな樹木が取れなくなり、海外産を使うようになった。国内でも、ヘリコプターで運搬しないといけない深い山に、五重塔の心柱の材料を求めることもある。
また、大学で建築を学んでも、社寺の設計図はすぐには書けない。宮大工が一人前になるには10年以上かかる。
問題は多方面に山積している。

39代金剛利隆書「創業一四〇〇年」に、こんな一文があった。
「老舗とは『為似せ(しにせ)』です。つまり、先祖伝来の教えを継ぎ、守勢に徹することを意味しています」
金剛組は、1400年をかけていくつもの危機を経験しながらも技術を守り続け、社寺建築専門という原点に戻った。防御は最大の攻撃ともいう。次の100年、200年をどう守り、どう攻めていくのか、新たな知恵が問われている。

参考文献「創業一四〇〇年 世界最古の会社に受け継がれる一六の教え」(金剛利隆著)

大阪市天王寺区四天王寺1丁目にある金剛組の本社(左上)。プレゼンテーションや営業活動に行く時は、社内にある神棚に書面をいったん預けてお参りをしてから出向く。刀根社長の右は、32代棟梁、金剛喜定が手がけた四天王寺金堂の設計図、左は昭和15年に再建した四天王寺五重塔大阪市天王寺区四天王寺1丁目にある金剛組の本社(左上)。プレゼンテーションや営業活動に行く時は、社内にある神棚に書面をいったん預けてお参りをしてから出向く。刀根社長の右は、32代棟梁、金剛喜定が手がけた四天王寺金堂の設計図、左は昭和15年に再建した四天王寺五重塔

2019年 02月17日 11時05分