国宝第1号に指定されていた近代城郭御殿の最高傑作

10年におよぶ復元計画を終え、名古屋城本丸御殿がついに完成した。2009(平成21)年1月に着手した復元工事は、市民などからの寄付50億円を含む総事業費約150億円をかけた名古屋市の一大プロジェクトだった。スケジュールは全3期に分けられ、2013(平成25)年に第1期、2016(平成28)年に第2期が完成して、順次公開。そして、2018(平成30)年6月8日に第3期部分がお披露目を迎えた。

名古屋城は、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いたとされる。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに勝利した家康は、大坂城の豊臣秀頼との戦いに備え、江戸城、彦根城、駿府城などの築城・拡張を行った。そうして大坂城包囲網を形成していく中で、江戸と大坂の間にある尾張国(現在の愛知県西部)を重要な防衛拠点として整備。1609(慶長14)年に名古屋城築城を発令し、翌年に石垣が完成、1612(慶長17)年には天守が完成した。

1615(慶長20)年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅びるが、名古屋城は戦場にはならなかった。そんな中で、本丸御殿は、この年の1月に完成。翌1616(元和2)年に家康の九男である義直が初代藩主として正式入城し、本丸御殿を住まいとした。

だが、実際に義直が住んだのはおよそ5年。義直が城内の二之丸御殿に移り住んだあとは、3代将軍・家光らが上洛した際の宿泊所として使われた。

そんな歴史を持ちつつ、当時の一流の職人たちによる最先端の技術を結集した名古屋城本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作といわれた。天守閣と共に1930(昭和5)年に国宝第1号に指定されたが、残念ながら1945(昭和20)年5月に空襲で焼失してしまう。

戦後の復興で1959(昭和34)年に天守閣は再建されたが、本丸御殿は平成になってようやく復元されたのである。

名古屋城の天守閣と本丸御殿名古屋城の天守閣と本丸御殿

奇跡的に残されていた膨大な資料により、細部に至るまで復元が可能に

<写真左上>名古屋城で配布されているパンフレットより本丸御殿の平面図。3期の工事工程が色分けされている。総面積は3,100平方メートル、13棟の建物からなる<写真右上>大天守と小天守と本丸御殿<写真左下>上台所の天井部分<写真右下>安藤ハザマ・吉原一彦所長。第1工期の途中から約6年間、本丸御殿の施工を担当した<写真左上>名古屋城で配布されているパンフレットより本丸御殿の平面図。3期の工事工程が色分けされている。総面積は3,100平方メートル、13棟の建物からなる<写真右上>大天守と小天守と本丸御殿<写真左下>上台所の天井部分<写真右下>安藤ハザマ・吉原一彦所長。第1工期の途中から約6年間、本丸御殿の施工を担当した

名古屋城本丸御殿は、焼失前と同等の歴史的文化価値を有する建物となるよう、原則として旧来の材料・工法で進められた。最初に造られた時から幾度か増築されているが、3代将軍・家光の上洛に伴い「上洛殿」が建造されたことにより最も格式が高まった1634(寛永11)年が復元の時代設定とされた。

復元工事の施工を担当したのは、安藤ハザマ・松井・八神特別共同企業体。今回、安藤ハザマの吉原一彦所長に、工事で苦心したところや建築のポイント、見どころなど、話を伺った。

先に復元の方法を“原則として旧来の材料・工法で”と記したが、この名古屋城にはそれができるだけの資料が残されていたのである。「(城郭では)日本一残っているのではないかと思います。名古屋城が焼失した昭和20年にはすでに写真の技術がありました。そして、足場をかけて測量もしていたので、まったく同じサイズのものが造れるんです」と吉原さん。

城の建物についてのみならず城内の慣習までも子細に記された全64巻にわたる「金城温古録(きんじょうおんころく)」や昭和の戦前に作成された309枚もの実測図、約700枚の古写真など。それに加え、襖絵など障壁画は戦時中に別場所に保管されており、焼失を免れていた。

ただ、豊富に資料があるがゆえに「時間がかかるんです」と吉原さんは言う。「図面や障壁画、飾金具など、ありとあらゆるものが残っているとはいえ、ないものもあるわけです。そうするとそこは想像で協議しなければならない。残っているものから検討して、ない部分のパーツをパズルのように当てはめたり、食い違いが出てきたりということもありました。図面だけだったところが、あとから写真が出てきて、図面になかったものがあったりと。仮に資料がなければ、同じ時代で今に残っている建物、例えば本丸御殿だったら京都の二条城を真似るという考えもあります。この本丸御殿は資料がいっぱいあるがゆえに検討する時間も要しました。だけど、かなり正確で、ほとんど同じものになっていると思います」。

今回の復元では、第1期で玄関など4棟、第2期で対面所など5棟、第3期で4棟が造られた。十分な検討をしても、実際に造った建物の一部を壊さざるを得なかったこともあるという。「通常であれば、構造的には問題がなく、デザイン面だけだったら1本多くてもそのままということがあるかもしれないですが、今回の復元では許されません。10年の工期で数は少ないですが、ゼロではなかったですね」。

あとから資料が出た例では、将軍の宴席の食事を作っていた上台所の屋根の部分がある。煮炊きをするため屋根に煙だしのある構造になっているが、最初の段階では無かった。「まだ1年前に決まったからよかったですね。木材は集めていましたが、まだ造っていなかったので、施工図を直すだけの話ですみました」と吉原さんは苦笑した。

伝統の技と現代の最新技術が融合。木材にも注目を

本丸御殿の焼失後、建物を支える礎石(そせき)だけが残っていた。復元では「文化財なので、撤去することはできません。なので、元の礎石を養生し、保護のコンクリートを打ってから、その上に新しい礎石を据えて造っていきました。そのため40cmほど高くなっていますが、平面的な位置は全く一緒です」。

膨大にある資料のひとつで、江戸時代後期につづられた「金城温古録」では、使用した材料も明らかに。木造建築ゆえ、使用した木材も膨大な量に。資料にあった通りに、多くは木曽ヒノキだったが、すべてをまかなえなかったため近隣のものも集められた。

「木曽ヒノキというのは、今の岐阜県と長野県の間にある御嶽山のあたりにありまして、当時は手前から伐採されたと思いますが、今は奥の方に行かなければならないこともあり、市場にもあまり出回っていません。入手するのが大変なんですね。でも、そのなかで一番いいもの、刺身でいう大トロのようなもの(笑)を選ばなければならない。木目も柾目(まさめ)という、まっすぐなものでなければならないなどの制約がありました」。

さらに「木目という点からすると、木を切っても当たりはずれがあります。そして切ってすぐには使えないので、乾燥させるために2~3年は寝かせなければなりません。板のような薄さでは1年ほどでいいかもしれませんが、柱や角材となると乾燥に何年もかかります。木曽ヒノキ以外に、桑の木も使いましたが、これは7年もの、10年ものでないと、あとから乾燥割れなどが起きて動いてしまいますから」と語った。

こういった材料を、大工などの職人が受け継がれてきた技で仕上げていった。だが、伝統の技だけではなく、最新の技術も組み込まれている。「近代工法は使えないといってもゼロではありません。例えば柱に使う木材だと、丸太の中央部分でとる“芯持ち”と、中央からずれたところでとる“芯去り”というものがあります。“芯持ち”は“芯去り”より割れやすいという弱点があるのですが、事前に協議が行われ、背割れを入れたことにより割れにくくなっています。昔はそんなことはしなかったと思いますが、のちに確立した技術を使いました」。

さらに、耐震補強もされている。「今の耐震基準に準拠するために、見えないところ、例えば小屋裏や床の下に補強材を入れたり。元の礎石の保護のために打ったコンクリートを利用して、アンカーボルトを入れて柱のズレ止めをし、制震ダンパーも何ヶ所か入れています」。

基本は昔のまま造った上に、最新技術を元を変えずにプラスして、うまく融合させた造りになっているというわけだ。

<写真左上>建物の土台となる礎石に柱を乗せるのは、「ひかりつけ」という柱の接着面を石の凹凸に合わせて削る伝統的な工法が施されている<写真左下>本丸御殿の外観と天守閣。右側が対面所、左側が上洛殿<右上>本丸御殿内の壁。杢目が美しい。「木造なので、木がいっぱいありすぎてあまり見てくれない方が多いかもしれないけれど、ぜひ見て欲しいところです。当時と同じものを造る、良い品質のものを見せるのには、木にも見方があって、それに合わせた集め方をするのが、大変でした。板目、柾目というのもあるし、床の間も杢目柄が切れないようにしています」と吉原さん。ぜひ注目してほしい。<写真右下>吉原さんが「杢目が最もきれいに入っている」という表書院の床の間<写真左上>建物の土台となる礎石に柱を乗せるのは、「ひかりつけ」という柱の接着面を石の凹凸に合わせて削る伝統的な工法が施されている<写真左下>本丸御殿の外観と天守閣。右側が対面所、左側が上洛殿<右上>本丸御殿内の壁。杢目が美しい。「木造なので、木がいっぱいありすぎてあまり見てくれない方が多いかもしれないけれど、ぜひ見て欲しいところです。当時と同じものを造る、良い品質のものを見せるのには、木にも見方があって、それに合わせた集め方をするのが、大変でした。板目、柾目というのもあるし、床の間も杢目柄が切れないようにしています」と吉原さん。ぜひ注目してほしい。<写真右下>吉原さんが「杢目が最もきれいに入っている」という表書院の床の間

奥に進むほど格が上がる造り。職人の技術にも目を見張る

プロの方が見れば、「よく集めたな」と言われるという贅沢極まりない木材を使用している本丸御殿。意外にも、一番いいものは1期から使われているそうだ。“意外にも”という理由は、本丸御殿の造りにある。本丸御殿は、工期でいうと1期から、2期、3期の場所に進むにつれてより豪華な造りになっているのだ。3期では、3代将軍・家光の上洛に合わせて新築した「上洛殿」がある。

ちなみに、「上洛殿は当然良い材料で造っていますが、漆で塗るところもあり、杢目があまり出ないので、杢目という観点では1期から使用した材料に全力投球で正解でした」とのことだ。

建物の奥に行くほど格が上がる造りというわけだが、天井、障壁画、欄間、建具…、すべてが部屋ごとに違っている。例えば、天井は一般住宅の和室にも見られる竿縁(さおぶち)天井から升目に組まれた格(ごう)天井、そして黒漆や金箔などで細工された複雑な造りの天井へと変わっていく。

実際に見学していると、あちらこちらから感嘆の声が上がるが、上洛殿でピークになる。あでやかな色合いと緻密な彫刻が施された彫刻欄間の見事さは時が経つのも忘れるほどだ。それらを再現した現代職人の技のすごさを感じる。

同じように、職人技は釘隠し、引手金具など、様々な場所にしつらえられた飾金具(かざりかなぐ)もそうだ。焼失を免れたものもあるが、例えば花熨斗形釘隠しは1個作るのに平均1か月以上かかったものもあるそうだ。

「資料には、金具の拓本をとったものも残っていたんです。リスや獅子など、正確な形が分かりますし、当然写真もある。どこにどれを付けたという写真はすべて確認できなかったのですが、この組み合わせの種類を作っただろうというのが拓本によって分かりました。金具は平のものにおいては同じものがなく、それを復元しているんです」。

<写真左上>上洛殿<写真右上>上洛殿で家光の御座所となった上段の間の天井</BR><写真左下>上洛殿の廊下に施された花狭間格子欄間<写真右下>尾張徳川家ならではの贅を凝らした飾金具<写真左上>上洛殿<写真右上>上洛殿で家光の御座所となった上段の間の天井
<写真左下>上洛殿の廊下に施された花狭間格子欄間<写真右下>尾張徳川家ならではの贅を凝らした飾金具

400年前と同じ景色が見られる。伝統の美しさと技を未来へつなぐ

実は、吉原さんが勤める安藤ハザマは、かつて名古屋城の天守閣の再建も担当している。ほか、木造の天守閣の復元を、全国で4件あったなかで2件担当しており、実績があった。
「天守閣をやっていても本丸御殿は全然違うんです。何が違うかはやってみたから言えるのですが、神社仏閣などを含め伝統建築は修復を通して昔の造り方のノウハウが分かり、その通りやればできます。ですが、本丸御殿はきらびやかなものがいっぱいです。飾金具であったり、漆塗りのうえに蒔絵が描かれたり。まして名古屋城の場合は、外様ではなく、本家の徳川家の流れ。ほかにはない豪華さがありますよね。お金に糸目をつけていないのか、当時の最高傑作といいますか、美術館なんですね。美術的要素が高くて、どちらかというと、美術品も一緒に作ったような感覚です」と吉原さん。
狩野派のものとされる障壁画は、これから復元されるものも合わせると1,321面にもなり、復元模写は本丸御殿の建造より長い期間をかけている。今も御殿の一部は空いたままになっているところがある。

今回の復元は、詳細な資料を元にしたかつてない規模で、絵を含め、大工、飾金具職人など、昔の技術、技法を学び、継承するまたとない機会となった。

吉原さんはこう語る。「神社仏閣の多い地域には、それを守るための宮大工、漆職人、飾金具師など、職人さんがたくさんいるんですね。今回は名古屋を中心に京都など全国から来てもらっています。そういう職人さんは昔の建物を修理したり、保存したりして技術を守ってきました。だんだん建物自体がなくなったりはしていますが、数は少なくても職人さんは存在する。今回、本丸御殿を造ったことによって、20年後か30年後には屋根のこけらを葺き直す必要があります。そうすると、職人さんが必要になります。このような建物は、数は少なくても全国にあるので、ちゃんと代々継承されていくと思うんです」。

職人は技術を継承し、見る者は文化を継承していく。今回の名古屋城本丸御殿の“復元”は、伝統を未来へつないだ。400年前のそのままの姿が目の前にあるという状況はなかなかないだろう。名古屋城は、同じく膨大な資料をもとにした天守閣の木造復元も進め、50年後、あるいは100年後に再び国宝となることを目指していると聞く。素晴らしい歴史がつながっていくことを願う。

取材協力:株式会社 安藤・間 名古屋支店 
     名古屋城総合事務所 http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/

<写真左上>第3期で完成した湯殿書院(ゆどのしょいん)。中央にあるのが将軍専用の浴室(湯殿)。外にある釜で湯を沸かし、その湯気を利用したサウナ式蒸し風呂だった<写真右上>清須城にあった家康の宿舎を移築したとも伝わる黒木書院。本丸御殿のほかの部屋が総ヒノキ造りであるのに対し、ここは松を使用。経年変化で黒くなっていくことから名が付けられたとされる。実際、6月の完成時からすでに色合いが変化している<写真左下>吉原さんが感動した場所が、玄関のこけら屋根の曲線美。箕甲(みのこ)と呼ばれ、つながってうねりが重なり合っているところが美しいという<写真右下>名古屋城の天守閣は鉄骨鉄筋コンクリートで再建されたが、耐震性に対応するため、現在は閉館している<写真左上>第3期で完成した湯殿書院(ゆどのしょいん)。中央にあるのが将軍専用の浴室(湯殿)。外にある釜で湯を沸かし、その湯気を利用したサウナ式蒸し風呂だった<写真右上>清須城にあった家康の宿舎を移築したとも伝わる黒木書院。本丸御殿のほかの部屋が総ヒノキ造りであるのに対し、ここは松を使用。経年変化で黒くなっていくことから名が付けられたとされる。実際、6月の完成時からすでに色合いが変化している<写真左下>吉原さんが感動した場所が、玄関のこけら屋根の曲線美。箕甲(みのこ)と呼ばれ、つながってうねりが重なり合っているところが美しいという<写真右下>名古屋城の天守閣は鉄骨鉄筋コンクリートで再建されたが、耐震性に対応するため、現在は閉館している

2018年 11月25日 11時00分