“東洋のシテ島”中之島のシンボル、赤レンガに大アーチの華麗な建物

北に堂島川、南に土佐堀川が流れる大阪・中之島は、“東洋のシテ島”とも称される。東端の中之島公園に面して赤レンガの大阪市中央公会堂(1918年)、隣に大阪府立中之島図書館(1904年)が並び建ち、大阪市庁舎を挟んで御堂筋の向かいには日本銀行大阪支店(1903年)がある。重要文化財の淀屋橋と大江橋をはじめ、両側の川に架かる橋の数々も、それぞれ個性あるデザインで美しい景観をかたちづくる。

2018年11月に100歳の誕生日を迎えた大阪市中央公会堂(以下、公会堂)は、大きなアーチを持つ特徴的なファサードで、中之島のシンボル的な存在だ。屋根にはドーム、大アーチにはステンドグラス、クラシックな装飾が施された列柱に窓。その華麗な姿は「ネオ・ルネッサンス様式」と呼ばれる。

一時は解体が取り沙汰されたこともあったが、人々の熱望が実り、工期約4年・総工費約101億円を投じた保存・再生工事が施され、その後、国の重要文化財に指定された。今も市民に開かれた施設として使い続けられている、現役の文化財だ。

中之島遠景。右手に堂島川、左手に土佐堀川が流れる(写真提供:大阪市中央公会堂)中之島遠景。右手に堂島川、左手に土佐堀川が流れる(写真提供:大阪市中央公会堂)

“義侠の相場師”と呼ばれた岩本栄之助、ただ一人の寄附金によって建設

岩本栄之助、39歳のポートレート(写真提供:大阪市中央公会堂)岩本栄之助、39歳のポートレート(写真提供:大阪市中央公会堂)

この公会堂がはじめ、たった一人の寄附金によって建てられたのは有名な話だ。金額は当時のお金で100万円、現在なら数十億円に相当するという。寄附したのは、“義侠の相場師”と呼ばれた株式仲買人、岩本栄之助だ。

“義侠の相場師”というキャッチフレーズには、任侠映画に登場する博打打ちのような印象があるが、栄之助の年譜をたどると、そんな山っ気のある人物だったとは思えない。自ら進んで株の世界に身を投じたわけでもない。両替商の次男に生まれ、兄が早世したために家業を継いだ。公会堂の建設資金を寄附したあとは、しばらく株式市場の第一線から退いている。直情径行ではあったが理想家で、学究肌の人物だったようだ。

栄之助が生きたのは、27歳のときに日露戦争、37歳のときに第一次大戦が勃発する激動の時代だ。相次ぐ戦争の影響で、株価は急騰と暴落を繰り返した。明日をも知れない相場の世界に身を置いて、栄之助の心には、確かな足跡を残したい想いが募ったのではないだろうか。

1909年、栄之助は、“日本資本主義の父”渋沢栄一率いる「渡米実業団」に参加し、彼の地の富豪たちが私財を投じて公共事業に貢献していることに深い感銘を受ける。その旅の最中に父親の訃報に接して帰国。父が遺した50万円に自らの資産50万円を加え、大阪市に寄附することを決めた。

栄之助の寄附によって公会堂の建設工事が始まったのが1913年。栄之助36歳の年だ。彼は毎朝、近くにある大阪天満宮にお参りし、現場に立ち寄ったという。前述のようにこの頃は株の世界を離れ、実業家として活躍していた。しかし翌1914年、第一次世界大戦が始まり、栄之助は荒れる株式相場に舞い戻る。これが命取りになった。

1916年、戦争が引き起こす株価の乱高下によって、栄之助は莫大な損失を被る。周囲は大阪市への寄附金を一部なりとも返してもらうよう勧めたが、耳を貸すことはなかった。しかし事態は改善の兆しを見せず、進退窮まった栄之助は、ピストルで自殺を図る。5日間生死の境をさまよった末、公会堂の完成を見ることなく、39歳の若さで世を去った。

“東京駅の建築家”辰野金吾が若き日の岡田信一郎のコンペ一等案をもとに設計

公会堂のデザインは、当時一流の建築家たちによる設計競技で選ばれたものだ。指名を受けた17人のうち、13人が設計案を提出。日本建築史の草分け・伊東忠太や“関西建築界の父”と呼ばれた武田五一など錚々たる名前が並ぶなか、一等を獲得したのは最年少の29歳、岡田信一郎だった。彼は後年、重要文化財の明治生命館(1934年)など、数々の傑作を手掛けることになる。

岡田の原案に基づき、実際の設計を指揮したのは、“東京駅の建築家”として知られる辰野金吾だ。大阪における辰野のパートナーである、片岡安と協働した。

東京駅の開業が1914年なので、公会堂の設計は、東京駅の工事とほぼ同時期に進んでいたことになる。公会堂と東京駅の外観仕上げは、赤い化粧レンガに「覆輪目地」という共通点を持つ。「覆輪目地」とは、中央を丸く盛り上げる、手間の掛かる目地仕上げを指す。

どちらも、赤レンガとコントラストを成す白い部分は、本物の花崗岩と、花崗岩に似せた「擬石」を使い分けている。公会堂の場合、東側正面は5本のボーダーより下と玄関回りのみが本物の花崗岩で、上の方は擬石が使われている。

公会堂のアーチの頂上に載っているのは、商業の神メルクリウスと科学・工芸・平和の神ミネルヴァの像だ。大阪市中央公会堂の黒田毅副館長は「設計当初の模型には、大黒さまのような像が載っていました」と秘話を語ってくれた。「しかし、洋風の外観に日本の神様はそぐわないと考えたのでは」。後述するが、インテリアには日本の神様も大勢登場する。

東側外観。創建時の神像は第二次世界大戦中の金属供出で撤去されてしまった。今あるのは平成の保存・再生工事の折に、古写真や下絵をもとに復元された二代目だ(写真提供:大阪市中央公会堂)東側外観。創建時の神像は第二次世界大戦中の金属供出で撤去されてしまった。今あるのは平成の保存・再生工事の折に、古写真や下絵をもとに復元された二代目だ(写真提供:大阪市中央公会堂)

荘厳なメインホール、宮殿のような中集会室。改修・復元で甦った美しい空間

アーチを仰ぎ見る正面玄関を入り、国産大理石をふんだんに使ったエントランスロビーを抜けると、1・2階吹き抜けの荘厳な大集会室だ。ここはコンサートや式典、講演会など、さまざまな催事に使われる。

大集会室の舞台は「プロセニアムアーチ」と呼ばれる華やかな装飾に縁取られ、その頂部に舞楽「蘭陵王」のモチーフが掲げられている。かつてこの舞台で三浦環が「お蝶夫人」を演じ、ヘレン・ケラーが講演を行った。

伝統的な「シューボックス型」のホールの客席両側には、足元に大理石が用いられた重厚な円柱が並ぶ。折り上げ天井に下がる華やかなシャンデリアは創建当初のデザインを復元しつつ、地震の揺れを吸収する振り子構造になっている。

大集会室の階上は、もともと社交の場として設計された。「創建時は、1階ホールで会合を持ち、そのあと3階で晩餐会を開くというように、全館一体で使うことが多かったようです」と黒田副館長は解説する。

その晩餐会が開かれた大食堂が、現在の「中集会室」。宮殿の大広間を思わせる優美な空間だ。中央に並ぶ3台のシャンデリアは、創建時から残る貴重なもの。天井と回廊には合わせて19の円形のステンドグラスがはめ込まれており、そこから外光が射し込む。ステンドグラスにはそれぞれ、大阪市章のモチーフ「澪標(みおつくし)」や帆船などが描かれている。

おもしろいのは換気用のグリルで、かつては四隅の壁面に、それぞれの方角を示す十二支の動物をかたどった透かし模様が施されていたそうだ。現在は4か所のうち2か所のみ修復・復元されている。十二支のモチーフといえば、東京駅のドーム天井にもあるし、同じく辰野が手掛けた佐賀県・武雄温泉の楼門にも見られる。

中集会室に隣接する特別室は、もと「貴賓室」。あの正面アーチの内側で、東面は大きな半円のステンドグラスになっている。このステンドグラスには、200個あまりの凸レンズが散りばめられているという。

天井には、日本神話の「天地開闢(てんちかいびゃく)」の場面が描かれている。天井の立体感とあいまって、神々の舞う空がはるか高く続くように感じられる。ほか、三方の壁にもそれぞれ古事記や日本書紀の逸話を題材にした壁画がある。いずれも、洋画家・松岡壽(ひさし)の筆によるものだ。黒田副館長は「たまにフレスコ画ですか、と聞かれますが、実は漆喰の上にカンバスを貼って描いた油絵です」と説明する。

(左上)大集会室は創建当初から繰り返し改変が加えられていた。平成の改修の前には天井も原型を留めていなかったが、天井板を剥がしたところ、中からかつての折り上げ天井の一部が現れたという。(右上)教会のようなアーチの回廊を持つ、華麗な中集会室。(左下)中集会室に隣接する小集会室。果物をモチーフにした愛らしいステンドグラスや、花の刺繍を施した柳色のタペストリーで飾られている。(右下)天井に「天地開闢」の場面が描かれた格調高い特別室。かつて貴賓室として用いられた。部屋そのものがひとつの芸術品のようだ(写真提供:大阪市中央公会堂)(左上)大集会室は創建当初から繰り返し改変が加えられていた。平成の改修の前には天井も原型を留めていなかったが、天井板を剥がしたところ、中からかつての折り上げ天井の一部が現れたという。(右上)教会のようなアーチの回廊を持つ、華麗な中集会室。(左下)中集会室に隣接する小集会室。果物をモチーフにした愛らしいステンドグラスや、花の刺繍を施した柳色のタペストリーで飾られている。(右下)天井に「天地開闢」の場面が描かれた格調高い特別室。かつて貴賓室として用いられた。部屋そのものがひとつの芸術品のようだ(写真提供:大阪市中央公会堂)

より親しみやすくなった公会堂。地下の展示室は自由見学が可能に

南側外観。パラソルが並んでいるところがサンクンガーデン。一部はレストランのテラス席になっている。サンクンガーデンの両脇に地階への入り口がある(写真提供:大阪市中央公会堂)南側外観。パラソルが並んでいるところがサンクンガーデン。一部はレストランのテラス席になっている。サンクンガーデンの両脇に地階への入り口がある(写真提供:大阪市中央公会堂)

公会堂の保存・再生工事は、1999年から2002年にかけて行われた。その資金にも、多くの市民から募金が寄せられている。
創建当時の外観やインテリアを甦らせると同時に、免震・バリアフリー化を図った。このとき、土佐堀川に面した南側に、地階に直結する出入り口とサンクンガーデンが新設されている。

2014年には展示室が無料開放され、翌年「公会堂SHOP」がオープンした。現在はサンクンガーデン経由で、誰でも気軽に中に入れるようになった。
黒田副館長は言う。「公会堂は基本的に貸室施設なので、以前は集会室やレストランを利用する以外の目的で立ち寄る方はまれでした。しかし、ここ数年はインバウンド等を意識し、観光資源としての活用にも取り組んでいます。貸室以外の一部はいつでも見学していただけるようにしました」

公会堂のHPには、自由見学エリアのパンフレットが用意されている。展示室では、公会堂がたどってきた歴史や建築意匠・技術にまつわる資料を見ることができる。また、スタッフによるガイドツアーも定期的に開催(有料・事前予約制)。ガイドツアーでは、ステンドグラスや壁画、織物や刺繍、木工象嵌など、匠の技の粋を集めた特別室をじっくりと見学できる。

大阪市中央公会堂 http://osaka-chuokokaido.jp/

※大阪市中央公会堂の展示・提供資料のほか、下記の資料を参考にしています。

「大大阪モダニズム 片岡安の仕事と都市の文化」学校法人常翔学園常翔歴史館・大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)
橋爪紳也「大阪市中央公会堂の100年」生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪2018公式ガイドブック
「月刊島民 中之島」 vol.122「大阪市中央公会堂」月刊島民プレス

2019年 02月11日 11時00分