関東に進出、京都発祥の「十三詣り」

十三詣りは、大人の晴れ着に初めて袖を通す日でもある十三詣りは、大人の晴れ着に初めて袖を通す日でもある

最近、日本の風習イベントは関西が熱い。もともと大阪船場の旦那衆の花街での遊びが元と言われている太巻き食いが恵方巻として広がり(諸説あり)、今や全国のコンビニで販売ノルマ問題が起きるほどになっている。

同じように近年、京都発祥の「十三詣り」が、関東でも見られるようになってきた。関東人には正直あまり馴染みが無いこの十三詣りとは、どんな風習なのだろうか。

現代の十三詣りは、毎年3月13日に、数え年の13歳になった男女が、大人の着物を着て、虚空蔵菩薩へ「智慧を授けてください」と願い詣でるものである。智慧とは仏の叡智のことを指し、また大人の着物を着ることで、子供から大人への一歩を踏み出す儀式としての意味がある。

中でももっとも有名なのが、京都府嵐山の法輪寺の十三詣りで、シーズンになると大勢の人であふれる。ここでは参詣の帰路、本堂を出た後、背後を振り返るとせっかく授かった智慧を返さなければならないという伝承があり、狭く長い石段を降り切った鳥居をくぐるまで、または渡月橋を渡り終わるまでは周囲の誘いに動じず後ろを振り向いてはならないという習俗がある。

人は見るなと禁止されると、余計に見たいという欲求が強くなり、これを心理学では「カリギュラ効果」と呼ぶのだが、誘惑の強い「振り返るな!」という掟を守らせることで、子供の時期を卒業し、社会規範を守る大人の一員となる準備を促すということなのだろう。

しかし子供のお参りというと、関東では七五三を思い浮かべる人が多いと思うが、京都ではなぜ13歳で虚空蔵菩薩なのだろうか。また今まで関東で広まらなかったのはなぜだろうか。十三詣りについて、歴史資料に残されたものはそう多くないため、寺社の由緒記や絵巻物、和歌、童歌などの伝承の中から探ってみよう。

日蓮聖人も祈願した虚空蔵菩薩、知恵を惜しみなく与えてくれる慈悲深い仏様

まずは虚空蔵菩薩についてご紹介しよう。虚空とは壊すことも無くすこともできないほど広大で、そこから溢れ出る仏の叡智や慈悲もまた無尽蔵であるという意味である。つまり虚空蔵菩薩とは、仏の叡智を惜しみなく与えてくれて、大変に慈悲深く、どんなことでも許してくれるという誠にありがたい仏様である。

この虚空蔵菩薩へ詣でる十三詣りについて、歴史的に一番古い年代を示す記述は、京都虚空蔵法輪寺の「由緒記」だろう。これによると清和天皇が十三歳の年、成人の証として法輪寺で勅願法要が催されたとしている。と言うことは、貞観4年(862年)ということになる。

そこで、「正史日本三代実録」の清和天皇の項の貞観4年の記録を調べてみたのだが、法輪寺での勅願法要についての記載は見つからなかった。この日本三代実録という国史は、菅原道真も編纂に関わった正史で、編年体(日記の様に記す)で書かれており、858年から887年の30年間を50巻にまとめた、かなり詳細な内容である。その正史に勅願法要についての記載漏れがあるとも思えず、清和天皇が十三詣りを行ったかどうかについては、確認が取れなかった。

次に歴史に残る記述は、藤原宗忠の日記「中右記」に、少年期にこの寺に参り学識向上を祈ったと残されている。藤原宗忠は、崇徳天皇の治世で右大臣を勤めた朝廷のNo.2で、実務上のトップであった人物である。音楽や和歌にも才能があり、「続古今和歌集」や「玉葉和歌集」にも歌が選ばれている。虚空蔵菩薩のご利益を体現した人物と言えるだろう。

次に登場するのは、日蓮聖人である。日蓮聖人は、12歳で清澄寺に入山し、虚空蔵菩薩に対して立願したと様々な記録に残されている。その方法は「虚空蔵菩薩求聞持法」と呼ばれ、100日間、堂に篭り、虚空蔵菩薩にお供え物をし、呪文を日に一万回唱えるというもので、頭脳明晰と記憶力の増大を祈願する密教の荒行の一種である。12歳で日本一の知恵を得たいと願ったこともすごいが、立願のためにこんな荒行を達成した精神力には脱帽するほかない。

この様な歴史から見るに、「十三詣り」の根本である虚空蔵菩薩に対する信仰は、平安時代末期から鎌倉初期にはすでに存在していたと考えていいだろう。

「立正安国論」を書き上げ、法華経を民衆に広めた日蓮聖人「立正安国論」を書き上げ、法華経を民衆に広めた日蓮聖人

13歳の意味には諸説あり、厄年説、元服説、虚空蔵命日説が有力か

ではなぜ13歳に行う必要があるのだろうか。これは定説には至っておらず、諸説あるのでその中のいくつかをご紹介しよう。

まず、十二支でひと回り、13歳厄年説である。数え年の13歳は、生まれた十二支を再び迎える初めての「年男年女」となる。この13歳を厄年とする風習は、平安時代の「色葉字類抄」や鎌倉時代の「捨芥抄」にそのような記載があるが、それ以降の文献には見られなくなる。後世厄年といえば、男25歳と42歳、女19歳と33歳が一般的となる。

次が、13歳元服説である。鎌倉時代以降になると武家文化の発展から元服という儀式が一般化してくる。この儀式は、12〜16歳の男子が、子供の髪型を改め大人の髪を結い、大人の衣装を着て、冠や烏帽子を被り氏神へ詣出るというものであるが、特に13歳に決まっていた訳ではなく、文献を探しても13歳であるという確たる根拠を見つけることは難しい。

次が、虚空蔵命日説である。命日といっても虚空蔵菩薩が死んだ日という訳ではなく、仏教思想における命日とは、1日から30日までそれぞれに仏を割り当てた「日並仏信仰」の日にちのことである。例えば、5日は弥勒菩薩、8日は薬師如来、13日は虚空蔵菩薩、15日は阿弥陀如来、30日は釈迦如来であり、この命日にそれぞれ割り当てられた仏の陀羅尼(真言呪文)を唱えるとご利益があるというものである。

筆者はこの説が一番信憑性が高いのではないかと考えている。この虚空蔵菩薩という仏様には、13という数が付いてまわる。日並仏の命日が13日なだけでなく、十三仏信仰でも虚空蔵は13番目に登場する。

この十三仏信仰とは、地獄の十王信仰(閻魔大王など)に3仏を足して13仏としたもので、人が亡くなった後、初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(いわゆる四十九日)、百か日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、そして三十三回忌と、13回の供養を行うものである。その13番目、すなわち最後の三十三回忌を宰領する仏が虚空蔵菩薩であり、そして実はこの十三仏信仰の存在そのものが、日本の仏教思想においてセンセーショナルな存在であったのである。

十三佛信仰は、不動明王から始まり虚空蔵菩薩で終わり、地獄の閻魔大王は地蔵菩薩と同一視されている十三佛信仰は、不動明王から始まり虚空蔵菩薩で終わり、地獄の閻魔大王は地蔵菩薩と同一視されている

罪を消滅させるほどの絶大な力を持った虚空蔵菩薩に、我が子の幸せを祈願するという思い

東大寺盧舎那仏三尊像の脇佛は、虚空蔵菩薩と如意輪観音で、大慈悲により叡智を与え世間の利益をもたらすとされた東大寺盧舎那仏三尊像の脇佛は、虚空蔵菩薩と如意輪観音で、大慈悲により叡智を与え世間の利益をもたらすとされた

十三仏信仰とは、人が死んだ後に遺族によって供養されることで、死者の魂が仏界に行ける、成仏するとされる思想である。

しかし仏教理論の大前提は、今の自分の境遇は、過去の自分の行いの結果であり、幸せになりたいなら日頃の行いを正しくし、死後に極楽浄土に行きたいなら仏弟子として修行しなさいという理屈にあったわけで、死後に遺族に供養してもらえば極楽にいけますよという十三仏信仰の思想は、仏教そのものの存在意義を根底から覆す恐れがあった。

これは当時の仏教界にとっては、かなりセンセーショナルな問題で、十三仏信仰とは「他作自受」つまり、他人が供養という行為を行うことで、死者が利益(成仏)を受けることになり、仏教の大原則である「自作自受」または「因果応報」に反してしまう。しかし、仏教界の懸念とは裏腹にその後、この信仰は民衆に広く受け入れられていくことになる。

この十三仏信仰のすごいところは、十三仏に一心に祈れば、故人の犯してきた全ての罪が消滅するというところにある。犯した罪が許されるのではなく、消滅する、要は無かったことになってしまうのである。こんな救済は他には例を見ない。十三詣りとは、それほど絶大なパワーを持った十三仏信仰のラスボスとも言える虚空蔵菩薩に、魑魅魍魎が跋扈する大人の世界にこれから旅立とうとしている我が子にどうか慈悲を与えて欲しい、智慧を授けて欲しいと願うものというわけである。その際、虚空蔵菩薩に一番深く縁のある13という数字の年齢や、13日という日にちを選んだのは、至極当然のことのように思われるのである。

七五三は江戸幕府が始めたもの、京都で暮らす人々が守り伝えた十三詣り

それにしてもこんなに子供達の厄払いとして、霊験あらたかとされている十三詣りが、なぜ関東では広まらなかったのだろうか。関東で子供の厄払いで思い起こされるのは七五三である。この違いは、公家社会と仏教界に根付いていた十三詣りが、武家社会や一般民衆に広がっていった時期に問題があったと考えられる。

七五三の習慣は比較的新しいもので、かの犬公方、徳川綱吉(第5代将軍)によって、江戸時代に始められたものである。関東、特に江戸を中心にした武家社会では、このような徳川家の式日(記念日)由来の習慣が多く見られる。七五三しかり、八朔(お中元)しかりである。

そしてこれら柳営(江戸幕府)発の儀式や習慣は、参勤交代のため整備された交通網の発達により全国に広まり、各地で同様な風俗が生まれ、江戸時代以降は多くの地域で、七五三が祝われ、八朔の儀礼が行われるようになった。十三詣りが公家や僧侶の手から民衆の手に渡った時期と江戸発の七五三が広がる時期が運悪く重なってしまったのだろうと推察される。

しかし、日本で唯一、江戸幕府の習慣を行うことを潔しとしない地域が存在した。それが京都である。その時代、京都に暮らす人々にとっての大事な子供の厄払いの儀式は、江戸幕府が考えた七五三ではなく、平安、鎌倉の時代から連綿と続く十三詣りだったのである。

そして今、千年京都に暮らす人々が守り伝えてきた「十三詣り」という風習が、恵方巻きと同じように関東にも広がろうとしている。コンビニで買える手軽さとは違い、虚空蔵菩薩を祀る寺院が限られているので、全国展開が効く七五三ほどの広がりを見せるかは、今後の仏教界の戦略次第かもしれない。十三詣りを希望する人は、まずは虚空蔵菩薩が祀られているお寺を要チェックである。

品川にある虚空蔵菩薩像が安置される寺院「養願寺」、十三詣りの祈願も受け付けている品川にある虚空蔵菩薩像が安置される寺院「養願寺」、十三詣りの祈願も受け付けている

2017年 02月24日 11時05分