朝食100円、ランチ・夕食500円の入居者専用食堂

賃貸住宅の一画に飲食店が入っている物件なら世の中にはいくらでもある。飲食店を経営する不動産会社もあるだろう。だが、その飲食店が入居者専用でしかも直営となると、これは希少。今のところ、他に例はないはずだ。

その食堂、「トーコーキッチン」があるのは神奈川県相模原市淵野辺。淵野辺は周辺に青山学院大学、麻布大学、桜美林大学がある学生街で、経営しているのは地元でワンルームその他を中心に1600室を管理する東郊住宅社だ。同社は平成6年から礼金ゼロを開始、その後平成16年からは礼金、敷金ゼロに加え、退出時の修繕義務なしというやり方で他にない経営を続けてきた。だが、始めた当時は斬新だったものの、最近は追随する会社も増え、これからはそれだけでは独自とは言えないと考えた二代目の池田峰氏が思いついたのが入居者専用の食堂だった。

しかも、この食堂では朝食100円、ランチ・夕食500円の日替わりメニューを中心に一杯100円のコーヒーや300円のキッズプレートなど大手企業の社員食堂顔負けの価格で安全性に配慮、業務用食品などは使わない手作りの食事が提供されている。単純に利益だけで考えれば、収支が合わなさそうな設定だが、これがあることで淵野辺を、東郊住宅社を選ぶ入居者も出ているという。その人気ぶりを見て来た。

上2点が100円の朝食。2人前食べる男子学生もいるそうだが、それでも200円!<br>下はランチ、500円。野菜の副食も付き、彩りも栄養バランスも◎上2点が100円の朝食。2人前食べる男子学生もいるそうだが、それでも200円!
下はランチ、500円。野菜の副食も付き、彩りも栄養バランスも◎

食堂開業に至った3つの要因

上/外から内部が良く見える、明るい店頭。商店街の雰囲気も変わった 下/少し大きめのカードキーを利用。複製できない特殊な鍵だそうだ上/外から内部が良く見える、明るい店頭。商店街の雰囲気も変わった 下/少し大きめのカードキーを利用。複製できない特殊な鍵だそうだ

トーコーキッチンがあるのは同社と駅を挟んで反対側の商店街の中。マンションの1階、以前も飲食店だった場所で、リノベーションを経て通りに面した全面窓の明るい店舗となっており、入口は住宅と同じカードキーで開ける仕組み。基本は入居者専用だが、入居者が連れてくる分には友達は何人でもOK。同社社員や関係者、大家さんなども利用できる。内部の様子から食堂ということが分かるからだろう、不思議そうに覗き込み、入ってこようとする人が少なからずおり、そうした人も初回は利用可。取材でお邪魔した日にも子どもから大人までの何人もが不思議そうに、これまでこの街にはなかったであろうスタイリッシュな店内を眺めて立ち止まる風景に出くわした。

オープンしたのは2015年12月27日。食堂運営を考えたのには3つの要因があると池田氏。「ひとつは学生マンションへのニーズの高まりです。以前から女子学生にはセキュリティ重視の観点から高いニーズがありましたが、最近になって男子学生からのニーズの高まりを感じました。安全面はもちろんですが、不景気で仕送りが減る中、親は子どもがちゃんと食事をしているかを気にしているのです。また、シングルマザーや一人暮らしの高齢者も増え、そうした人たちも安心な食を求めているはずと考えました」。

二つ目はすべての管理物件の資産価値を一気にアップさせる裏ワザがないかを考えた結果だという。賃貸物件の多くは個人の大家さんが所有しており、立地も違えば、大家さんの資金力、考え方も異なる。大家さんの努力に期待しても、すべての大家さんに同じことができるわけではない。だとしたら、管理をする会社の新しい試みが必要なのではないか。

そして、三つ目は前述した通り、東郊住宅社をより選ばれる会社にするための新しい柱として、である。

契約したらおしまいではなく、契約してから始まる入居者との新しい関係を

「この部屋があるから淵野辺に住む、東郊住宅社があるから淵野辺に住むと思ってもらえるような会社作りが地域の不動産会社の存在意義です。そのためには数を誇る地域一番店ではなく、より多くの東郊住宅社ファンを作りたいと思いました。また、入居者と不動産会社の関係は契約しておしまいではなく、契約してからが始まり。これまでにも24時間緊急対応サービスで当社の管理姿勢を示し、入居者と関わりを持ち続けていましたが、もっと日常的にお付き合いできる方法はないかと考えていました」。

しかも、デジタルではなく、アナログな付き合いをすべきと考えたという。「合理性や経済性を考えればデジタルなのでしょうが、それは私たちがやらなくても社会全般としてそういう方向に進んでいくはず。であれば、もっと人として深く、密に付き合い、相手を巻き込むアナログなやり方で入居者と関わるべきだと考えたのです」。

そのうちでも食に目を付けたのにもいくつかの理由がある。何より、おいしいものは人を幸せにするし、一緒に食べることで人はあっという間に仲良くもなれる。一人暮らしの学生、その親にとっては安心の提供になる。さらに人材ごと居抜きできる店があったことなども寄与した。「それに食堂を作ろうと考えていると言うと、ほぼ100%の人が率先して楽しそうにいろいろなアイディアを出してくれました。そこに将来性を感じ、食堂を作ることに決めたのです」。

清潔で明るい店内は若い人たちにも人気の「モクチン企画」の設計清潔で明るい店内は若い人たちにも人気の「モクチン企画」の設計

入居者同士はもちろん、大家さん、不動産会社とも繋がる場

食堂の営業は朝8時から夜20時までで、年末年始の4日間を除き、年中無休。入居者サービスのひとつとして運営されているため、利益は目的としていない。逆に利益が出たら、その分を食材に投入することにしており、利用者が増え、利益が出れば出るほど食事の質が向上することになる。さすがに朝食100円は赤字だそうだが、その他の食事は利益を取らないと考えれば赤字にはなっていないと池田氏。「多少赤字が出ても朝食100円にはインパクトがあるでしょう。それを広告宣伝費と考えれば、入居者のためになる正しい広告宣伝費の使い方と言えると思います」。

食堂スタッフは正社員3人を含め、現在10名。できる限り、入居者及びその関係者から採用することにしているそうで、使用する食品や置かれている産品なども同様に地元の商店街から仕入れる、入居者の実家の産品を置くなど縁のある品を使うようにしている。農業をしている大家さんが野菜や果物、花などを持ってきてくれることもあり、そうしたものは利用者で分け合う。「これまで入居者と関わらなかった大家さんが食堂を利用することで入居者と顔見知りになり、自分で作ったトマトを配るようになったりと入居者間だけでなく、入居者と大家さんの間にも繋がりが生まれています」。

もちろん、不動産会社である東郊住宅社の社員や池田氏と入居者の関係も近くなった。特に池田氏は毎日3回くらいは顔を出しているそうで、取材時も実にまめに来る人、来る人と会話をしていた。話を聞いていた隣の席で昼食を取っていた男子学生は週に3~4回は訪れていた常連さん。その日、退去の予定だそうで、彼への池田氏の最初の挨拶は「この前はお土産、ありがとう」。見送りの会話は「また、訪ねておいで」「いいんですか?」「もちろん!」。

同じ日に入居した女子学生は父親といささか不安そうに訪れ「何か、あったらすぐに言ってね」の言葉にやや安心した様子。また、鍵を持たず、池田氏に招き入れられた女性は次女が近いうちに上京予定という。おいしそうに食事を平らげると軽く会釈をして出て行ったが、彼女の娘がこの街に住むことになったら、池田氏を訪ねるだろうなあと思う。

左上/番号札は野生動物のフィギュア。遊び心が伺える 右上/店内に置かれていたお菓子は池田氏がかつて通っていた保育園を経営する社会福祉法人で作られたもの 左下/その日のメニューの展示 右下/床にあしらわれた三角のオレンジは東郊住宅社のシンボル左上/番号札は野生動物のフィギュア。遊び心が伺える 右上/店内に置かれていたお菓子は池田氏がかつて通っていた保育園を経営する社会福祉法人で作られたもの 左下/その日のメニューの展示 右下/床にあしらわれた三角のオレンジは東郊住宅社のシンボル

不動産業は人と家の間にある、人を喜ばせる仕事

東郊住宅社二代目の池田峰氏。継ぐつもりではなかった不動産業を継ぐにあたり、自分が楽しくなければと考えたという東郊住宅社二代目の池田峰氏。継ぐつもりではなかった不動産業を継ぐにあたり、自分が楽しくなければと考えたという

実際、今年の春、周辺の大学に入学した新入生の中には大学、駅に加え、トーコーキッチンに近いことを理由に部屋を決める人も出て来たという。「何が入居の決め手になったかをアンケート調査したところ、これまでは礼敷ゼロゼロが8~9割でしたが、今年は食堂の存在がそれを越えていました。また、食堂があることで外食が減るなら、家賃が5000円高くなってもいいという親御さんもいらっしゃいました」。

池田氏はその結果を想定外と言うが、親の身になれば一人暮らしでも栄養バランスを考えた食事がきちんと、しかも安くとれるなら安心と思うのは当然。子どもにとっても寮のように半強制的に利用しなければならないわけではなく、自分の好きに利用できる仕組みはストレスがない。清潔で明るく、デザイン的にも魅力的な空間は友達を連れてきて自慢したくなる。そう考えると、この食堂は入居者に、その親に、大家さんに、そして経営する不動産会社にと関係全方位にうれしい仕組みというわけだ。

では、なぜ、これまで誰もこの仕組みを考えつかなかったのだろう。その答えは池田氏がそもそも、不動産業の人ではなかったという点にあると思う。3年前に帰国するまで6年ほどニュージーランドで広告代理店をしていた池田氏。「広告は形のないモノを、不動産は形を売るように思われていますが、これからは不動産も形ではなく、そこでの暮らしという見えないモノが売り物になってくるのではないでしょうか。また、広告も含め、メディアという言葉の語源は中間。不動産会社も人と家の間にあると思えば、その関係性をデザインする仕事であるという意味で同じなのではないかと思います」。異業種から来た人だからこそ、不動産業を新しい視点で見ることができ、それが新しいサービスを生んだということだろう。

礼敷ゼロゼロなど先駆的なやり方を取り入れた先代は不動産業をホテル業と言っていたそうだが、池田氏はそれをエンタメという。人が喜ぶことが仕事になる。これからの不動産業がそうしたものになっていけば、家を借りる私達も消去法ではない部屋選びができ、楽しい暮らしが送れるのではないかと思う。期待したい。

東郊住宅社
http://www.fuchinobe-chintai.jp/

2016年 05月09日 11時06分