丸の内に「竹を植えて虎でも飼うさ」

JR水道橋の駅を出て、南側、つまり後楽園ではなくて神保町の方向に、白山通りと水道橋西通りに挟まれた一帯がある。だが、ここに勤め先などがない限り、その挟まれた一帯を歩くことはあまりないだろう。

地名でいうと三崎町。古本屋と飲食店と大学やオフィスビルが混在し、ごちゃごちゃした感じなのだが、意識すると、水道橋駅東口から道が斜めに南西方向に延びており、それと直角に交わる道や45度の角度で交わる道があることに気づく。地図で見るとわかるが、水道橋駅のすぐ南側の300m四方くらいがそうなっている。

実はここは三菱財閥が明治時代に開発した地域なのだ。1890年、三菱は丸の内の陸軍省用地を買収して今に続く一大オフィス街をつくったが、それと同時に買収したのが三崎町だった。三崎町には陸軍練兵場があったが、ここも政府が売り出したのだ。
政府は、皇居のまわりにあったそれらの軍隊を、麻布などの少し離れたところに移転する計画だったが、移転先に煉瓦造りの立派な営舎を建設するには資金が必要だった。そのため軍用地を売りに出したのだ。

用地買収は岩崎弥之助の独断だったようで、世間は驚いたが三菱関係者も驚いた。一体何のためにそんな土地を買うのかと弥之助の無謀さを非難する声もあったが、弥之助は平然として「竹を植えて虎でも飼うさ」と言ってのけたという。

三菱が買い取る前の丸の内三菱が買い取る前の丸の内

神田三崎町は副都心。東京の「西進」の始まり

こうして現在の丸の内から有楽町、八重洲に至る8万4,280坪、三崎町2万2,746坪が三菱のものとなり、丸の内は後年「一丁倫敦(ロンドン)」と言われる近代的なオフィス街となる。そして丸の内を都心、三崎町は副都心という位置付けで三崎町も開発された。三菱の本社(岩崎弥之助邸でもある)は1888年から神田淡路町にあったので、丸の内と三崎町の中間だったとも言える。

三崎町は江戸時代は旗本屋敷地帯であった。今の三崎町、西神田、神保町、猿楽町、一ツ橋、錦町一帯は小川町と呼ばれていた。もともと平川(神田川)、谷端川、小石川の集まる湿地帯を埋め立てた場所であり、また小石川、本郷方面から火が出た場合、本丸に延焼しないように火除地としての位置付けもあった。だから幕末以降、武家屋敷をどけて軍隊などの新機関が設置しやすかったらしい。
黒船が来ると、1854年に築地に剣術・槍術のための講武所が設置されたが、講武所はその後、陸軍・海軍の訓練所となり、59年、海軍は場所がら築地に残ったが、陸軍は三崎町に移転した。

また武家屋敷だった土地にも明治からは町人が住むことが許可された。それまでの神田の江戸っ子たちは、今川橋から万世橋(筋違橋)あたりに住んでいたが、日本橋・京橋から見れば場末の住人である。それが御成道(本郷通り)を越えて西側に住むことが許可されたのである。
その西側(小川町)への入口が今の小川町であり、西端が三崎町であった。だから言ってみれば三崎町の開発は、その後100年間にわたる東京の「西進」の始まりだったともいえるのだ。

明治33年の三崎町。劇場、ビヤホールなどがある。<br>
出所:鈴木理生『明治生まれの街 神田三崎町』青蛙房、1978明治33年の三崎町。劇場、ビヤホールなどがある。
出所:鈴木理生『明治生まれの街 神田三崎町』青蛙房、1978

もう1つの「一丁倫敦」

冒頭に書いた水道橋駅東口から斜めに伸びる道を水道橋通りという。これは昔「煉瓦道」と呼ばれていた。この通りに面して400mほどの「一丁倫敦」が建設されたからである。
1軒が幅2間(けん)、奥行き4間、3.6m×7.2mの商店が並んだ。手前が店で、奧に5畳の和室、押入れが1畳分あり、板の間2畳分を挟んで、土間があり隅に台所と便所があった。職住一致の商店だった。
商店街へのテナントの入居は商店街の裏にある「差配所」(管理事務所)に住んでいる三菱の社員が行った。

煉瓦街には店10軒おきくらいに防火のためのアーチ状のトンネルがあった。街路にはアーク灯が6箇所、電灯が747設置された(昨年私は台北に行ったが、おそらく日本が植民地時代に建設した、同じ様式の煉瓦造りの商店街がたくさん残っていた)。
各商店には風呂はなかったので、現在の日大10号館の位置に銭湯「三崎湯」もつくられた。

今もあれば見てみたいのだが、残念ながらこの商店街は1923年の関東大震災で焼失した。だが、もともと埋立地であるから地盤が悪いので、基礎は相当しっかり造られたらしく、その後のビル建設などで土地を掘ると頑丈な基礎が出てきて建設業者を悩ませたらしい。

台北の煉瓦街台北の煉瓦街

娯楽の集積

三崎町には娯楽施設も多かった。芝居小屋は3つあり「三崎町三座」といわれた。まず三崎座は1891年開業で、女役者だけの小屋として人気を博した。中心は市川粂八という名女優。九代目市川團十郎の弟子である。白山通りの1本西の東通り沿いにあった。神田川沿いの有名料亭「富士見楼」では三崎座の女優たちを芸者代わりに呼ぶこともできたという。

川上座は「オッペケペー」で有名な川上音二郎によるもので1893年開業。妻の貞奴と共に欧米を巡業し人気を博したことは有名。貞奴は伊藤博文らのひいきを得た人形町の人気芸者だった。

東京座(冒頭写真)は三崎町の3つの芝居小屋中最大で、洋風二階建て、2000人は入る規模だが、場内には一本の柱もなかった。1897年に開業。初代市川猿之助ら、團十郎門下の若手が出演した。

三崎座の女優たち<br>
出所:鈴木理生『明治生まれの街 神田三崎町』青蛙房、1978三崎座の女優たち
出所:鈴木理生『明治生まれの街 神田三崎町』青蛙房、1978

モダン都市としての発展

明治時代にはパノラマという娯楽が流行した。パノラマとは円環状の壁面全体に精巧な風景画を描いて中央の観覧者を取り囲むようにし、目の前に遠大な情景が広がっているように見せるもので、パノラマを主とした施設は「パノラマ館」と呼ばれ世界中で流行した(wikipedia参照)。三崎町には帝国パノラマ館と神田パノラマ館があり、九段下にもあった。

勧工場(かんこうば)もあった。勧工場とは一つの建物の中に多くの店が入り、いろいろな商品を即売した場所であり、最初の年は第一回内国勧業博覧会の売れ残り品を、東京府が麹町で展示販売したものである。この勧工場が三崎町にも1882年にできた。名称は「三崎町勧業場」であった。周辺には小川町勧工場、表神保町の東明館、飯田橋駅近くの九段勧工場、九段下の国光館パノラマ館などがあった。

このように下町・神田といっても西側の三崎町方面はフロンティアであり、浅草と同じようにモダンな要素をたくさん持った都市として発展していたのである。

参考文献 
鈴木理生『明治生まれの街 神田三崎町』青蛙房、1978

2020年 06月30日 11時05分