1920年代に急増し始めた葛飾区の人口

東京の下町は江戸時代の日本橋、神田から明治以降は浅草、芝、深川、本所、荒川とその範囲を広げてきたわけだが、昭和に入ると葛飾、足立、江戸川といった地域も郡部から区となり人口が増加していく。
今回はその中から葛飾区の動向をみてみる。

葛飾区の人口は明治4(1871)年には1万6,570人、大正4(1915)年になっても2万2,836人程度であった。これが1923年の関東大震災後に増えていき、25年には4万9,415人と倍増。30年には8万4,456人とさらに2倍近く増加した。

地域別では本田町の増加が大きく、1920年の5,875人から30年には2万7,390人と5倍近く増加。南綾瀬も4.4倍、金町も3.1倍に増えた。

戦争で激増した工場

下町とは思えない立派な家だが元々は有力な農家であろうか下町とは思えない立派な家だが元々は有力な農家であろうか

人口の増加の主たる理由は、住宅地ができたというよりは水運に恵まれた立地を活かして工場が増加し、工員などの労働者が増加した影響が大きい。1913年には亀有に日本紙業、17年には新宿町に三菱製紙と江戸川化学の工場ができるなど、大規模な工場の建設が相次いだ。
14年には渋江町(今の四つ木)にセルロイド工場である千種セルロイドができる。従業員250人の大工場だったという。千種セルロイドはその後衰退するが、同社から派生したセルロイド工場は多く、中でもリカちゃん人形などで知られるおもちゃのタカラが有名である。

こうして葛飾区では、1932年には131だった工場数は36年には207に増え、従業員数も4,321人から7,178人に増加していた。37年には日中戦争(日華事変)の勃発により軍需が増えるといっそうの工場地帯化が進み、43年には工場数が2,350、従業員数は推定で5万8,000人と激増した。

地域別に見ると1920年から35年にかけて、たとえば本田町は水田だったので20年は人口ゼロだったが35年は3,722人に増加。50年は7,393人である。立石町は727人から7,016人と10倍近い増加。渋江町は1,334人だったが35年は9,099人である。

また、堀切菖蒲園のある堀切町は20年には557人だったが、35年には4,567人、50年には1万1,749人に増えるなど、京成線沿線を中心に人口が増え、水田、水郷だった地域が大変貌を遂げたのである。

堀切には同潤会の分譲住宅も

堀切にある同潤会の分譲住宅堀切にある同潤会の分譲住宅

堀切菖蒲園駅から徒歩15分ほどの上千葉地区には、同潤会の勤め人向け分譲住宅地が1933年に誕生している。戸数は21戸と少ないが、ホワイトカラー向けの一戸建て住宅地が葛飾区にもできたというのは特筆に値する。

同潤会は下町には原則として鉄筋アパートと普通住宅(一戸の住棟を2〜3世帯で分ける2階建ての長屋、今で言うメゾネット形式)か分譲住宅としては職工向けのものしかつくっていない。だから堀切の分譲住宅はホワイトカラー向け戸建分譲としては最も東に位置し、東郊地域としては唯一である。

この堀切の住宅地には今もわずかに当時の住宅が残っている。
そのうち1軒を取材したことがあるが、この住宅地は多くが日銀、大手民間銀行などの金融機関に勤務する人の家族が住んだという。

私が取材した家では、大田区の上池台の同潤会にしようかどうか迷ったが、勤め先が日本橋だったので、上池台より堀切のほうが近いし、主人の出身が東北方面だったので、上野駅から近い堀切を選んだという。当時は親戚が訪ねてきたり、泊まったりすることも多かったからである。数年前、大規模なリノベーションと耐震補強をして今も子孫が住んでおられる。同潤会の分譲住宅というものに強い愛着があるのであろう。

1950年時点での葛飾区の出生地別人口を見ると、千葉県が最も多く1万1,756人、以下、茨城県9,144人、埼玉県8,112人、新潟県6,812人、栃木県6,004人、福島県5,027人などとなっており、やはり東北方面が多い。
西日本は、山口、広島、岡山、四国を合計しても2,200人ほどである。増大する工場で働く労働者が東北方面から集まってきたのであろうが、同潤会に住むホワイトカラーも、出身が東北方面であれば葛飾区を選んだというのは面白い。

耕地整理事業の役割

立石にあるモダンなアパート。単に工場地帯ではなく住宅地としても開発された立石にあるモダンなアパート。単に工場地帯ではなく住宅地としても開発された

同潤会は住宅地を作るために東京の各地を調査し、候補地を挙げているが、本田地域にも住宅地の候補地があった。行ってみると、たしかに有力な地主がいそうな地域であり、小ぶりだがけっこう良い家が立っている。
今は下町としてひとくくりにされるが、本来は農業地帯であり、地主の家の周りは屋敷林で囲まれ、緑が多く、住宅地にするにも適していたのであろう。

こうした住宅地が生まれた背景は明治32年(1899年)の耕地整理法制定である。耕地整理とは田畑に灌漑用水を整備し、曲がった道をまっすぐにするなど整理をして、農地として整備するばかりか宅地や工業用地としても開発しやすくするための事業である。整理法により東京の各地でも組合が結成されて耕地整理事業が盛んになった。
葛飾区では1902年に村長の関根保太郎が主導し、奥戸村の現在の高砂3丁目で最初の耕地整理を行った。これは東京府内でも最初の事業であった。

その後、1921年に新宿、25年に水元、金町、26年に本田など、大正から昭和初期にかけて区内の22の地域で耕地整理事業が行われた。整理された土地は23年の関東大震災後に住宅地化することが多かった。

西郊外と同様、東郊外でも「郊外住宅地化」という現象は起きていたのである。
だからか、私は立石や堀切で木造だが同潤会アパート風の住宅を見つけたことがある。葛飾区にもモダンな住宅建設のムーブメントはあったのである。

下町としての定着

柴又の商店街。これが現在の下町イメージを定着させた柴又の商店街。これが現在の下町イメージを定着させた

このように工場地帯化を主な理由として人口が増加し、農業地帯から工場地帯になっていった葛飾区であるが、商業面では区政が敷かれた1932年段階でもまだ遅れていた。

だが1937年になると商店が急増し、1923年、区内の総商店数375店であったのが、1937年には2,541店になった。業種的には菓子パン類の店が365店と多く、次いで酒屋192店、米屋129店、薪・炭店119店と、生活に密着している。

さらに戦後、商店数は7,093店に増え(1966年)、立石、四つ木、堀切菖蒲園、高砂、新小岩、金町、亀有などの商店が全盛期を迎えた。こうしてようやく、いわゆる「下町らしさ」が誕生したのだ。そこに葛飾柴又を舞台にした映画「フーテンの寅さん」が始まり、葛飾区と言えば下町というイメージが全国に定着することになったと言えるであろう。

2019年 08月25日 11時00分