国宝6棟、重要文化財22棟を擁する二条城。築城以来の本格修理中

江戸幕府の初代将軍・徳川家康が築き、最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を決める舞台となった二条城。明治維新後は皇室の別邸「離宮」となり、昭和に入って京都市に下賜された。城内には、今も徳川の葵紋と皇室の菊紋が混在する。戦後は進駐軍が入ったこともあり、まさに近世以降の日本史を象徴する史跡だ。城内には、国宝二の丸御殿(6棟)、重要文化財22棟が建ち並ぶ。

その二条城では今、築城以来の本格修理事業が進んでいる。2011年に着手して、完成予定は2034年度。およそ20年がかりで、総工費は100億円を超える。これまでに重要文化財の唐門と東大手門、番所の修理が完了し、現在は本丸御殿の修理に取り組んでいる。

文化財の本格修理には、解体調査がつきものだ。構造補強を行うために屋根や壁の仕上げをいったん取り払うことで、建物が経てきた歴史の痕跡が現れ、新たな事実が解明される。これまでの修理の過程でも、屋根の小屋組みに年号の墨書きが見つかったり、飾り金具の菊紋の下から葵紋が出てきたりなどの発見があった。

二条城は、この修理の経過を紹介するオンラインツアーを開催。
講師に『武士の家計簿』(宝島社)、『天災から日本史を読みなおす』(中央公論新社)などの著書があり、テレビでも活躍する人気の歴史学者・磯田道史先生(国際日本文化研究センター准教授)を招いた。京都の街歩きを主催する「まいまい京都」との共同企画だ。通常は入れない非公開エリアや、修理中の建物の中が見られる、オンラインならではの特別なツアーとなった。磯田先生にとっても初めて立ち入る場所ばかりだったそうで、解説にも熱がこもった。
以下、内容の一部を紹介しよう。

二条城の文化財。 左上/東南隅櫓(重要文化財)。二条城には9つの櫓があったが、今も残るのは東南隅櫓と西南隅櫓の2つだけだ 右上/修理を終えた唐門(重要文化財)。極彩色の彫刻が甦った 左下/二の丸御殿(国宝)。大広間をはじめ6つの棟が雁行型に連なる 右下/大政奉還の舞台となった、二の丸御殿の大広間(写真提供:元離宮二条城事務所)二条城の文化財。 左上/東南隅櫓(重要文化財)。二条城には9つの櫓があったが、今も残るのは東南隅櫓と西南隅櫓の2つだけだ 右上/修理を終えた唐門(重要文化財)。極彩色の彫刻が甦った 左下/二の丸御殿(国宝)。大広間をはじめ6つの棟が雁行型に連なる 右下/大政奉還の舞台となった、二の丸御殿の大広間(写真提供:元離宮二条城事務所)

修復成った東大手門から城内へ。普段は入れない「番所」の中を見学

磯田先生のガイドは、二条城の正門にあたる東大手門(下の写真)の前から始まった。重要文化財の東大手門は、2017年3月に本格修理を完了し、創建時の姿に復原された。石垣の上に衛士が詰める櫓(やぐら)を架けた、堅牢な門だ。

400年以上の歴史を持つ二条城は、長い間に大小の改変を重ねてきた。最も大きな変化が起きたのが、三代将軍・家光の時代だ。後水尾天皇の行幸を迎えるために城壁を倍近くに拡げ、天皇のための行幸御殿(現存せず)を建てた。このとき、東大手門も改修されている。

「今ここにある櫓は、後水尾天皇を迎えたときには取り外されていました」と磯田先生。「だってほら、門を通ろうとする人の頭上に、石を落とす仕掛けがあるんです。その下に天皇をお通しするわけにいきませんよね」。

家光の時代に櫓門を屋根だけの単層の薬医門に改修し、寛文年間(1660年代)になって櫓門に戻したという。このとき、薬医門の部材を転用し、屋根を櫓に造り替えた痕跡が、今回の修理で明らかになった。

東大手門をくぐるとすぐに「番所」(下の写真)がある。在番の武士たちの詰め所だ。番所はすでに修理を終えているが、公開はされていない。「今日は特別に入れるそうです」と磯田先生。「二条城には番所がたくさんあったはずですが、今も残っているのはここだけ。全国的にも珍しく、地方では丸亀城に残っています。たいへん貴重な建物ですね」

「城番は、朝番・夕番・泊まり番の三交代制でした。では、泊まり番はどこに寝るのか。ちゃんと両側に部屋があるんですね。しかも武士の身分によって部屋の格に違いがある。格が高い方の部屋には、長押に“釘隠し”という飾り金物が付いています」

東大手門(上の写真:元離宮二条城事務所提供)から城内へ。「今日は潜入取材ということで、忍者のモチーフのネクタイを締めてきました」と磯田先生。新型コロナウイルス感染防止のため、フェイスシールドを着用している。下2点/番所東大手門(上の写真:元離宮二条城事務所提供)から城内へ。「今日は潜入取材ということで、忍者のモチーフのネクタイを締めてきました」と磯田先生。新型コロナウイルス感染防止のため、フェイスシールドを着用している。下2点/番所

今はなき、行幸御殿の痕跡を探せ。特別名勝・二の丸庭園に足を踏み入れる

続いて訪れるのは二の丸庭園(下の写真)。建造物における国宝に相当する、特別名勝に指定されている。

通常、この庭園は二の丸御殿から眺めるだけだが、磯田先生は今回、庭の南側一帯に初めて立ち入る。かつて家光が建てた行幸御殿があった場所だ。「ここに来て一番やりたいことは、行幸御殿の痕跡を探すことです!」と磯田先生。花崗岩の白砂を敷いた苑路から芝生に足を踏み入れると、建物の礎石と思われる丸い石が2つ頭を出している(下の写真)。「2つの石の間隔は一間ぐらいだから、おそらく廊下の跡でしょう。この上を、後水尾天皇が歩いたんですね」

「いつもは見られる側の庭から、見る側の二の丸御殿を見ています。この庭園は、北から見ると荒々しく、東から見ると大和絵のように柔らかいと言われます。今初めて南から見ると、いっそう柔らかいですね。土佐派の絵師が描いた日本の自然の風景のように見えます、私の目には」

この庭は、行幸御殿を建てる際に、大名茶人で作庭家の小堀遠州が手掛けたものだ。「二の丸御殿側からは武家風に、天皇を迎える行幸御殿側からは公家風に見えるようにしたのかな、と想像しますね」。

「なぜ徳川家は、ここまでして天皇を歓待したのか。伝承ですが、徳川家康は“武家は鉄、朝廷は金”と語ったとされます。鉄は強いけれども、尊ばれはしない。金は、実用の役には立たないが、ひとびとから尊ばれる。鉄が金の笠を着れば、天下を支配できる。こういう発想で、家康は権力を確立したんですね」

上/二の丸庭園(写真提供:元離宮二条城事務所) 左下/芝生の中に行幸御殿の礎石を発見 右下/特別な許可を得て石橋の上に立つ磯田先生。「いやあ、ここ、渡ってみたかった! 二条城の長い歴史の中でも、この橋を渡った人は、家光や慶喜のほかに何人もいないんじゃないですか」と大興奮。先生は地質にも詳しいそうで「この緑がかった石は、たぶん中央構造線のものでしょう。和歌山あたりからはるばる運んできたんだと思います」上/二の丸庭園(写真提供:元離宮二条城事務所) 左下/芝生の中に行幸御殿の礎石を発見 右下/特別な許可を得て石橋の上に立つ磯田先生。「いやあ、ここ、渡ってみたかった! 二条城の長い歴史の中でも、この橋を渡った人は、家光や慶喜のほかに何人もいないんじゃないですか」と大興奮。先生は地質にも詳しいそうで「この緑がかった石は、たぶん中央構造線のものでしょう。和歌山あたりからはるばる運んできたんだと思います」

江戸時代の公家住宅の希少な遺構、本丸御殿。修理工事真っ最中の現場に潜入

本丸御殿(下の写真)は、現在修理工事の真っ最中だ。

徳川の本丸御殿は過去に焼失しており、今ある本丸御殿は、二条城が皇室の離宮になってから移築されたものだ。もともとは京都御所・今出川門内にあった、親王・桂宮家の邸宅である。今出川門内時代には、孝明天皇の仮御所に使われたこともある。現存最古の宮家の御殿として、重要文化財指定を受けている。

磯田先生はヘルメットを装着し、寛政5年(1793年)の建築とされる御書院の「四季の間」に潜入(下の写真)。本来は四季の障壁画(襖絵)に彩られた部屋だが、今は建具も畳も外され、壁の仕上げも剥がされて、木の骨組みだけが見える。

「この柾目の鴨居、すばらしいですね。上段の間の違い棚も、間口が広く奥行きが深い。それが、継ぎ目のないケヤキの一枚板で構成されています。もともとは、さぞかし見事な大木だったんでしょうねえ」

続いて、素屋根に覆われた屋根工事の現場へ。こちらも木組みの状態だ。修理工事のただ中の、今この時点でしか見られない。

「部材は新旧が混じっていますね。表面の新しいものには昭和57年という焼き印が押されている。垂木の小口に残っている白いものは胡粉ですか? さすが御所建築、なんとも粋ですねえ」

本丸御殿は、阪神淡路大震災によって構造にゆがみが生じたことが分かったため、2007年から公開を停止している。耐震補強を含む保存修理工事は、2022年までかかる見込みだ。完成後には15年ぶりの特別公開が予定されているので、楽しみに待ちたい。

上/修理前の本丸御殿(写真提供;元離宮二条城事務所) 左下/本丸御殿に潜入する磯田先生 右下/文化財の修理工事では建物の上から素屋根を架ける。この位置で間近に屋根を見られること自体が貴重な機会上/修理前の本丸御殿(写真提供;元離宮二条城事務所) 左下/本丸御殿に潜入する磯田先生 右下/文化財の修理工事では建物の上から素屋根を架ける。この位置で間近に屋根を見られること自体が貴重な機会

最後の将軍・徳川慶喜が、二条城を去るときに見た風景。落日射し込む西門へ

ツアーの最後に磯田先生が案内したのは、東大手門の反対側にあたる西門だ(下の写真)。裏門と呼んでもいい。現在は閉ざされたままで、門前の堀には橋もなく、門としての実態を失っている。「西門は今、堀の外からは見られますが、内側には入れません。私はずっと、この景色を見たいと思ってました。なぜなら、この西門は、最後の将軍・徳川慶喜が二条城を去るときにくぐった門だからです」

慶喜はなぜ、正門の東大手門ではなく、裏口の西門から二条城を出なければならなかったのか。

大政奉還を表明しただけでは、幕末の混乱は収まらなかった。慶喜は、内乱が勃発し、朝敵の汚名を着ることを恐れたのだ。御所に相対する東大手門を避けて、西門からひっそりと、大坂城に向けて旅立った。

将軍職を返上しても、慶喜が新体制で主導的地位を築く目がなかったわけではない。
「慶喜にとって、敗着の決定打になったのは、二条城を出てしまったことだと思います。彼が二条城で最後に見たのがこの景色。門扉の隙間から射し込む落日の光、感無量ですねえ」


この日のオンラインツアーでは、二条城内に移築された元豪商の邸宅「香雲亭」(非公開)にスタジオを設置。まいまい京都代表の以倉敬之さんと二条城事務所長の北村信幸さんが磯田先生と中継を繋ぎ、先生の移動中には城内マップや資料を示すなどして補足解説を行った。参加者は同時視聴だけで1000人近くに及び、ライブ中もチャット欄は大賑わい。読み切れないほどの質問やコメントが寄せられていた。オンラインならではの工夫が凝らされ、ライブ感溢れる大満足のツアーだった。

このオンラインツアーの参加費は、二条城の本格修理事業の費用に充てられる。二条城ではほかにも、事業費用を捻出するためにMICE事業などを行っているほか「一口城主募金」を募っている。銀行振込や現金払い、インターネットでのクレジットカード決済が可能だ。金額に応じて記念品をもらえるほか、100万円以上募金すれば(1万円以上は抽選)、「一日城主」として二の丸御殿の大広間に入り、将軍と同じ場所に座って写真を撮ることができる。

世界遺産 元離宮二条城 http://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/
まいまい京都 https://www.maimai-kyoto.jp/

細い枡形を抜けて西門へ向かう。これが徳川慶喜が二条城で最後に見た景色。西門の片側には各藩から派遣された衛士が刻んだとみられる落書きが残っている(一番の下の写真)
細い枡形を抜けて西門へ向かう。これが徳川慶喜が二条城で最後に見た景色。西門の片側には各藩から派遣された衛士が刻んだとみられる落書きが残っている(一番の下の写真)

2020年 08月22日 11時00分