華洲園という高級住宅地

華洲園住宅地にある飯田深雪の学校華洲園住宅地にある飯田深雪の学校

東中野というと中野の東側の駅というくらいのマイナーなイメージしかない人も多いだろう。都営大江戸線が開通してからは少しは知名度も上がり、小さいが駅ビルもできて、人気も上昇した。
だが街の歴史を振り返ると、中野よりも東中野のほうが古い、というか文化的であるということがわかるのだ。

駅東口から北に向かう商店街の右手が神田川を見下ろす丘になっている。その丘の北端にかつて華洲園と呼ばれた高級住宅地がある。ここは江戸時代には将軍が鷹狩りに来て休憩した御立場があった場所だ。
明治の終わり頃に四季折々の草花を栽培する花園があったことから、この場所は華洲園と呼ばれるようになった。約1万5000坪(5ha)の園内には温室もあって、いつも花の香りで満ちていたらしい。明治44年(1911年)に発行された『東京近郊名所図会』には「華洲園・御成山」という項目があったほどだ。

華洲園には三越社長であった中村利器太郎や、伯爵、陸軍大将らが住んだ。そういえば今、華洲園下の道路沿いには三越不動産のマンションがあるが、もしかするとこのあたりだろうか。周恩来も日本留学の際に華洲園に住んでいたという。
しかし第二次世界大戦で華洲園も空襲にあい、邸宅は消失した。今は、飯田深雪のフラワーコーディネートの学校があり庭には花が咲き誇っているのが、かつてを偲ばせる。

岡本太郎、小林秀雄、フランク・ロイド・ライト

昔の東中野駅はそれほど中野駅と差があるわけではなかった。大正5年(1916年)の乗降客数は中野駅148万人、東中野駅(柏木駅)98万人で約3:2の比率である。現在はJR中野駅1日15万人、JR東中野駅が4万人と4倍近く違う。戦前は東中野も相当栄えていたのだ。

そのことを傍証するような事実もある。のらくろで有名な田河水泡の妻は、批評の神様・小林秀雄の妹だが、結婚した頃、昭和初期に小林きょうだいが住んでいたのが東中野と中野の間の桃園川沿いの谷戸地区だという。1941年の地図を見ると、谷戸地区と東中野駅の間の高根町、上ノ原町には、森邸、藤村邸という邸宅があった。神田川と桃園川に囲まれた高台の邸宅地だったと思われる。

東中野駅のすぐ北の住吉町には、モナミという結婚式場があり、喫茶店も併設されていたという。富豪の屋敷をレストランに改装したもので、設計はなんとフランク・ロイド・ライトだった。

新宿帝都座新宿帝都座

岡本かの子が名付けたモナミ

モナミは最初、芝の洋菓子店である白十字堂として開店したが、1929年には銀座にモナミとして開店。以後、新宿と東中野に支店を出した。主人である幸田文輔の夫人が、岡本かの子(岡本太郎の母)の秘書を務めていた男性と親戚だったという縁で、岡本かの子が命名したのだった。建物はアラビア風の外観で、1階が喫茶室、2階がレストランになっていた。

戦後は、闇屋やブローカーのたまり場であり、帝銀事件の平沢貞通もコーヒー好きで、モナミの常連だった。それどころか、平沢の長男・長女がモナミの従業員だったという。

新宿のモナミは、伊勢丹の向かいの今の丸井にある映画館・帝都座の地下にあった。

文化サロンだった東中野モナミ

東中野のモナミ。たしかにライト風東中野のモナミ。たしかにライト風

モナミのもう1軒の支店が東中野だった。
以下、林哲夫の『喫茶店の時代』を元に書く。
戦後、文芸評論家の花田清輝と芸術家の岡本太郎が「夜の会」という会を発足させ、安部公房、野間宏、埴谷雄高らの当時一流の作家、評論家などがメンバーとなった。第一回の集まりは上野毛の岡本のアトリエで開かれたが、その後東中野のモナミが会場となって芸術運動の常設的な公開の場所となったという。

1955年頃、小説家の丹羽文雄が主宰していた同人誌『文学者』の合評会が開かれたのもモナミだった。参加者は火野葦平、石川達三、井伏鱒二、尾崎一雄ら。この雑誌は芥川賞作家や候補者を多数輩出した。
1954年には、「大杉栄の会」が開かれた。発起人は秋山清、荒畑寒村らで、大杉の没後32年目の命日に大杉を偲ぶというものであった。

華洲園からさらに北に下ると、東西線の落合駅付近であり、妙正寺川沿いの低地である。さらにその北側の丘の上は「目白文化村」という堤康次郎が開発した住宅地がある。二つの丘に挟まれた低地には戦前、左翼系の文化人や貧しい小説家たちが多く住んで「落合文士村」と言われた。そういう人々が東中野の喫茶店の常連だったのである。

戦前喫茶店の変遷

高円寺のカフェー街(撮影・石川光陽)高円寺のカフェー街(撮影・石川光陽)

小説家の田村泰次郎によれば、昭和初期までの喫茶店は、自分の家の娘を店へ出しているようなこぢんまりしたもので、中央線沿線の阿佐ヶ谷、高円寺、東中野とかいった街の小路や路地の奥などにあったという。もともと東中野には喫茶店が多かったのだ。

それが1933年ごろから喫茶店が高級化する。特殊飲食店営業取締規制の発令により、女給がセクシャルなサービスをするカフェーと純然たる喫茶店(純喫茶)を峻別するようになったため、純然たる喫茶店であることを示すためにデザインを高級化したのではないかと想像する。
ジャズ喫茶、クラシック喫茶などが増え、デザインもゴシック風、スペイン風、ルイ王朝風、桃山風と多様化した。モナミの3店はそういう時代の先駆けだったのかもしれない。

1935年頃、東中野には、異人館屋敷、ル・モンドという喫茶店があり、中野にはぶーけ、どりーむ、路傍、中野の新井方面に新井ベーカリー、朗加留(ローカルと読むのか)、スミレ、高円寺にはレンボー、ミューズ、中央茶房、サンキー、塩瀬などがあったという。

岸田劉生のあまりにも有名な作品「麗子像」の麗子、つまり劉生の娘の店「ラウラ」も1934年頃、東中野にあった。華洲園の下の商店街沿いだったらしい。
劉生が他界したのは29年なので、その後麗子が開いたのだろう。母の実家が西大久保だったので東中野が近いためだったのではないかと林哲夫は想像している。
彼女の店は小さな店で、いつも深刻ぶった若者たちが集まっており、古典音楽が流れ、麗子はカウンターに立っていたという。

吉行淳之介の父エイスケと母あぐりが経営していた「あざみ」という店が落合に近い東中野にあり、そこで劇作家村山知義は飲みまくった。あぐりがあまりに美人だったからだといわれている。

2020年 06月07日 11時00分