築143年、明治の人たちの「西洋建築への憧れ」が感じられる擬洋風学校

長野県佐久市の玄関口であるJR『佐久平』駅から小海線に乗り換えて約10分のところに、1時間に1本だけ電車が停まる小さな無人駅『滑津(なめづ)』駅がある。『滑津』を出てのどかな住宅街の中を5分ほど歩くと、突然、周辺の街並にはそぐわない白い八角塔を持つ西洋風の建物が見えてくる。それが、今回取材した『旧中込学校(きゅうなかごみがっこう)』だ。

『旧中込学校』は、明治8(1875)年12月に校舎が竣工し、翌9(1876)年6月に開校祝賀式を挙行。幸い災害や戦火による大きな被害を受けることなく当時のままの姿で保存されており、昭和44(1969)年に重要文化財・国史跡の指定を受けた。

明治初期にはフランスに倣って学制が布かれたことから“西洋風の学校”が一種のブームとなり全国各地に存在していたというが、すでにその多くは残っていない。現存する擬洋風学校(西洋風に建てられた学校)としては、この『旧中込学校』が最古級の建物のひとつとされている。

現地を訪れると、明治時代へタイムスリップしたかのような錯覚に陥るノスタルジックな建物、『旧中込学校』の成り立ちと今を取材した。

▲のどかな住宅街の中で凛とした佇まいを見せる『旧中込学校』。木造2階建寄棟造、桟瓦葺き、八角塔屋が特徴の建物だ。大正8年から昭和43年までは公民館や役場の施設として使用されていたため、近代的に改修された時期もあったそうだが、文化財指定を受け昭和46年から解体復元工事を実施。明治の竣工当初の姿に戻された。八角の塔は通称“太鼓楼”。(一般見学はできないが)今も和太鼓が吊るされている。まだ時計が普及していなかった当時は1日5回太鼓が鳴らされ、地元住民たちへ時を告げる役割を果たしていた▲のどかな住宅街の中で凛とした佇まいを見せる『旧中込学校』。木造2階建寄棟造、桟瓦葺き、八角塔屋が特徴の建物だ。大正8年から昭和43年までは公民館や役場の施設として使用されていたため、近代的に改修された時期もあったそうだが、文化財指定を受け昭和46年から解体復元工事を実施。明治の竣工当初の姿に戻された。八角の塔は通称“太鼓楼”。(一般見学はできないが)今も和太鼓が吊るされている。まだ時計が普及していなかった当時は1日5回太鼓が鳴らされ、地元住民たちへ時を告げる役割を果たしていた

建設費は村人たちが捻出、1戸あたり1円からの寄付で賄われた

▲長野県佐久市教育委員会 社会教育部 文化振興課で文化財保護を担当している学芸員の生島修平さん▲長野県佐久市教育委員会 社会教育部 文化振興課で文化財保護を担当している学芸員の生島修平さん

「明治5(1872)年に明治政府が『学制』を定めたため、当時の下中込村では近隣の村々と合同で『旧中込学校』の前身となる『成知学校』を開校しました。

当初の『成知学校』は寺子屋の流れを汲むもので、お寺の境内を仮校舎として使っていましたから、授業の途中で教室の床が抜け落ちたりして大変だったようです。そこで、村民たちが協議を行い新しく校舎を建てることが決まったのです」

『旧中込学校』開校の経緯を解説をしてくださったのは、佐久市教育委員会文化振興課の学芸員、生島(おじま)修平さんだ。生島さんによると、もともと地元の人たちの寄付によって設立された学校であるため、地域の皆さんの『旧中込学校』への想い入れはひときわ強いという。

「当時は裕福な家庭の子どもたちが教育を受けるイメージがありましたが、下中込村一帯はごく平凡な農村地帯で、決して裕福な土地柄ではありませんでした。しかし、協議の結果、村人たちからの寄付で学校を設立することが決まり、各世帯に最低1円からの寄付金を募りました。

大工の日給が25銭の時代であり、1円というのは(いろいろな説がありますが)今の貨幣価値に換算すると2万円ぐらいでしょうか。一般家庭にとっては家計を切り詰めての寄付だったと思います。また、当時の子どもたちは農作業の担い手でもありましたから、1円を寄付した家庭の子どもたちが全員ちゃんと学校に通えていたかどうかはわかりません。

学校の総工費は約6098円。今なら1億円を超える価値に相当します。382件の寄付のうち118戸が1円の寄付だったそうですから当然予算は足りず、不足分は地元周辺の名士などにも寄付を募ってなんとか賄うことができたようです」。

アメリカ帰りの大工・市川代治郎が“木造”で再現した西洋風デザイン

学校の設立が決まった後、その設計・施工を請け負ったのが地元出身の棟梁・市川代治郎だ。代治郎は西洋建築を学ぶために4年間アメリカへ留学していた経験があり、ちょうど日本へ戻って大工の仕事をはじめたばかりだった。その腕前が見込まれて設計依頼を受け、故郷へ錦を飾るつもりで慈善的な金額で請負契約を結んだという。

「ポーチの格子や、装飾柱、アーチ型の窓など、従来の日本の建物にはなかったデザインを積極的に採り入れ、本来は“石造り”であるはずの西洋建築の意匠をあえて“木造”で表現しているところがこの『旧中込学校』の面白さであり、“擬洋風”と呼ばれている理由です。

1階欄間や2階廊下に使われているステンドグラス(現在はレプリカ)は当時はとても珍しい存在でしたから、竣工時には“ハイカラな校舎ができた”と評判が広がり、見物客が後を絶たなかったというのも頷けます。このあたりは外国人別荘地・軽井沢からも近いものの、山あいの田舎まちで先進の西洋文化はなかなか入りづらい環境にありました。そんななかで、このような美しい学校を建てることができたのは、やはり代治郎さんの功績が大きかったと思います」。

▲校庭の見事な藤棚は明治の開校当初からこの場所に植えられているもの。藤の花が満開となる5月中~下旬には今も多くの観光客が訪れる。「昭和24年の大型台風で一度この藤棚が壊れてしまったことがありましたが、建物には被害が無かったことが幸いでした」
▲校庭の見事な藤棚は明治の開校当初からこの場所に植えられているもの。藤の花が満開となる5月中~下旬には今も多くの観光客が訪れる。「昭和24年の大型台風で一度この藤棚が壊れてしまったことがありましたが、建物には被害が無かったことが幸いでした」

小学生が清掃活動を実施、子どもの頃から建物に触れることで愛着が生まれる

竣工から1世紀半が経とうとしている『旧中込学校』だが、3年前に極力目立ちにくい形で耐震補強工事を実施したため「これでしばらくは安心」と生島さん。

「梁も柱もしっかりしていて、やはり昔の建物は長持ちするように造られていたんだなぁと感心します。ただし、木造の建物ですから常に火災の不安はありますし、重要文化財に指定されているため、修理をしたいと思っても文化庁の許可を得てからでないと勝手にはできません。何かひとつ壊れたとしても、素材的・技術的に“もう代わりがきかないものばかり”なので、とにかく丁寧に保存していきたいと考えています」

ちなみに、館内を散策すると隅々まで清掃が行き届いていることに驚かされるが、これは『旧中込学校』の後身である地元『中込小学校』の児童の皆さんがぞうきんがけなどの清掃活動を伝統的に続けているため、美観が保たれているそうだ。

「中込小学校では月に1回清掃活動を行ってくださっているのですが、やはり卒業生の皆さんは子どもの頃からこの『旧中込学校』の建物に触れてきたため、“建物への愛着”を感じてくださっているようです。最近は高齢化が進みつつありますが『旧中込学校保存会』の有志の皆さんたちも定期的に校庭の草刈りをしてくださっています。私たち教育委員会だけでなく、地元の皆さんたちが“この学校を残していきたい”という熱意を持ってくださっているので、それが何よりの大きな支えになっています」

▲こちらは1階の教室。当時の日本人の平均身長を考えると天井は充分すぎるほど高い。壁は漆喰塗りで、廊下と教室の間はおそらく区切られていたと考えられている。開校当時、男子114人・女子40人がこの学び舎で机を並べて勉学に勤しんだ▲こちらは1階の教室。当時の日本人の平均身長を考えると天井は充分すぎるほど高い。壁は漆喰塗りで、廊下と教室の間はおそらく区切られていたと考えられている。開校当時、男子114人・女子40人がこの学び舎で机を並べて勉学に勤しんだ

文化財は軽視されがち、地域の想いを育むことで後世へ継承したい

『旧中込学校』の経費としては、電気代・消防設備点検費・管理委託費などで決して大きな金額ではないそうだが、“この管理費をいかに捻出するか?”は教育委員会としての課題でもある。建物の知名度が上がり年々来訪客は増えているものの、その入館料(一般250円)だけですべてを賄うのは難しい。最近ではウェディングの前撮りスポットとして文化財の活用を図っているが、華やかな観光地のそれとは異なり“のどかな住宅街にひっそりと佇む文化財”は保護活動もなかなか大変そうだ。

「文化財というのは、その存在が“人の生命に関わるもの”ではありませんから、自治体の中でも経費を捻出しにくく、どちらかというと軽視されがちです。この『旧中込学校』のような明治・大正あたりの近代の建物だと、特に所有者や地元の人たちの姿勢次第で“残すか?取り壊すか?”の分かれ道になってしまうのでしょうね。

やはり、子どもの頃から文化財に触れてもらう機会を持ち、建物への愛着を持ってもらうこと。わたしたち市の担当者は、建物の修繕を適宜継続する努力をすること。これが良好な文化財の保護につながると考えています」

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佐久市教育委員会では、『旧中込学校』を小・中学校の社会見学ルートに推奨するなどして“次世代が建物に触れる機会”を積極的につくり出している。その成果もあって「旧中込学校は佐久のシンボルのひとつ」というイメージが定着しているという。

文明開化の頃、地元の人たちからの寄付によって誕生した『旧中込学校』。「子どもたちに新しい教育を受けさせたい」という当時の村人たちの想いが詰まったこの西洋風の校舎が、今後も長く保存され、地元のシンボルとして後世へと継承されていくことを願うばかりだ。

■取材協力/佐久市教育委員会 旧中込学校(佐久市ホームページ)
https://www.city.saku.nagano.jp/kanko/spot/meisho_shiseki/kyunakagomigakko.html

▲『旧中込学校』では県の文化財保護指導委員が定期的にパトロールを行っており、そのアドバイスを参考に教育委員会で修復について検討している。「近々では、太鼓楼のペンキが剥がれてきているのでそこを補修したい」と生島さん。<br />太鼓楼(写真右下)の天井には東京・ホノルル・ワシントン・ロンドンなど世界の都市の方角が示されている。「当時はテレビもありませんでしたし、そうそう簡単に海外へ行ける時代ではなかったので、自分たちが勉強した都市がどちらの方向にあるか?を、この天井を眺めながら想いをめぐらせていたのでしょうね」。明治時代の子どもたちのロマンが詰まった屋根裏の空間だ▲『旧中込学校』では県の文化財保護指導委員が定期的にパトロールを行っており、そのアドバイスを参考に教育委員会で修復について検討している。「近々では、太鼓楼のペンキが剥がれてきているのでそこを補修したい」と生島さん。
太鼓楼(写真右下)の天井には東京・ホノルル・ワシントン・ロンドンなど世界の都市の方角が示されている。「当時はテレビもありませんでしたし、そうそう簡単に海外へ行ける時代ではなかったので、自分たちが勉強した都市がどちらの方向にあるか?を、この天井を眺めながら想いをめぐらせていたのでしょうね」。明治時代の子どもたちのロマンが詰まった屋根裏の空間だ

2018年 08月09日 11時05分