道頓堀は劇場のまちだった
くいだおれのまちとして、外国人観光客にも人気の道頓堀。しかし、飲食店が集まったのは、多くの芝居小屋があったからだということは、あまり知られていない。道頓堀の芝居文化は、近松門左衛門、並木千柳などの劇作家や、竹本義太夫、坂田藤十郎などの演者を生み出し、劇場にはたくさんの人が押し寄せた。時代が下っても多くの芝居小屋は映画館として生き残ってきたが、平成初期にはほとんど閉館してしまったから、当時の面影を偲ぶのは容易ではない。
そんな道頓堀に2019年3月30日、「道頓堀の芝居文化を知ってほしい」との思いで、山根エンタープライズ株式会社が「道頓堀ミュージアム並木座」をオープンした。そこで、代表取締役の山根秀宣さんに「芝居のメッカ」としての道頓堀についてお話を聞きながら、見学してきた。
江戸時代の道頓堀にタイムスリップ
不動産会社を営む山根さんが道頓堀川沿いのビルを購入したのは2017年のこと。ここから道頓堀の文化を発信したいと、ミュージアムに改装し、運営することにした。大阪の魅力を活かすまちづくり活動にも関わっている山根さんは、このミュージアムが成功し、他にも同様の施設が増えていけば、道頓堀が再び、エンタメのまちになっていくのではないかと期待を寄せる。
入館の際には、道頓堀ミュージアムの入り口に貼られた2次元バーコードをスマートフォンで読み取り、音声ガイダンスのサイトにアクセス。入り口の扉を開くと照明が点滅し、江戸時代の道頓堀にタイムスリップする。
展示コーナーには古文書に描かれた道頓堀の様子や時代ごとの芝居小屋の名称の変遷などの資料が貼りだされていて、番号が振られている。スマートフォンで同じ番号の音声ガイダンスを再生すると、文楽人形の文七くんが大阪弁で説明してくれる仕掛けだ。
ミュージアムの内部は日本最古の芝居小屋である香川県の「金丸座」を再現している。金丸座は1835(天保6)年の棟上げで、当時、道頓堀の西端にあった芝居小屋「大西の芝居」を模してつくられたとされているから、大西の芝居のミニチュアであるともいえる。
歌舞伎の三大名作と呼ばれる「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」はいずれも、浄瑠璃の戯曲として、大坂の並木千柳(なみき せんりゅう)らが合作したもの。しかしこのミュージアム「並木座」の名前の由来は、千柳の弟子にあたる正三(しょうざ)だ。
「並木正三は、劇作家としても有能でしたが、大規模な廻り舞台や舞台全体のセリ上げ・セリ下げといった機構の飛躍的な進歩に功績がありました。廻り舞台はここ、道頓堀で生まれたのです」(山根さん)
ミュージアム内には廻り舞台が復元されており、舞台上に立つ顔出しパネルで、役者気分を味わえるのも面白い。
道頓堀と芝居の歴史
道頓堀の掘削は成安道頓(なりやす どうとん)が始め、安井道卜(やすい どうぼく)が引き継いで、1615年に完成した。その11年後の1626年には、南船場から3つの芝居小屋が移動してきている。それ以前の南船場に芝居小屋が多かったのかどうかは不明だが、大坂城に近い南船場は、繁華街だったのだろう。
「川を掘るということは、もともと湿地帯だったのを、水の部分と陸の部分に分けるということ、川を掘ってできた土で湿地を埋め立て、陸にします。だから川が完成したてのころは、陸地がふかふかしていて、水害が起きやすかったのかもしれません。人が集まると、土が踏み固まりますから、土壌をしっかりさせて安全な土地にするために、人を集めたのではないかとも考えられます」と山根さん。
1796年に発行された『摂津名所図会』の道頓堀には6軒の芝居小屋が描かれているが、小さな芝居小屋を合わせると、12軒あったとされる。小さな芝居小屋は川のそばに建てられ「浜芝居」と呼ばれた。通りを一本挟んだ内陸側にあり、「陸(おか)芝居」と呼ばれた大きな芝居小屋は、西から筑後(竹本)の芝居、中の芝居、角の芝居、角丸の芝居、若太夫(豊竹)の芝居、竹田の芝居の6軒。最初に南船場から移転してきたのはおそらく、竹本の芝居、中の芝居、角の芝居だと考えられている。陸芝居の小屋に付属して描かれている櫓は太鼓櫓で、芝居の開始を太鼓で知らせた。また、幕府から興行の許可を得た印でもあった。
6つの芝居小屋はライバルであると同時に共助関係もあったらしい。たとえば、竹本の芝居の義太夫であった竹本筑後の弟子が、豊竹の芝居の豊竹若太夫。現在、文楽の義太夫の苗字は竹本と豊竹だが、ルーツをたどればいずれも道頓堀の芝居小屋にたどり着くのだ。
道頓堀は人形浄瑠璃発祥の地
人形浄瑠璃の元祖は、竹田のからくり人形芝居だ。
「支配人の竹田出雲はアイデアマンで、短編の出し物を続けざまに見せたようです。たとえば『十二人力の人形』という出し物は、人形に12本の紐を持たせ、12人で引っ張っても動かない様子を演じたものだといいますから、芝居というより、マジックのようなものかもしれません。竹田出雲は経営手腕もあり、運営も順調だったので、義太夫節の名手であった竹本筑後は、劇場の経営権を竹田に売って、芸事に専念したのです」(山根さん)
道頓堀の芝居小屋には、お互いの能力を借り合い、特技に専念できる環境があったわけだ。だからこそ浄瑠璃が大成し、歌舞伎も大きく発展したのだろう。
時代の流れの中で、芝居小屋の呼称は変化している。たとえば、竹本の芝居は大西の芝居、浪花座と移り変わった。大西の芝居と呼ばれたのは、竹本の芝居小屋が最西に位置していたから。「○○の芝居」が「座」に一斉変更したのは明治時代だそうだ。また、時代の流行により、出し物も浄瑠璃、歌舞伎、映画と変化してきたという。
一定の年齢以上の大阪府民なら、角座、道頓堀東映、道頓堀文楽座といった映画館を知っているだろう。これらはすべて、芝居小屋の後身なのだ。
上方歌舞伎と江戸歌舞伎
京都で出雲の阿国によって生まれ、大坂で発達した歌舞伎だが、江戸でも歌舞伎が演じられるようになる。大坂の歌舞伎は「和事(わごと)」と呼ばれ、心のひだを演出し、心中や恋愛ものが多かった。元祖は坂田藤十郎で、菊池寛の『藤十郎の恋』にも、藤十郎が恋愛芝居を演じるのに苦悩する様子が描かれている。江戸の歌舞伎は「荒事(あらごと)」と呼ばれ、元祖は市川團十郎。白波五人男など、ならずものが登場し、喧嘩や殺陣を披露することが多い。化粧に隈取りがあるのも特徴だ。
道頓堀ミュージアムの正面でにらみをきかせる狐忠信の顔には隈取りがあるが、「道頓堀で大改革された歌舞伎は関東にも関西にも広がり、今や世界に広がっています。だから、関東も包含しているつもりで、荒事の隈取りを入れているんです」と山根さん。実際に、上方歌舞伎と江戸歌舞伎はお互いに影響し合いつつ発展してきたそうだ。たとえば大坂でヒットした浄瑠璃は、すぐに江戸歌舞伎にも取り入れられた。その際は、著作権料の支払いもあったようで、良好な交流だったとわかる。天保の改革で芝居や娯楽が迫害された際も、大坂で追放された役者が江戸に行くこともあり、その逆もあった。江戸の七世團十郎も大坂に逃げてきており、お互いの文化を知るきっかけにもなったようだ。
大阪に住む人でも、道頓堀が浄瑠璃誕生、歌舞伎発展の地であると知らない人も多いだろう。近松門左衛門以外にも天才劇作家がいたことも、知られていない。
「私は、大阪や関西が、あるべきまちの姿であり続けられるようPRしたり提案したりする『大阪まちプロデュース』の主宰もしています。古来大阪には、芝居小屋同士が協力しあうなど、大らかで朗らかな風土があります。それをたくさんの方に知っていただけたら」と、山根さん。
素晴らしい大坂の文化は知っておきたいものだ。道頓堀で食事する際は、並木座に立ち寄って、芝居文化の歴史を学んではいかがだろう。
公開日:







