イノシシを模した亥の子餅を食べる「亥の子祭り」は日本版ハロウィン?

ハロウィンの儀式を始めたケルト人のルーツは中央アジアである。その後ヨーロッパ各地へと広がって行ったハロウィンの儀式を始めたケルト人のルーツは中央アジアである。その後ヨーロッパ各地へと広がって行った

亥の子餅をご存じだろうか。11月になると各地の和菓子店で売り出され、名前の通りイノシシの形状をしていたり、焼き鏝でうり坊のような縞模様が付けられていたりするものもある。茶道の炉開きなどにも使われ、筆者が知っている亥の子餅は中に小豆餡が入っている。そしてこの餅を亥の月(旧暦10月で現在の11月)、亥の日、亥の刻に食べると無病息災でいられるという民間信仰がある。

亥の子餅は、もともと亥の子の祝いの時に食べられてきた餅である。亥の日に亥の子餅を食べるという行事の起源はかなり古く、元々は中国の玄猪餅の習慣が日本に輸入された事に始まっている。亥の子の祝いに関しては、橘広相という平安初期の学者が記した「蔵人式」の中にも禁裏年中行事として書かれている。その後武家社会でも室町幕府や江戸幕府で正式な行事として行われ、亥の日には大名が総登城して将軍家から祝いの物が配られたと記録に残されている。

この亥の子の祝いと、農村部で行われていた田の神に感謝する収穫祭が合わさり、民間に広まったのが亥の子祭りである。亥の子祭りは西日本を中心とした地域に古くからあり、亥の月の亥の日に行われる。祭りの日には子ども達が各家を巡り、囃子歌を歌いながら亥の子石と言う地突き石で地面に凹みができるまで叩く。そうするとその家の人が亥の子餅と呼ばれる雑穀を混ぜて作った餅をくれるので、それを持って帰って亥の刻に食べると無病息災に過ごせるという。

ここ数年、10月31日になると大勢の若者たちが、思い思いの趣向を凝らした仮装に身を包んで街に繰り出してハロウィンを楽しんでいるが、これも本来はケルト人の収穫を祝い悪霊を払う儀式である。魔女やお化けの仮装をした子どもたちが家々を巡り、お菓子を貰って歩くハロウィンと似たような行事は、日本にも古くからあったというわけだ。

亥の子祭りの「地突き」と相撲の四股は、邪神を祓う陰陽師の術から生まれた

それにしても、田の神にその年の収穫を感謝し来年の豊作を祈る祭り、つまり神事であるのにもかかわらず、その神様が居るはずの地を亥の子石で打ちまわるとは、なにやら奇異な感じがする。なぜ子どもたちは亥の子石で、田畑の畔や農家の庭先などを突いてまわるのだろうか。

これは田の神の性質に由来している。実は田の神は山の神と同一神であり、2月の亥の日に山から田に降りてきて、収穫が終わった亥の月の亥の日に山に帰っていくと信じられていた。すなわち、亥の子祭りの日には既に田んぼに神様はおらず、空いた場所に悪神や邪神が入り込まないように、祓い清める為に行っていたのである。

地面を叩くのは相撲で四股を踏むのと同じく、大地を踏みしめることで邪神を祓う意味がある。これは昔の陰陽師が、貴人が外出する時に、事前にその行く道を呪文を唱えながら、足を引き摺る様にして歩く「禹歩(うほ)の呪法」を真似たものであった。

また、地面を叩くことにはモグラ退治の目的もあったようである。モグラは田畑の害獣であり、畦に穴を開けて決壊させてしまったり、土壌を守るミミズを大量に捕食し耕作地を枯れさせる原因になったりするため、モグラ退散の意味も込められていたという。

このように、亥の子祭りの地突きとは、田の神が留守の間に邪悪なものや害獣が入り込まないよう、念入りに鍵をかけてまわる行事というわけである。


相撲のルーツは、神仏への奉納行事が元になっている相撲のルーツは、神仏への奉納行事が元になっている

関東では十日夜、現在では農村部から子どもが減り亥の子祭りも減少傾向に

亥の子祭りは関西地方になじみ深く、関東では名前を知らない人もいることだろう。しかし実は関東地方でも、十日夜(とうかんや)と名前を変えて、似たような行事が盛んに行われていた。これも田の神が不在の間の邪気祓いと来年の豊作を祈る行事で、子ども達が旧暦10月10日に、集落の家々を巡り歩いて、藁鉄砲と呼ばれる藁束で地面を叩き、囃子歌を歌いながら儀式を行い、その礼としてお菓子や餅などが振る舞われた。

さて、戦前や昭和30年代頃までは西日本各地の農村部でよく見られた亥の子祭りも、現在では関西地方の一部で受け継がれるだけとなってしまった。またイノシシは多産なことから、五穀豊穣や子孫繁栄を祈願する祭礼に姿を変え行っている神社などがある。

廃れてしまった原因は、高度成長期に農業人口が減少し、過疎化が急激に進行したことがあげられるだろう。亥の子祭りの実行者の子どもの数が農村から激減してしまったのである。それともうひとつ興味深いのは、この時期になると亥の子祭りの練習で、勉強に身が入らなくなることを理由に、昭和40年頃に各地の小学校で校内での祭りの練習を禁止してしまったことも大きいといわれている。

さて亥の子祭りには囃子歌が付きものであり、様々な地域で残されているが、内容はおおよそ、仕事を真面目に頑張れば将来は大成功してお金持ちになれますよといった成功譚である。しかもそこには、人としての徳目も備えなければならないと説いている。亥の子祭りには、子どもの健やかな成長と立派な大人になって欲しいという親心も託されていたのだろう。

亥の子祭りで使われる地突きのための道具。周りに何本もの紐が取り付けられ、大勢で引っ張る亥の子祭りで使われる地突きのための道具。周りに何本もの紐が取り付けられ、大勢で引っ張る

亥は五行思想では「水」、コタツや囲炉裏を使い始める習慣も

コタツの歴史はとても古く、平安時代の禅寺で使われだしたのがはじめとされているコタツの歴史はとても古く、平安時代の禅寺で使われだしたのがはじめとされている

ちなみに亥の月の亥の日は江戸時代においては、コタツを出す日でもあった。茶道をされる方はご存じだと思うが、現在でもこの日に炉開きを行う習慣が存在する。炉開きとは、11月の1日か最初の亥の日に、閉じられた炉に火を入れる日である。この亥の月の亥の日にコタツや囲炉裏を使い始めるいう習慣は、ちょうど寒さが厳しくなる時期ということもあるが、大きな理由に亥は五行思想で「水」に当たるということがある。

五行思想とは古代中国の思想の基礎的な部分を構成しているもので、世の中の森羅万象は「木・火・土・金・水」の5種類に分類され、相互に影響し合い、その生滅盛衰によってすべての物が変化循環するという考え方である。このような考え方は多くの東洋思想に影響を与えてきた。

動物のイノシシは五行思想では水に分類され、また十二支における亥年も水である。そこで当時、最も怖く身近な災害であった火事を逃れるために、亥の月の亥の日にコタツを出したのはさもありなんと頷ける話である。

亥の日に亥の子餅のゲン担ぎが、土用の丑の日は鰻に繋がる?

さて亥の子祭りに戻ろう。祭りにつきものの亥の子餅は、現在は可愛らしく美味しい和菓子であるが、当時はどんなレシピで作られていたのだろうか。それぞれの時代に残された文献から記録を見ると、概ね共通することは雑穀を混ぜて突いた餅ということである。

どんな雑穀が混ぜられたのか、餅米を使ったものか、うるち米か、はたまた古代米か、時代により様々で、文献資料の中には定型のものは無いようである。江戸時代に書かれた雑記によると、小豆を煮て、煮汁を使って餅米を炊き、赤茶色のご飯に煮た小豆を入れてかき混ぜると記載されたものも存在し、現在の赤飯も亥の子餅のひとつの形であったことが窺える。

このように時代時代で変化しつつも、亥の月、亥の日、亥の刻に亥の子餅を食べると、無病息災という行事は永く広く行われてきた。ここでちょっと面白いことに気が付く諸氏も多いのではないだろうか。土用の丑の日の鰻も似たような構図にあることだ。

今では、当たり前になっている土用の丑の日に鰻を食べるという習慣は、江戸期・安永年間頃(1772年〜1781年)に始まったと、青山白峰が書いた当時の江戸風俗の本「明和誌」に記されている。もともとは丑の日に「う」で始まるものを食べると、夏バテしないというのが基本の考え方で、鰻でも饂飩でも梅干しでも良かったそうだ。ちなみに余談だが、この「明和誌」の中には、江戸洒落言葉である「親ばかちゃんりん蕎麦屋の風鈴」の元になった風鈴蕎麦の出現は宝暦年間(1751年〜1764年)であるとも書かれている。

この土用の丑の日の習慣が、当時の庶民たちにすんなりと受け入れられた土壌には、平安時代から続く亥の子餅の文化がすでに根付いていたからこそだろう。亥の日に亥の子餅を食べると無病息災なのだから、丑の日には「う」で始まるものを食べれば良いとは、何とも面白い話である。

こんなに楽しく豊かな日本の風習である亥の子祭り、亥の日には亥の子餅を食べて無病息災を願ってみるのは如何だろうか、2019年の亥の年がまた違った1年になるかもしれない。

現代では茶事に供される茶菓子として、炉開きの頃に売り出されることが多い現代では茶事に供される茶菓子として、炉開きの頃に売り出されることが多い

2018年 10月16日 11時05分