時代を象徴する元号。「令」と「和」の文字が持つ本来の意味と、風水が示すこと

広島県宮島町にある豊国神社の千畳閣に設置された干支恵方盤。これも五行思想に基づいている。日本人にとって風水とは神の言葉を聞くためのものであった広島県宮島町にある豊国神社の千畳閣に設置された干支恵方盤。これも五行思想に基づいている。日本人にとって風水とは神の言葉を聞くためのものであった

2019年4月1日、新元号「令和」が発表された。さてどんな時代になるのだろうか?そもそも元号とは、東アジア諸国の紀年法、つまり年を数えるシステムの一種である。中国で始まり朝鮮半島諸国やベトナム、日本で使われてきた。しかし現在、元号を持つ国は日本だけとなっている。

それにしても元号はなぜ、2000年もの長きにわたり使われ続けてきたのだろうか。その答えは東洋思想の根幹にある。西洋は一神教的価値観の社会であり、東洋は多神教的価値観の社会であるという部分だ。

多神教的価値観では、すべてのものに神が宿り、人の発する言葉にも神が宿る、呪力があると信じられてきた。「言霊」である。そしてその「言霊」を書き写した「文字」にも同じような呪力が宿るとされた。文字には呪の力があり、その意味するところに導く力があると信じられてきた。つまり元号とはその時代を導くものであり、象徴するものであったのだ。

そしてこのような東洋の多神教的価値観の中で4000年の長きにわたり育まれてきたのが、陰陽五行説や風水といった思想である。

では「令和」はどんな時代になるのだろうか。実は風水で同じ運気を示す元号が過去にひとつだけあった。果たしてそれはどんな時代だったのか。今回は「令」と「和」という文字が持つ本来の意味と、風水が指し示していることを考察してみよう。

元号のはじまり、良い統治者なら災害は起きない?

元号をはじめて採用したと言われる前漢の武帝の陵墓。現在の西安郊外、渭水の丘陵地帯にある。この近くには前漢9皇帝の陵墓もある元号をはじめて採用したと言われる前漢の武帝の陵墓。現在の西安郊外、渭水の丘陵地帯にある。この近くには前漢9皇帝の陵墓もある

まず初めに、元号のはじまりとその歴史を簡単にご紹介しよう。中国で初めて元号が登場したのは前漢武帝の治世、紀元前115年である。それ以前は、文帝の3年とか宣帝の5年といったように、王や皇帝の諡(おくりな)と在位期間をそのまま年号としていた。つまり一世一元であった。

武帝が元号を始めた背景には、儒教の国学化がある。論語に「鳳鳥至らず、河は図を出さず、吾れ巳んぬるかな」とあるように、儒教では君主が聖なる徳によって万民を統治した時、天は吉兆となる自然現象を起こして祝福し、君主がその器にあらずと天が判断すると災害が起こると考えた。

つまり良い統治者であれば素晴らしい自然現象が起きるはずで、これを祥瑞思想(しょんずいしそう)と言う。その逆で悪いことが起きるのが天譴説(てんけんせつ)だ。しかし統治者からしてみれば、いくら頑張って善政を行っても、吉兆が現れず災害が起こってしまえば、愚帝の烙印を押されてしまうことになる。

そこで未曾有の災害が起こると、国内中で吉兆と呼べる自然現象を徹底的に探させ、こんな吉兆があったと奏上させた。つまりこの王朝は天の祝福を得たと、民衆へ喧伝させたのである。加えて民心を落ち着かせるために、元号をその吉兆に関係した文字へと改元した。

このように元号とは、民衆を統治するための政治利用を目的として始められたものであった。ちなみにこの時代の元号は6年おきに変わっている。これは当時の思想に「天道以九制、地理以八制、人道以六制。以天為父、以地為母。」とあり、人の道は6を以て制す、6年経ったらいったん終わり、次の6年がスタートすると考えられていたからである。

現在日本では元号は一世一元、つまり天皇一代にひとつの元号と定められているが、それは明治以降のことであって、それまでは在位中であっても様々な事由により改元されている。645年大化の改新の年から始まった日本の元号の歴史は、125代天皇の御代、247の思いやドラマに彩られ、様々に名付けられてきた。そして2019年より248番目の元号となる「令和」が始まることとなったのである。

「令」と「和」の文字が持つ本来の意味、風水が示す「土」の時代

象形文字の成り立ちがよくわかる河南省安陽市にある殷墟博物苑の甲骨文字の石碑。甲骨文字とは古代中国の文字で亀甲や獣骨に刻まれ記録として残された。漢字の原型象形文字の成り立ちがよくわかる河南省安陽市にある殷墟博物苑の甲骨文字の石碑。甲骨文字とは古代中国の文字で亀甲や獣骨に刻まれ記録として残された。漢字の原型

では「令」と「和」の文字が持つ意味を、その成り立ちから探っていこう。「令」という文字は、頭上に冠を頂く象形と、地に跪坐く人の象形を合わせた会意文字である。天意や神の言葉を地に跪き耳を傾けて聞くことを意味し、そこから転じて、命ずるやいいつける、天皇の詔などを意味するようになった。

「和」という文字は、穂先が垂れかかる穀物の象形と口の象形で構成される形声文字である。田畑でたわわに実った作物を、人と人が声を掛け合い収穫する様を表していることから「あわせる」「なごむ」という意味となった。

この「令」と「和」という二つの文字の組み合わせを見ると、たわわに実った作物を前に歓喜に沸く人々の穏やかな暮らしを天が授けてくれるとも読める。

次に「令和」を風水で考察してみよう。風水は、中国の古代思想「陰陽五行説」に基づき生み出されたものである。陰陽五行説とは、世の中のすべては「木・火・土・金・水」の5種類の元素から成り立っていて、この5つはそれぞれ意味や性質を保持し、そのバランスによってさまざまな事象が引き起こされるという思想である。

日本でも古い時代より風水を取り入れた街づくりやまつりごとが行われてきた。中でも京都は様々な風水の呪法を綿密に組み合わせ作られた風水都市として有名である。

では「令和」を五行で分類してみよう。地に跪く人と大地の恵みの穀物から、2文字共に「土」に属するエレメントであることが分かる。

加えて「令」の画数は5画、「和」が8画で、九星気学では5も8も「土星」である。元号の画数にどんな意味があるのかと疑問に思う諸氏もいると思うが、生まれた子どもの名付けの時に、姓名判断の本を買った人も少なくないのではないだろうか。東洋思想では古来より文字の画数の吉凶を、非常に重要なこととして捉えてきた。

ちなみに姓名判断の5画+8画の13画の項目をみると、最大吉とある。13画の名前の人は、人気運が強く、頭の回転が速く、機転が利き、年長者からの援助が得られるとある。

加えて、新元号が始まる5月1日は夏の土用であり、これもまた五行の「土」。干支は己亥(つちのと・い)で五行の分類では土剋水、これは土が水を陵駕するという意味である。ここまで「土」が重なるのは珍しい。令和はまさに「土」の運気を持つ時代と言える。

過去に「令和」と同じ運気を持つ元号はたったひとつ、どんな時代だった?

新疆ウイグル自治区ウルムチの遊牧民の暮らし。後秦国を率いた姚興とはこの様な遊牧民族であった。歩兵を中心とした漢民族に機動力で優っていた新疆ウイグル自治区ウルムチの遊牧民の暮らし。後秦国を率いた姚興とはこの様な遊牧民族であった。歩兵を中心とした漢民族に機動力で優っていた

では「土」の時代とはどんな時代だろうか。
実は五行思想における5つの元素には発生の順序がある。世界が混沌から生み出された時、初めに陰の冷たい部分が北に集まり水行となり、次に陽の熱い部分が南に移動して火行になった。さらに残った陽が東に移って木行を生じ、残った陰が西に移動して金行を生じた。そして最後にすべての各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。すなわち土行とはすべての要素を併せ持った混沌にして全なる存在というわけだ。

しかしこれではあまりにも観念的で、なかなかイメージしにくい。そこで東アジア諸国において、風水的に令和と同じ運気を持つ過去の元号を探してみた。探す条件は、元号の文字の画数が5+8の土星であり、初年の干支が己亥であり、初年の始まりが土用の「土」の時代である。

しかしそこまで「土」が重なる時代はほとんどなく、日本の247ある元号の中に該当するものは存在しなかった。朝鮮諸国にもベトナムにも無かった。ただ1つだけ、中国の元号835(含む満州国)中に見つけることができた。

その元号は西暦399年、五胡十六国時代の後秦国の第2代皇帝である姚興(ようこう)の時代の「弘始」である。さて「弘始」はどんな時代だったのだろうか。

古代中国の歴史は紀元前2070年頃に起こった漢民族の夏王朝から始まったと言われている。これ以後、中国の覇権は、殷、周、春秋戦国の時代を経て、秦の始皇帝の中華統一、前後漢、三国時代と目まぐるしく変わるものの、一度も漢民族の手から離れることはなかった。

しかし、西暦304年に始まった五胡十六国時代で中国史上初めて、他民族が王朝を築いた。といっても大きな王朝ではなく、五胡十六国時代と言うように、小さな王朝が数多く立ち並んだ時期ではあるが、他民族が中国国内に数多く国を建て、その中で頭角を現したのが後秦国の姚興である。

姚興は、漢民族の都市洛陽をはじめ、漢水以北の諸城をことごとく占領し、大勝利を収めたことを祝うために、後秦国の元号を「弘始」へと改元した。そしてこの大勝利こそが姚興を中国北方部の盟主へと押し上げる一大転機となった。

西暦399年に洛陽陥落から始まった「弘始」は、416年姚興の崩御まで18年間続いた。途中、改元されることもなく、後秦国の輝かしい繁栄の時代を象徴し続けたのである。

「弘始」の時代がもたらした新しい価値観と多様性への寛容。新元号「令和」はどんな時代になる?

新疆ウイグル自治区アクス地区にあるキジル石窟群と鳩摩羅什の像。3世紀頃の西域仏教の寺院遺跡で、当時の亀茲国には1万人の僧侶が暮らしていた新疆ウイグル自治区アクス地区にあるキジル石窟群と鳩摩羅什の像。3世紀頃の西域仏教の寺院遺跡で、当時の亀茲国には1万人の僧侶が暮らしていた

「弘始」という元号の時代が中国にもたらしたものは、新しい価値観と多様性への寛容であった。

後秦国の皇帝である姚興は、中国に初めて仏教を招き、国教として擁護した。姚興は人民への布教のために、鳩摩羅什(くまらじゅう)という亀茲国(きじこく・現在の新疆ウイグル自治区クチャ県)出身の僧侶を長安に招き、300巻の仏典を漢訳させた。

399年当時の中国大陸は、儒教や道教といった思想を基本とした社会を構成しており、侵略王朝としては、それらの思想的社会を上書きして、自らの支配体制を確立する必要があったからである。しかしながら、そのおかげで中国は、仏教という新しい価値観を得ることができた。

また他民族が多数流入したことによって、これまでには無かった文化、文明も多数流入した。多民族国家である中国という大国の思想的礎となる多様性への寛容は、この元号の時代から始まったと言っても過言ではないだろう。

「令和」はどこへ向かうのか。新しい価値観と多様性への寛容と言われるとなんだかそんな気もするし、何やら新しい時代がやってくる気配もする。新元号が発表された4月1日は、旧暦では寒さも緩くなり、防寒のために入れていた綿を抜く「わたぬき」と呼ばれる衣替えの日である。新しい令和の時代が、暖かく光溢れる日々であればと願うばかりである。

2019年 04月20日 11時00分