広大なエリアに残る武家屋敷の町並み

角館・武家屋敷が残る表町・東勝楽丁の通り。約11メートルという広い道幅の両脇に黒板塀が連なる(写真上)。享保絵図の頃から屋敷割が変わらない典型的な武家住宅の形を残す「岩橋家」(写真下)角館・武家屋敷が残る表町・東勝楽丁の通り。約11メートルという広い道幅の両脇に黒板塀が連なる(写真上)。享保絵図の頃から屋敷割が変わらない典型的な武家住宅の形を残す「岩橋家」(写真下)

日本で最初の重要伝統的建造物群保存地区に選定された町並みのひとつに、秋田・角館の武家屋敷がある。JR角館駅から15分ほどの表町・東勝楽丁の通りには、現在6軒の武家屋敷が並び独特な景色が広がる。

「東北の小京都」と称されることも多い角館の武家屋敷群だが、屋敷保存に尽力する秋田県仙北市教育委員会の山形幸子氏は「京都の町家と武家屋敷はまったく違う」と異論を唱える。

確かに、表町・東勝楽丁の通りを歩いてみると、京の風情とはまた違った景観に圧倒される。町割りができた江戸の当時から変わっていないという道幅は約11メートルと非常に広く、黒塗りの板塀が風格を漂わせながら連なり、その板塀からは樹齢を重ねた大木の枝が緑をたわわに誇りながら通りにせり出している。武家屋敷というだけに敷地も町家などとは比較できないほど広い。一軒の武家屋敷の端から端まで歩くには少々時間がかかることに驚かされる。

「日本でもこれほどの規模で武家屋敷が残る地区はありません。商家や宿場町や山村集落など多くの伝統的建造物群がありますが、武家屋敷というのは一番残りにくいのではないかと感じます」と山形氏は説明する。それは、町家などとは比較できない広い敷地を保持していかなければならないこと、また、武士の威厳を保った屋敷をメンテナンスするには血のにじむような努力が必要だからだ。

今回は、日本の貴重な建造物遺産「角館・武家屋敷」の魅力と、武家屋敷保存の難しさ、そして存続に腐心してきた地元の取り組みについて、秋田仙北市教育委員会にうかがってきた。

江戸時代の町割りがそのままに残る

お話をうかがった秋田県仙北市教育委員会 文化財課の冨木弘一課長。角館ご出身で、もちろん、後述の「やま行事」をこよなく愛しているというお話をうかがった秋田県仙北市教育委員会 文化財課の冨木弘一課長。角館ご出身で、もちろん、後述の「やま行事」をこよなく愛しているという

かつてこの角館を所有していたのは、岩手の豪族をルーツとする戸沢氏である。しかし、現在残る武家屋敷の町割りを形成したのは、江戸の世にこの地へ転封となった芦名氏の時代に入ってからだ。

秋田県仙北市教育委員会 文化財課の冨木弘一課長は、この町割りの成り立ちを次のように語る。「戸沢氏の時代には古城山(ふるしろやま)に角館城があり、その北側に城下町が設けられていました。しかし城下が狭く、たびたび大規模な水害に見舞われていたこと、また前年に甚大な洪水被害が出たことから、芦名氏統治の元和6年、復旧の一手としてこれまでとは正反対の城の南側の原野に城下移転を進めたものと言われています」

古城山南麓に芦名氏の屋敷を構え、これを中心に南北3本の通りを通し、中央の通りをメインに約700メートル辺りまでを武士の居住区に、それより南を商人、さらに東や南の区域の端には寺を建てた。また武士と商人の居住区の境には、幅21メートルの広場に土塁を築き「火除け」地域とされている。

「現存する享保年間の城下絵図を見てみると、現在の町割りと変わらないことが分かります。当時から武家屋敷が並ぶ通りの道幅が約11メートルと広かったことは、戦国の世が終わり天下泰平の時代に入ったことを象徴しているのでしょう。また、芦名氏はそれまでの江戸崎の領地を没収される形でこの地に転封を余儀なくされています。この道幅の広い立派な町割りは、お家再興にかけた芦名のプライドが表れているのかもしれません」(冨木課長)

現代に「武家」を残す難しさ

秋田県仙北市教育委員会 文化財課の山形幸子氏。保存事業を単なる事業として進めるのではなく、日ごろから地域の方々に寄り添い「武家屋敷」を守る秋田県仙北市教育委員会 文化財課の山形幸子氏。保存事業を単なる事業として進めるのではなく、日ごろから地域の方々に寄り添い「武家屋敷」を守る

この武士居住区内に現存し、公開されている武家屋敷が「岩橋家」「小田野家」「河原田家」「旧松本家」「旧青柳家」「石黒家」の6家だ。「石黒家」はなんと現在もこの武家屋敷に子孫が暮らし、主屋と庭園を公開。旧青柳家では明治以降買い足された広い屋敷地を管理し、残り4軒に関しては、市が借り受ける形で屋敷を残し公開に踏み切っている。

保存の動きが始まったのは、昭和40年代。昭和48年には町内有志が「武家屋敷保存協議会」を結成し、まずはじめに「青柳家」「岩橋家」の保護を行った。そうした努力もあり、昭和51年にはこの角館の居住区が初の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

「重要伝統的建造物群保存地区の選定はこの年が初めてのことでしたから前例に学ぶことができず、随分苦労したと聞いています。当時武家屋敷のほかにも民家が50戸ほど残っていたのですが、“昔の暮らしに戻さなければならないのではないか”など地区住民の方々が随分と不安視されたそうです」(山形氏)

暮らしを江戸時代に巻き戻すようなことはなかったが、やはり重要伝統的建造物群保存地区として、建物や景観を残すことは、そこに住む人に対してある種の努力を強いる。黒板塀のファサード修景などで補助金が出るものの、自分の家でありながら増改築を勝手に行うこともできず、庭の木々すら指定木ともなると自由に剪定することができない。

「商家であれば、重要伝統的建造物群保存地区の選定にもメリットが大きいでしょう。修景などを行い観光客を多く呼び、家業の集客にも利点があります。しかし、武家町の角館では今では普通の民家が多いのです。武士の時代(封建制度)が崩壊した後に、武家の町並みを現存させることの困難さは想像に難しくありません。本当に武家屋敷はもちろんのこと、一般住宅の方々みなさんの努力以外にほかなりません」(山形氏)

だからこそ山形氏は、時間をかけて丁寧に地域の方々の話に耳を傾ける。修景などの事業があるときだけでなく、普段から家々を回り、住み続ける方々の声を拝聴しているというのだ。
「これだけのものを守るというのは大きな負担です。何か修景事業などがあるときにだけ足を運んでお願いするなどということはできません。普段からお困りごとがあれば、少しでも何か対応していきたい。そのつもりでお話しをうかがっています」と山形氏は笑う。

町家とは構造も異なる武家屋敷のスケール

武家屋敷は生活の場所であると同時に城郭をなしていると考えられる――という。それだけに、町家のつくりとは構造が異なる。敷地の広さは前出しているが、まず印象的なのは門に黒板塀、そして間口の広さだ。黒板塀の前には側溝がつくられ、地場産の石を数段だが石垣のように積み上げ、その上に板塀がつくられる。この黒板塀などは実用性よりも格式を表しているそうだ。

また「表玄関は冠婚葬祭や主君の使者をお迎えする場合しか使われない。普段当主ですら出入りをできるのは脇玄関で、脇玄関を入ってすぐの上がりかまちで入る人を分けている」と山形氏が説明してくれた。

そして庭へ続く門をくぐるとどの家も立派な前庭が現れ、枝垂桜やモミなどの巨木が立ち並ぶ。これら樹木のおかげで、通りからは屋敷の全景をうかがうことができない。この通りからの距離感も防犯という狙いもあったと思うが、何よりも武士の威厳を象徴しているのだろう。明治の頃にも大火があり、燃えてしまった樹木も多いというが、それでも幹は太く空高く見上げるほどに背丈も高い木々が静寂な庭をつくりあげている。

屋敷は萱葺屋根であったり、切妻造りの木羽葺(こばぶき)屋根などだ。これは杉のマサ目にそって薄く割った板「ザク」を屋根材に使用するもの。実は秋田藩では江戸時代の中期に木材の枯渇を心配して使用を禁止したが、角館では願い出て特別に許可をもらっている経緯がある。それだけ角館は一目置かれていた地域であったのだろう。現在でも岩橋家では木羽葺屋根が残され平成18年には国と県の補助対象事業として補修されている。建物とともに「ザク割」と呼ばれる屋根づくりの技術を残すことにも尽力されている。

表玄関に近くには表座敷があり、ここには客人や主人しか入れない。座敷には「土縁」という東北地方の降雪に考慮した建築様式が用いられている。これは、座敷の先まわりに板縁と土間をめぐらせ、その外側に障子張りの高窓つきの雨戸をめぐらすものだ。冬になるとこの雨戸は閉めっぱなしになるのだが高窓のおかげで明かりがとれる工夫がされている。

裏庭の敷地が広くとられている屋敷もある。実はかつてここには畑がつくられていたそうだ。ここ角館は芦名家の転封やお家断絶なども経験している。家臣の俸禄も十分とはいかなかったはずだ。それでも、屋敷の表は威厳を保ち、人目につかない裏にひっそりと畑をつくる。武家の涙ぐましい努力が感じられるエピソードだ。ちなみにこちらの岩橋家は、映画『たそがれ清兵衛』のロケ地にもなった場所。監督の山田洋次氏は、武家の暮らしを再現できる場所はこの角館しかないと語ったそうだ。建物の佇まいだけでも感じさせる武家の格式。そして今でも続く家では年中行事や氏神の祀り方に至るまで、連綿と家を守る武士のしきたりを受け継いでいるという。

「最近では、海外の方たちも多くこの角館を訪れてくださります。ただ観光地として“武家屋敷の中が公開されているのが当たり前”と捉えられてしまうには戸惑いがあります。今なお生活されている“石黒家”さんはもちろんのこと、周辺の民家でもみなさん、ここで暮らし、江戸の世の景観を懸命に繋いでくださっているのです。見せてもらって当たり前ではなく、守り続ける人々の想いがあることを知っていただけたらと思います」(山形氏)

岩橋家の屋敷正面、懸魚(げぎょ)の飾りが意匠を凝らしている(写真A)。ちなみに岩橋家は木羽葺屋根で、杉を用いた「ザク割」という技が使われる(写真D)。青柳家の薬医門は万延元年(1860年)建立(写真B)。表座敷は畳敷きで、ここにはお客様や主人しか立ち入れなかった(写真C)岩橋家の屋敷正面、懸魚(げぎょ)の飾りが意匠を凝らしている(写真A)。ちなみに岩橋家は木羽葺屋根で、杉を用いた「ザク割」という技が使われる(写真D)。青柳家の薬医門は万延元年(1860年)建立(写真B)。表座敷は畳敷きで、ここにはお客様や主人しか立ち入れなかった(写真C)

町全体の大きな循環をつくり、武家屋敷を残す

古民家や町家などの建物を残すことは、本当に簡単なことではない。中でも「武家屋敷」の町並みを残すことは、その規模や風格を損なわないことが合わさるのだから並大抵の努力でないことがうかがえる。

しかも、表町・東勝楽丁の通りでは、外観の規制を伴うため、観光と保存の共立という難しい課題がある。冨木氏・山形氏はだからこそ、まち全体でのこれからの保存の仕組みが必要だという。

「角館の南、外町には町家が残り古くからの商家も存在しています。今後はここを観光地として力を入れ、その収益を武家屋敷の町並みに還元していく。武家屋敷を単独で残すことは資金面でも今後ますます難しくなっていくでしょう。単独での保存ではなく、まち全体の大きな循環がつくれるように努力していきたいと思います」(冨木課長)

角館には、毎年9月7日~9日まで「やま行事」と呼ばれる大規模な祭りが執り行われる。これは17丁内から出される武者人形や歌舞伎人形を飾った大型のヤマを曳き回す祭りだ。それぞれのヤマが通る道筋が決まっていないため、ヤマ同士は頻繁に鉢合わせとなり、どちらが先に通るかが交渉されるが、決裂するとヤマをぶつけあう「やまぶっつけ」がおこる荒々しいもの。

祭りは、芦名家断絶の後をついだ佐竹北家の現当主が上覧するのが習わしだ。現当主は、佐竹敬久秋田県知事。この日ばかりは私人にもどり佐竹北家当主として上覧を欠かさないのをはじめ、県外で暮らす地元出身者もこの祭りに参加するためにこぞって戻ってくるという。

こうした文化を守り続ける角館の人々だからこそ、奇跡的にも武家屋敷の景観をここまで残してこれたのだろう。そして、角館の挑戦はこれからも続いてゆく。

樹齢300年前後と思われる岩橋家のカシワ、天然記念物に指定され樹高22.5メートル。明治の大火も免れて現存している樹齢300年前後と思われる岩橋家のカシワ、天然記念物に指定され樹高22.5メートル。明治の大火も免れて現存している

2018年 09月26日 11時05分