岡藩の武家屋敷の古いまち並みが今も残る大分県竹田市

大分の玄関口であるJR『大分』駅から豊肥本線に乗って約1時間30分、大分県竹田市(たけたし)は人口約2万3000人の小さなまちだ。

小さいながらも観光資源は実に豊富で、かの作曲家・瀧廉太郎が『荒城の月』の構想を練ったとされる岡城の城壁が今も残されており、岡藩時代の繁栄ぶりを窺わせる城下町のまち並みには『武家屋敷通り』と呼ばれる石垣と土塀の路地が続く。また、近年では『竹田の隠れキリシタン』のミステリーが話題となり、全国からこの小さなまちに観光客が押し寄せている。

観光資源が豊富に揃い、観光地としての話題性にも事欠かない…他の自治体からすると羨ましい状況ではあるが、現在竹田市では大切な市の資源のひとつである『武家屋敷通り』のまち並み保存について、様々な課題を抱えているという。竹田市教育委員会文化財課長であり歴史資料館の館長を務める佐伯治さんに話を聞いた。

▲文治元(1185)年に築城された岡城(豊後竹田城)は、稲葉川と白滝川に挟まれた標高約325mの崖上に築かれた「難攻不落」と称えられた名城。中世の志賀氏から近世の中川氏へと城主が変わり、増改築を繰り返しながら慶長5年に完成したと伝えられている(現存する岡城跡は国指定史跡)。城の石垣として使われている人工的に丸みをつけた『かまぼこ石』は岡城の意匠的特長のひとつ。防御のためではなくデザイン性を重視したものとされ、竹田の石工技術の高さを物語る。城跡には 竹田の街づくりに欠かせない阿蘇溶結凝灰岩がむき出しになった箇所も確認できる▲文治元(1185)年に築城された岡城(豊後竹田城)は、稲葉川と白滝川に挟まれた標高約325mの崖上に築かれた「難攻不落」と称えられた名城。中世の志賀氏から近世の中川氏へと城主が変わり、増改築を繰り返しながら慶長5年に完成したと伝えられている(現存する岡城跡は国指定史跡)。城の石垣として使われている人工的に丸みをつけた『かまぼこ石』は岡城の意匠的特長のひとつ。防御のためではなくデザイン性を重視したものとされ、竹田の石工技術の高さを物語る。城跡には 竹田の街づくりに欠かせない阿蘇溶結凝灰岩がむき出しになった箇所も確認できる

阿蘇山の噴火による溶結凝灰岩で造られたまち

「竹田のまちは、阿蘇の溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)でできていると言っても過言ではありません。阿蘇山では約28万年前から4度に渡って大きな噴火があり、一番最近の大きな噴火は9万年前だったと言われています。噴火によって高熱の火砕流が流れ出て堆積して固まり、そこに雨が降って川ができる…その地形をうまく利用して築かれたのがここ岡城です。

岡城は崖の上にありますが、現在の町屋のほうは湿地帯で数軒の農家があったと伝えられています。そこに碁盤の目状の城下町をつくり、現在の竹田市街が形成されたのです。溶結凝灰岩を使えば材料はいくらでもありますから、まちづくりの際には竹田独自の石工技術が発展していきました。市内に石垣を使った家や石橋が多いのも、昔ながらの石工技術が残っているからだと言われています」(以下「」内は佐伯さん談)

この時代の日本家屋は「手直しできるところに良さがある」と佐伯さん。確かに、イマドキの日本の住宅は30年もすれば建物の価値がゼロに等しくなり、取り壊して建てなおすケースが多いが、武家屋敷通りの古い日本家屋はパーツの取替えがきく。瓦は悪くなったところを差し替え、土壁は剥いで塗りなおせば元に戻すことができる。「古くからの生活の知恵で、家の補修を繰り返しながら大切に長く使うことによって、武家屋敷通りのまち並みが保たれてきたのです」

▲豊臣秀吉が天下統一を果たした時代に、初代岡藩主となった中川秀成が造った城下町。殿町の『武家屋敷通り(歴史の道)』には、見事な土塀・石垣を持つ13軒の武家屋敷が約120mの路地に沿って軒を連ねている。「この道を通ると“まるで土塀と石垣の見本市みたいだな”と思います(笑)。ここは岡藩の中でも“中の上”ぐらいのランクの武士たちが暮らす住居エリアでした。古いお宅だと築200年ほど。平成28年の熊本地震で少し傷んだ箇所がありますが、今も代々の家を守りながら生活を続けている方がいらっしゃいます」▲豊臣秀吉が天下統一を果たした時代に、初代岡藩主となった中川秀成が造った城下町。殿町の『武家屋敷通り(歴史の道)』には、見事な土塀・石垣を持つ13軒の武家屋敷が約120mの路地に沿って軒を連ねている。「この道を通ると“まるで土塀と石垣の見本市みたいだな”と思います(笑)。ここは岡藩の中でも“中の上”ぐらいのランクの武士たちが暮らす住居エリアでした。古いお宅だと築200年ほど。平成28年の熊本地震で少し傷んだ箇所がありますが、今も代々の家を守りながら生活を続けている方がいらっしゃいます」

古い・新しいに関係なく、その時代らしさを持った建物を後世に残したい

竹田市街を歩いていると、まち全体が歴史博物館のようの実におもしろい。江戸時代の武家屋敷通りだけでなく、明治・大正から昭和の戦前の建物まで、日本の建築史をまちの風景から知ることができる。

「このまちに残されているのは、もともと竹田番匠と呼ばれた高い技術を持つ竹田の職人さんたちが大切に造ってきた建物。時代は違っても“その時代らしさ”が表現された建物が多いですから、古い・新しいに関係なく今後も残し続けたいと考えています。

しかし、今はちょうど世代の変わり目を迎えているため、所有者が代がわりして“新しい家に建て替えたい”とおっしゃれば、市としてはそれを止める方法がありません。極力、所有者や住民の皆さんの理解が得られるように、“この建物は竹田の財産です。後世に残していきませんか?”と語りかけ、交渉していくのがわたしの仕事ですね(笑)」

ちなみに、岡藩藩主であった中川家は、廃藩置県の折に江戸へ移った。それと同時に家臣たちも中川の殿に同行して江戸へ出てしまったため、古い建物の多くは本来の所有者から人手に渡ってしまったそうだ。

「住まいは一度人手に渡ると所有者の愛着が無くなるので、“建物保存”よりも“生活の快適さ”のほうが重視されるようになります。こうして古い建物の補修の機会が無くなると、地元の職人さんたちの技術も育たなくなる…実はいま、竹田には石垣石工さんが1人もいなくなってしまいました。また、大工・左官・瓦師などの伝統技術を持った職人さんも少なくなっています。古い建物を後世に残すためには職人さんの技術伝承も重要ですから、建物も、技術も、今後わたしたちがまち並み保存のために取り組まなくてはいけない課題は山積みです」

▲「こちらの長屋門(写真:左上)はもともと中間(ちゅうげん)さんと呼ばれるお手伝いさんが暮らす建物でした。明治時代以降は職を失った武士たちがこの建物でお蚕さんを育てていたそうです。石垣をよく見ると、門の右側はこぶ出し、左側は石面を平らに加工した積みで、それぞれ様式が違っています。武家屋敷通りの建物は、土塀・石垣を眺めると時代ごとの意匠の違いが窺える貴重な資料です」と佐伯さん▲「こちらの長屋門(写真:左上)はもともと中間(ちゅうげん)さんと呼ばれるお手伝いさんが暮らす建物でした。明治時代以降は職を失った武士たちがこの建物でお蚕さんを育てていたそうです。石垣をよく見ると、門の右側はこぶ出し、左側は石面を平らに加工した積みで、それぞれ様式が違っています。武家屋敷通りの建物は、土塀・石垣を眺めると時代ごとの意匠の違いが窺える貴重な資料です」と佐伯さん

点を線へとつなぎ、線を面に広げていくまちづくりが目標

昭和54年、竹田市では殿町の『武家屋敷通り』をはじめとする旧市街地のまち並み保存への気運が高まり、『竹田市史跡等環境保存条例』を制定して独自の保存活動をスタートした。その後、平成28年になると景観法に基づく『竹田市景観条例』に移行。「屋根は平屋根ではなく入母屋・切妻の和風瓦屋根を推奨」「建物の高さは15m以内」「原色は使わず近隣とバランスがとれる色彩で」といったルールを定めてまちの修景に努めている。

「ただ、竹田は小さなまちですから、建物保存という意味では補修費用に関して充分な補助ができません。そのため、建物保存対策の一案として国の『登録文化財』を所有者の方へ提案するようにしています。国の登録文化財になれば、修理費用の一部を国から補助してもらえますから、所有者にとっても負担が少なくなるのです」。

しかし、建物を個々に文化財登録していくには時間も労力もかかる。いっそのこと、文化庁の『重要伝統的建造物群保存地区』の選定を受ける方法は考えていないのだろうか?

「ずっと重伝建にはチャレンジしているんですが、“古い町並みに連続性が無い”という理由で、今のところ選定を受けることができないのです。竹田の場合は、明治・大正・昭和初期の建物が点在する本町エリアと、江戸時代の武家屋敷が建ち並ぶ殿町エリアにおいて、町並みが中間で途切れている箇所があるので、“建造物群”としての連続性をうまく再生できなければ重伝建が受けられません。そのため今後は、古いまち並みの『点』を『線』としてつなげ、『線』を『面』に広げていくまちづくりを行いながら、重伝建の選定を目標にしようと考えています」。

▲竹田市街では、国の登録文化財として16棟の日本家屋が登録されている。他にも景観法に基づく竹田市の指定保存物件があり、その物件に対しては市が補修費の2分の1を補助しているそうだ。「現在、登録文化財候補としては20棟ほどの建物が挙がっていますが、“どうしてもこの建物だけは残したい”という物件に対しては、市が買い上げて保存を進めています。買い上げた建物は補修を行ったあと、市役所の企画情報課が運営する空き家バンクを通じで利用希望者とのマッチングを行います。市役所の中でも比較的ヨコの連携がうまくいっているのは小さな役所ならではでしょうね(笑)。良い情報があればすぐに担当課同士で共有しています」▲竹田市街では、国の登録文化財として16棟の日本家屋が登録されている。他にも景観法に基づく竹田市の指定保存物件があり、その物件に対しては市が補修費の2分の1を補助しているそうだ。「現在、登録文化財候補としては20棟ほどの建物が挙がっていますが、“どうしてもこの建物だけは残したい”という物件に対しては、市が買い上げて保存を進めています。買い上げた建物は補修を行ったあと、市役所の企画情報課が運営する空き家バンクを通じで利用希望者とのマッチングを行います。市役所の中でも比較的ヨコの連携がうまくいっているのは小さな役所ならではでしょうね(笑)。良い情報があればすぐに担当課同士で共有しています」

まちづくりに本当に必要なものは『まちの蠢き(うごめき)』だと思う

最後に、佐伯さんに「今後の竹田のまちづくりに必要なものは?」と聞いてみた。

「所有者の建物保存に対する意識、地元の方の理解、補修のための補助金…欲しいものはいろいろありますが(笑)、何より本当に必要なものは“町のうごめきを創ること”だと思います。まちのうごめきというのは、小さな子どもからお年寄りまで、多世代が生活することによって生まれるものですから、そのうごめきによって、地元への愛着や古い建物への関心も高まるのではないかと考えています。子どもたち、孫たちが、竹田のまち並みを誇りに感じられるようなうごめきを創っていく。これが一番難しい課題であり、一番大切な課題でしょうね」

竹田市ではいま、少しずつだが都会へ出た若者たちが地元へ戻りつつあり、新たなうごめきを創りはじめている。小さな城下町で生まれた小さなうごめきが、今後どのようにまちづくりを推し進め、まち並み保存を成し遂げていくのか?これからの竹田市に注目したい。

■取材協力/竹田市
https://www.city.taketa.oita.jp/

▲父の転勤によって東京からここ竹田へ移り住み、少年時代を過ごした瀧廉太郎。その生家は竹田市の観光名所のひとつで『瀧廉太郎記念館』として保存されている。生家近くの『廉太郎トンネル』を通ると名曲『荒城の月』のメロディが流れる▲父の転勤によって東京からここ竹田へ移り住み、少年時代を過ごした瀧廉太郎。その生家は竹田市の観光名所のひとつで『瀧廉太郎記念館』として保存されている。生家近くの『廉太郎トンネル』を通ると名曲『荒城の月』のメロディが流れる

2018年 04月24日 11時05分