解体現場で発見された「有待庵(ゆうたいあん)」。京都市がその歴史的価値を重視し、異例の取り組み

2019年5月9日、京都市上京区寺町通今出川下る、京都御苑の東側。京都在住の歴史研究家・原田良子さんによって、解体直前だった明治維新三傑の一人・大久保利通の茶室「有待庵(ゆうたいあん)」の現存が確認された。約3畳という小さな茶室である。

取り壊される予定だった有待庵はその後、所有者から寄付を受けた京都市が移築。保存・活用されることとなったが、京都市のこの動きは“異例”といわれている。

今回は、大久保利通と岩倉具視らの明治維新に関わる密談の場所といわれる有待庵の歴史と京都市の果たした役割について紹介したい。まずは、有待庵の歴史を紐解いてみよう。

昭和時代に撮影されたと思われる有待庵内部(大久保利泰氏提供)昭和時代に撮影されたと思われる有待庵内部(大久保利泰氏提供)

小松帯刀の寓居「御花畑」から移築

有待庵の歴史を語る上で重要な役割を担うのが、大久保利通の三男で、大阪府知事も務めた利武が1942(昭和17)年に行った講演会の記録「有待庵を繞(めぐ)る維新史談」である。

「この講演録には、有待庵は薩長同盟の舞台『御花畑(おはなばたけ)』邸の茶室を貰い受けた大久保利通は当時の大久保邸に移築したと記載されています」と原田さん。御花畑とは、近衛家別邸の呼称で、幕末、島津家薩摩藩家老・小松帯刀の寓居だ。

「小松帯刀邸には二つの茶室がありました。さまざまな角度から考えると、移築されたのは北側にあった茶室で、平面図は完全には一致しないので大久保邸の敷地に合わせて仕立て直したと思われます」。利通はこの住まいに約2年間居住。上京後、邸宅は大久保家の手を離れたが、のちに利武が買い戻したのだという(その後、再び人手に渡ることとなる)。

有待庵の重要性を原田さんは次のように語る。
「岩倉具視のほか、坂本龍馬や西郷隆盛も足を運んだというエピソードが残っています。王政復古クーデターなど国の形を変える密談がここで行われていた、歴史的価値のある建物です」

原田さんが作成した有待庵の間取り。北、西、南の3方に障子戸が設置されている。</br>原田さんによると、密談の際、周囲の動向がわかりやすいようにとの考えからだそうだ原田さんが作成した有待庵の間取り。北、西、南の3方に障子戸が設置されている。
原田さんによると、密談の際、周囲の動向がわかりやすいようにとの考えからだそうだ

維新の現場が目の前に!

この場所に有待庵があることはさまざまな資料から把握していたが、
「一番最後の記録が1978年、つまり昭和53年のもの。そのころには大久保家とはゆかりのない個人の所有になっていたので、中に入ることはもちろんできず。母屋はその後改築された事もあり残っているかどうかは外から確認できませんでした」。
直接聞いてみようと訪問したこともあったそうだが、留守のため会うことはできなかった。

「常に気になっていた」という原田さんが、有待庵を発見したのは偶然のことだった。
「たまたま前を通りがかったとき、トラックが止まっているのを見かけたんです。すぐに解体工事だと分かりました。現場監督に声をかけて中に入らせてもらうと、茶室があったんです。維新の現場が目の前に現れたような気がして、すごく興奮しました。隙間から手を入れて内部の写真を撮ると、何度も写真で見ていた有待庵そのものでした」

原田さんは感慨深げに話を続けた。
「昭和53年以降、有待庵は存在するのかどうかもはっきりせず、平成の時代には忘れ去られていました。それが、令和に変わってすぐ姿を現したんです。時代の流れを感じるとともに、明治維新150年の翌年ということにも運命的なものを感じます」

現存の発見時の話に戻ろう。
原田さんはその場で懇意にしている歴史学者に連絡をし、翌日には京都市文化財保護課に出向き、調査を依頼。ただこの段階では、移築、保存ができるとは考えていなかったそうだ。

「保存ができたらとは思っていました。壊したら、もう二度と戻ることはありませんから。ただ、既に解体工事に入っており、工事をストップして頂くことは所有者さんの負担になりますし、新築をされる事情も知りました。そこで、調査のためのお時間だけでもいただきたいとお願いをしたんです」

左/わずかな隙間から手を差し入れ、原田さんが撮影。この画像を見て、有待庵に間違いないと確信したという 右上/原田さんが発見した際の有待庵の様子。入り口には木々や廃材が積まれている 右下/有待庵の説明もある大久保利通旧邸跡の駒札。2019年5月9日、有待庵を発見した後に見つけられた。見ると、最後に「京都市」の文字が書かれている左/わずかな隙間から手を差し入れ、原田さんが撮影。この画像を見て、有待庵に間違いないと確信したという 右上/原田さんが発見した際の有待庵の様子。入り口には木々や廃材が積まれている 右下/有待庵の説明もある大久保利通旧邸跡の駒札。2019年5月9日、有待庵を発見した後に見つけられた。見ると、最後に「京都市」の文字が書かれている

多くの文化的・歴史的価値のある建築物を保存する良い先例に

だが、ここから急展開。所有者が調査の時間を作ってくれただけではなく、京都市に有待庵の寄付を申し出たのだ。さらに、その歴史的価値を重く見た京都市が移築、保存・活用へと動いた。現存確認をしてから1ヶ月もたたない中でのスピーディーな決定だった。文化財ではない建物をこのように扱うことは一般的にはレアケースである。

「文化財の指定・登録には意匠的または学術的に優れているなど一定の基準を設けています。そういう意味では有待庵は、いわゆる『文化財』としての価値は見いだせていません」
そう話すのは、京都市役所文化市民局の中川慶太さん。原田さんが発見翌日に相談をしたのがこの中川さんだ。
「ですが、幕末に大久保利通や岩倉具視、西郷隆盛らが有待庵で顔を合わせていた可能性もあると思われるストーリーは重要。この歴史的なストーリーを後世に残すことは大切だと考えました」

奇しくも有待庵発見の約1ヶ月前、改正文化財保護法が施行され、地方自治体が文化財に関わる計画を作成することが可能になった。京都市は、京都市文化財保護審議会から、狭義の文化財だけではなく価値あるものを広く保存・活用していこうという方針にすべきという提案を受けたばかりだった。

「京都市には文化的・歴史的価値のあるものが数多く存在しています。今回の有待庵の保存・活用を良い先例とするべく、今後も取り組んでいきたいと思っています」

2019年10月現在、検討段階に入ってはいるが、移築先は決定には至っていない。いずれにせよ、近い将来、一般公開がされるはずである。大久保利通らが維新を夢見たであろう現場が私たちの目の前に現れるのだ。

右/有待庵の発見者・原田良子さん。「所有者の寄付譲渡というご意向と京都市の英断には感謝しかありません。明治維新について子どもたちが学べる、京都の新しい名所になることを願っています」 左/京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課の中川慶太さん。「今回は、所有者の意向、建物の規模、そして解体寸前という緊急性などの条件がそろっての判断となりました。今後も、一つ一つのケースをしっかりと見ながら対応していく必要があると考えています」右/有待庵の発見者・原田良子さん。「所有者の寄付譲渡というご意向と京都市の英断には感謝しかありません。明治維新について子どもたちが学べる、京都の新しい名所になることを願っています」 左/京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課の中川慶太さん。「今回は、所有者の意向、建物の規模、そして解体寸前という緊急性などの条件がそろっての判断となりました。今後も、一つ一つのケースをしっかりと見ながら対応していく必要があると考えています」

2019年 11月22日 11時05分