東京の歴史を刻んできた看板建築の特徴を伝える展覧会

「江戸東京たてもの園」(東京都小金井市)は、東京都墨田区にある江戸東京博物館の分館として、1993年にオープンした、建物の博物館。東京都内に残る、江戸時代から昭和までの歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示している。約7ヘクタールの広大な園内には住宅や商店など30棟が並び、その中に「看板建築」という様式の建物がある。

看板建築は東京で誕生し、都市の街並みをつくってきた建物なのだが、その存在はあまり知られていない。そんな知られざる建物にスポットを当てた展覧会「東京150年記念 看板建築展」が、2018年3月20日より、園内の展示室で開催されている。

看板建築とは、関東大震災の復興期にある昭和初期、東京で数多く建てられた商店建築。木造の店舗併用住宅で、建物正面が洋風に装飾されているのが特徴だ。裏側は和風建築なのだが、正面は西洋建築風でそれが1枚の看板板を取り付けたかのような趣であることから、看板建築と呼ばれるようになった。ちなみに看板建築の名称が学術用語として初めて登場したのは、1975年の日本建築学会の大会の席上でのこと。発表したのは当時、近代建築の調査・研究に携わっていた藤森照信さん(現・江戸東京博物館館長)で、藤森さんの研究仲間である建築史家の堀勇良さんが発案した呼称という。つまり、1975年以前は近代建築史の中でほとんど注目を集めることなく、埋もれていた建物だったのだ。

こうした看板建築は東京の歴史を伝える重要な建物として、江戸東京たてもの園では積極的に収集に取り組み、現在6棟を移築・復元し、公開している。「看板建築は東京の文化です。しかし、店の代替わりや街の再開発などによって年々、姿を消してしまっているのが現状です。そこで、貴重な存在になりつつある看板建築をあらためて見つめ直し、その価値を紹介したいと考え、展覧会を企画しました」と、江戸東京たてもの園(以下、たてもの園と記述)の学芸員である阿部由紀洋さんは話す。

江戸東京たてもの園には6棟の看板建築が移築されている。その中の1棟、丸二商店(荒物屋)。建物前面を覆うのは、精緻な意匠がほどこされた銅板。この建物の裏手には、丸二商店と隣接していた長屋も移築されている

江戸東京たてもの園には6棟の看板建築が移築されている。その中の1棟、丸二商店(荒物屋)。建物前面を覆うのは、精緻な意匠がほどこされた銅板。この建物の裏手には、丸二商店と隣接していた長屋も移築されている

看板建築に影響を与えた「バラック建築」の店舗に関する資料も展示

展覧会では看板建築の誕生から特色、現存状況まで、時系列に沿って5つのテーマに分類して展示している。

最初のテーマは、「第1章 関東大震災 焼け野原の東京」。前述のように看板建築は、関東大震災の復興建築として生まれたという背景があるので、関東大震災の被害がいかに甚大なものであったのか、展示されている鳥瞰図や写真、地図などの資料から知ることが重要になってくる。関東大震災は1923年(大正12年)9月1日に発生し、10万人以上の死者・行方不明者を出した。マグニチュード7.9という大地震であったことに加え、能登半島付近に発生した台風による影響で火災が広がった。火災は9月3日まで続き、東京市(当時)の面積の約4割が焼失してしまったといわれている。

展示の次のテーマは「第2章 バラックの街並み」。関東大震災からほどなく、街にはトタン板や焼け残った資材などを利用した「バラック」の仮設住宅や仮設店舗が建ち始め、その様子を伝える資料が展示されている。展示資料の中に、考現学の創始者として知られる今和次郎のスケッチが並ぶ。今和次郎は震災直後の東京をスケッチで記録するとともに、バラック装飾社を結成し、震災後に建てられた「バラックを美しくする」ための活動に力を注いだ。バラック装飾社は画家や彫刻家、舞台装置家、照明家など10人からなるクリエイター集団で、バラックの建物の外壁や室内にペンキで模様を描いたり、彫刻などで独自の装飾をほどこした。展覧会ではそんなバラック装飾社の作品として、銀座の「カフェー・キリン」などの写真を見ることができる。

このバラック装飾社が関わった建物以外にも、震災直後の東京にはデザイン性を訴求したバラックの店舗が続々と建てられた。そうした中から洋画家の川島理一郎が設計した「資生堂出雲町店」(現在の銀座7・8丁目の店舗)のバラック仮設店舗の外観デザインや内観スケッチが展示されている。白を基調にしたスマートな外観、花や果物の装飾があしらわれた店内など、バラックの店舗とは思えないしゃれた建物になっている。

このほか、日本古来の建築様式である数寄屋建築の近代化につとめた吉田五十八、巨匠フランク・ロイド・ライトの高弟だった遠藤新といった建築家が手がけたバラック建築の商店の写真などの展示もある。

「これらのバラック建築は短期間で消えてしまう仮設店舗にもかかわらず、当時の西洋建築の流行を取り入れていたり、先進的なデザインが数多く見られます。当時は街の復興を進めるため、一時的に建築の規制緩和がなされていた時期で、建築家が自由な感性で設計することが可能になっていたのですが、焼け野原となった首都東京を彩りある街並みにしたいという、建築家、芸術家の気概を感じます」と、阿部さん。こうした創造性豊かなバラック建築が、その後の看板建築にも影響を与えたという。

上左)江戸東京たてもの園の正面出入口となるビジターセンター。1940年(昭和15年)に宮城前広場(現在の皇居外苑)に建てられた「式殿」を改修した、「光華殿」という建物だ</BR>上右)看板建築の歴史や特色を学べる「看板建築展」。関東大震災の復興事業にかかわる資料も展示されている</BR>下右)江戸東京たてもの園の学芸員、阿部由紀洋さん</BR>下左)「看板建築展」では東京に残る看板建築についても紹介。東京の街から急激に姿を消しつつある看板建築だが、「中央区、千代田区には意外と残っています」と阿部さん

上左)江戸東京たてもの園の正面出入口となるビジターセンター。1940年(昭和15年)に宮城前広場(現在の皇居外苑)に建てられた「式殿」を改修した、「光華殿」という建物だ
上右)看板建築の歴史や特色を学べる「看板建築展」。関東大震災の復興事業にかかわる資料も展示されている
下右)江戸東京たてもの園の学芸員、阿部由紀洋さん
下左)「看板建築展」では東京に残る看板建築についても紹介。東京の街から急激に姿を消しつつある看板建築だが、「中央区、千代田区には意外と残っています」と阿部さん

建物の正面部分から軒の出をなくして平らにし、西洋建築風の外観に

武居三省堂(左)と花市生花店武居三省堂(左)と花市生花店

そして、展覧会のメインテーマが「第3章 看板建築の誕生」。震災から数年後、昭和へと時代が変わり、1930年(昭和5年)に東京の復興事業が完成。鉄筋コンクリート造の建物が建ち並び、近代的な街並みへと大きく変わっていった東京。しかし、鉄筋コンクリートの建物を建てる資金のない個人商店も多かった。そこで登場したのが看板建築である。

この展覧会ではたてもの園で移築・公開している看板建築6棟の事例を中心に、その特色や魅力を模型やパネルで紹介している。そんな展示品の中のひとつ、「創建時の看板建築」と題した、3棟の模型がある。千代田区神田須田町で文具店を営んでいた武居三省堂(1927年=昭和2年建築)、神田淡路町にあった花市生花店(1927年建築)、神田神保町にあった荒物屋の丸二商店(昭和初期に建築)について、完成した当時の姿をイメージした模型という。

これらの実際の建物は、たてもの園で見ることができるが、3棟に共通しているのは、建物の正面部分が平坦であること。木造の建物でありながら、正面から軒の出をなくして平らにしているのが特徴的で、これは看板建築全般にみられる特色だ。一見すると西洋建築風で、前出の関東大震災復興途上期の東京に見られたバラック建築の影響も大きいという。

これら3棟の中で武居三省堂と花市生花店は、間口が狭く、奥行きのある建物だ。

「関東大震災の復興事業は、地震発生前の形に戻すのではなく、新たな都市計画に基づいて東京をつくるというものでした。当時の東京市を65の地区に分け、街の区画整理をするといった整備が行なわれました。道路も拡張されたため、一戸あたりの敷地が狭い短冊形のものになり、そのような土地に多くの看板建築が建てられたのです。建物の正面から軒の出をなくして平坦にするというのは、狭い短冊形の敷地を有効活用するための工夫でもあるのです」と、阿部さんが解説してくれた。花市生花店については、内部の住まい空間がどのようになっているのか、断面模型やパネル展示で知ることができる。

防火性のある銅板やタイル、モルタルで正面部分を仕上げている

「創建時の看板建築」の模型に話題を戻す。どんなところが「創建時」なのかというと、主には建物正面の色。それは使われている素材が関係しているのだが、現在、たてもの園で目にする建物は、武居三省堂の場合は明るめの茶色のタイルで覆われていて、創建時の模型の色より少し渋くなったようにも思えるが、大きな違いは感じられない。変化が著しいのは、銅板を張った花市生花店と丸二商店である。創建時の模型では赤銅色に輝いているのに対し、建設から100年近くになる今は深い緑色へと変わっている。これは銅板ならではの経年変化で、「緑青」と呼ばれるサビという。長い年月を重ねた建物だからこその、味わいのある色合いなのだと、あらためて気づかされた筆者である。

このように銅板やタイル、モルタルなどで建物正面が覆われていることも、看板建築全般の特色だ。関東大震災で火災による甚大な被害を受けたことが教訓となり、燃えにくい素材として選ばれた。

模型の展示でもうひとつ、興味をひかれるのが植村邸断面模型。貴金属の製造販売業を営んでいたという植村家の看板建築で、1927年に中央区新富2丁目に建設された。この実際の建物もたてもの園内に移築されていて、前面に張られた銅板がかもし出す「緑青」の風合いを見ることができる。展覧会展示の断面模型では、最上階の屋根にマンサード屋根(腰折れ屋根)と呼ばれる形状の屋根が用いられていることを示している。この最上階とは、2階の上に設けられた屋根裏を指す。当時は東京の市街地のほとんどが、木造3階建ての建築が禁止されていたため、狭い敷地でいかに広い室内空間をつくるかということで、階数に数えられない屋根裏を設けるケースが多かったという。マンサード屋根とは、屋根の上部がゆるい勾配で、途中で折れ曲がり、下部が急勾配になった形状の屋根のこと。看板建築にはこうしたマンサード屋根がほどこされた事例は少なくないといい、前出の武居三省堂の屋根もマンサード屋根(※)だ。

(※)江戸東京たてもの園では、看板建築に用いられているマンサード屋根は、厳密には「ギャンブレル屋根」と呼ぶのが正しいとしている。しかし、看板建築の誕生期などで「マンサード屋根」と呼ばれていたという経緯があるという。そのため、この記事では「マンサード屋根」の呼称を使用した。

◆写真手前が植村邸。マンサード屋根、意匠をこらした銅板などが特徴的だ。デザインは洋風を基調にしているが、</BR>2階に高欄を設けるなど和風のつくりになっている</BR>◆植村邸に隣接して移築されているのは大和屋本店。港区白金台にあった商店の建物で、1928年(昭和3年)に建てられた。純和風のデザインながらも、間口寸法に対する高さ寸法が非常に大きく縦長の建物であることなどから、江戸東京たてもの園では看板建築と分類している

◆写真手前が植村邸。マンサード屋根、意匠をこらした銅板などが特徴的だ。デザインは洋風を基調にしているが、
2階に高欄を設けるなど和風のつくりになっている
◆植村邸に隣接して移築されているのは大和屋本店。港区白金台にあった商店の建物で、1928年(昭和3年)に建てられた。純和風のデザインながらも、間口寸法に対する高さ寸法が非常に大きく縦長の建物であることなどから、江戸東京たてもの園では看板建築と分類している

建築家ではなく、施主や大工の棟梁などが自由奔放にデザイン

マンサード屋根は17世紀のフランスの建築家・マンサールが考案したといわれているが、そうした西洋の様式が昭和初期の日本の個人商店に取り入れられていたことに驚きを感じる。マンサード屋根だけではない。看板建築は和風建築と西洋建築の様式を織り交ぜて、装飾性豊かにデザインされているものが多いのだ。

この展覧会ではたてもの園にある看板建築の建物を例に挙げ、そのデザイン的な特徴をパネルなどで紹介している。例えば、前出の花市生花店では、正面を覆った銅板には「菊」「桜に桐」といった和風の文様がほどこされている一方で、最上部にはギリシア・ローマ建築に由来する装飾である「メダイヨン」が見られ、いずれも精緻な職人技で仕上げられている。また、台東区池之端で小間物問屋(化粧品屋)を営んでいた村上精華堂は、1928年(昭和3年)の建築とは思えないモダンな看板建築。飾り柱の柱頭をイオニア式という、西洋の古典様式の手法を用いているのだが、日本の伝統技術も使われている。モルタルに小石などを混ぜて質感を表現する「人造石洗い出し」という、左官職人の技で仕上げられていて、大胆な和洋折衷建築といえる。

このほか、街から消えてしまった看板建築の事例も展示され、看板建築の大きな特徴は自由奔放なデザインであることがわかった。それらは建築家の設計ではなく、施主自らが、または知り合いの画家や大工の棟梁などによるデザインがほとんどだという。

「施主や大工さんなどがバラック建築で目にした西洋風の建物や、外国の文献で見つけて憧れを抱き、見よう見まねでデザインしたのかもしれません。どういういきさつがあったのかはともかくとして、東京の町場の人たちのデザイン力を感じます。これこそが看板建築の最大の魅力だと思います」と、阿部さんは語る。

さて、展覧会のテーマは「第4章 看板建築の伝播」へと続き、「第5章 看板建築の今」で締めくくられている。両方とも現在、街に残る現役の看板建築とその保存・活用の取り組みを伝える展示となっているので、見逃さないでいただきたい。

「第4章」では、関東大震災の復興のために地方から上京し、力を尽くした職人たちが地元に帰り、東京で身につけた看板建築をつくったということで、東京の青梅駅周辺、埼玉県川越市、茨城県石岡市、静岡県三島市の事例が紹介されている。「第5章」は、看板建築を生んだ東京の街に残る看板建築として2つの事例を紹介。中央区日本橋大伝馬町の「江戸屋店舗兼住宅」(1924年=大正13年建設)と、千代田区神田須田町の海老原商店(1928年=昭和3年建設)である。江戸屋店舗兼住宅は、創業は江戸時代という刷毛・ブラシの専門店「江戸屋」の建物。一方の海老原商店は1960年(昭和35年)頃まで、背広の裏地であるラシャを販売していたが、店舗が移転し、以後は売り場を車庫として使っていた。しかし、現当主が改修し、2017年からは地域の交流の場として活用されている。

この「看板建築展」の会期は2018年7月8日まで。東京の歴史を刻んできた看板建築にふれる、よい機会になると思う。ぜひ、足を運び、園内に移築された看板建築とともに見てほしい。

■東京150年記念「看板建築展」
会期:2018年7月8日(日)まで。
観覧料金:江戸東京たてもの園入園料(一般400円、大学生320円など)で観覧できる。
開園時間:9時30分~17時30分(入園は17時まで)
休園日:月曜日(月曜が祝休日の場合はその翌日)

☆江戸東京たてもの園
http://www.tatemonoen.jp/

モダンな外観の村上精華堂モダンな外観の村上精華堂

2018年 06月24日 11時05分