越谷では、歴史的街並みが残っていた

越谷というと最近は超巨大ショッピングモールであるイオンレイクタウンのイメージが強烈すぎて、他に街の印象がないほどである。
だが越谷は本来日光街道の宿場町であり、歴史は古い。先日その旧日光街道でまちづくりイベントがあり、知り合い2名がたまたまそのイベントに関係していたので行ってみた。
旧日光街道は東武スカイツリーライン(以前は、東武伊勢崎線)と並行して走っており、現在の日光街道は国道4号線だが、旧日光街道はその西側を走る狭い道である。

行ってみて驚いたのは、旧日光街道沿いにはまだ古い商店がかなり残っているということである。川越ほどではないが、蔵造りの商家があり、かなり歴史を感じさせるのだ。

越谷では、歴史的街並みが残っていた

35年の越谷市内における建売住宅は、わずか1軒!

昭和30年代に建ったと思われる家昭和30年代に建ったと思われる家

こういう長い歴史のある越谷であるが、住宅地化するのはそれほど古いことではない。東京の西側の田園調布、東急東横線、田園都市線といった住宅地が、今から100年以上前から連綿として開発、整備され続けてきたのと比べると、ほんの最近である。
越谷が住宅地化する契機は昭和37年5月の地下鉄日比谷線の北越谷駅乗り入れからである。60年前である。農地が一気に住宅地化し、旧日光街道沿いに縦長に形成されていた街区が、国道4号線から東武線を軸として東西3キロメートルの幅を持った広大な街区として形成されるようになった。

しかし35年の越谷市内における建売住宅の数はわずか1軒!だったという。昭和35年以降は、農地が工場に変わっていったが、39年にはその傾向が弱まり、逆に35年くらいから強まっていた農地の住宅地への転用が40年ほどまで続いた。また39年以降は建売住宅地が増えていった。

昭和38年7月の新聞報道では、越谷の地価は3〜4年で5倍に跳ね上がり、うなぎが特産の地域だけにまさに地価がうなぎのぼりといわれたのである。そこで市は39年、市の4分の1で用途地域を指定し住宅地を決めたが、不動産事業者は指定地域以外の、駅から遠い田んぼなどを買い占めて、住宅地にしていった。

手がつけられない街のスプロール化

昭和43年頃になると越谷のスプロール化は「手がつけられない」ほどになっていった(「越谷市史」)。43年2月の新聞では「目に余る違法建築」という見出しで以下のように書いている。

「三時間に一軒の割りで家が建っている越谷市では、無秩序建築によるゴミ処理問題やら下水問題対策に乗出しているが、(中略)市当局の関係者がスプロール化の激しい市内の新興住宅の実態調査を行った。同市では一ヶ月平均二百五十軒の住宅建設が認められているが、特に蒲生、大袋両地区と、桜井・出羽などの小規模な既設住宅街には、消防車の出入りも困難な場所もあり、現地踏査した各課長らは、違法建築をまざまざと見て“ひどい”を連発していた。」

こうした紆余曲折はあったが、とにかく人口は増えた。昭和30年に4万6,838人だった人口は47年には16万9,827人になった。転⼊者数は1,571⼈から1万3,360⼈に増え、出⽣数は1,135⼈から4,764⼈に増加した。まさに第2次ベビーブームである。
そして越⾕の特徴は、これまで述べてきたように、⼈⼝増加を公営の団地ではなく、⺠間開発の住宅によって受け⼊れてきたことである。草加なら松原団地、春⽇部なら武⾥団地という⼤きな団地があるが、越⾕にはなかったのである。越⾕の住宅は、その多くが零細の不動産事業者などによって建設されたのだ。

そうした歴史が越谷の旧日光街道周辺の地域に独特の景観をもたらしていて、すきっと整備された新興住宅地然とした風景ではない、昭和の庶民的な街並みが並ぶのである。それはそれでひとつの魅力である。

老舗うなぎ屋の外観老舗うなぎ屋の外観

越谷と東京下町とのつながり

うなぎがとても美味しいうなぎがとても美味しい

越谷への転入者の転入前の住所は、ほぼ東京都だった。41年を見ると、60%が東京都である。特に足立区などの城東地区が35%、下町が20%を占めていた(昭和50年)。このように越谷の住民特性は東京の東側低地の工場地帯で働く人々が多く、東京の下町の延長であったといえる。

もともと東武スカイツリーライン沿線は、草加せんべい、岩槻の人形など、東京下町との産業のつながりが大きい。実は草加せんべいの発祥は越谷であり、人形も本来は越谷でつくられていたという。せんべいは越谷米を使い、野田醤油で味付けしたので、風味は格別であり、東京などの食通が競って求めたという。また桐箱の生産も盛んであり、大沢町の黒田製板工場ではライオン歯磨きの桐箱を多い時で月間30万個生産していた。

旧日光街道沿いには多くの店があって栄えた。今回の取材でも古いうなぎ屋に入ってうな重を食べてみたが、薄味でまったく臭みがなく、これまで食べたどんなうな重よりも美味しかった。
こういうところに歴史の力を感じる。

旧日光街道沿いの商家をカフェやブティックに

花街があったあたり花街があったあたり

かつての越谷町は周辺で収穫される越谷米の集散地で、他に、呉服の万寿屋、ぬし市など、多くの店で賑わった。毎月二・七の市では、東京の千住から出張する古着、古道具、玩具など200店近くの露天商が出店し、多くの客を集めたという。

また大沢町には花街、遊廓があり、料亭では荒川沿いにあって川魚料理と天ぷらが有名な天芳楼や、3階建ての加賀屋が一流と言われた。花街のあったあたりは今はただ住宅があるだけだが、古い布団屋があるのは、花街、遊廓での需要が大きかったからではないかと思われる。

旧日光街道沿いの商家をリノベーションしてカフェやブティックにしている例もあった。登録有形文化財にも指定されている「はかり屋」で、ブティック、レストラン、地元野菜の店、レンタルスペースなどから構成されている。古い商家を越谷の住宅産業グループのポラスが買い取り、リノベーションと運営を別会社に委託している。

こうした越谷の活動は、残念ながらあまり知られていないと思う。巨大モールの街という印象が強すぎるのも問題である。
数年前、越谷市は中心市街地の再生策として「センシュアス・シティ(官能都市)」というコンセプトを取り入れようとしたが、行政として「官能」とはいかがなものかということで、そのコンセプトが却下された。まあ、行政の言い分もわかるが、官能がだめなら「五感に訴える街」でもいいわけであって、それは歴史、自然、文化、地域性などがもたらす独特の雰囲気がじわじわと感じられる街、ということである。

越谷には意外にそういう要素があるのだと街を探索して私は思った。それを地域振興に使わない手はないと思う。

花街があったあたり旧商家をリノベーションして商業施設へ転換

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