軍都・相模原の誕生
相模原、あるいは座間、厚木といえば米軍基地ゾーンであるが、当然戦前は日本軍の施設だった。
1936年、東京・市ヶ谷の陸軍士官学校と練兵場の移転計画が持ち上がり、八王子北、原町田西方、富士南麓、豊橋の4地区が候補地となったが、検討の末、原町田西方、つまり相模原、座間、厚木方面への移転が決定、37年に移転したのである。小田急小田原線の小田急相模原駅と相武台駅の北側に広がる米軍施設が旧・陸軍士官学校と相武台演習場(練兵場)である。
これを契機に相模台地上には25もの軍事施設が移転し、相模原市内だけでも38年に臨時東京第三陸軍病院、相模陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)(当初は陸軍造兵廠東京工廠相模兵器製造所)、陸軍兵器学校(当初は工科学校)、39年には電信第一聯隊(れんたい)、陸軍通信学校、40年には陸軍衛戍(えいじゅ)病院、43年には陸軍機甲整備学校ができ、相模原は軍都となったのである。
野坂昭如の父が目指した京浜工業地帯とともにある「新しい都市」「模範的住宅街」
軍都・相模原の誕生とともに、1937年から39年にかけて、座間町、上溝町、大野村、相原村、大澤村、新磯村、田名村に都市計画法を適用し、調査に着手した。
都市計画の立案は神奈川県土木部都市計画課長の野坂相如(すけゆき)。作家の野坂昭如の父であった。
相模台は水利が悪く、土地もやせており農業に適さない。他方、神奈川県では京浜工業地帯への工場の過度な集中があり、それを緩和させるためにも相模原の開発によって「新しい都市」「新興工業都市」としての発展を構想したのである。
相模原ではまず造兵廠で働く者の住宅需要が急増する。戦争が激しくなると民間工場の兵器製造能力の拡充も求められ、日本特殊鋼株式会社、浅野重工淵野辺工場、日満工場が進出することになった。住宅の整備は急務であった。
野坂は相模原の将来人口を神奈川県営住宅20万人と推定し、住宅、商店などの戸数を計画した。
住宅は376戸が計画され、「模範的住宅街の建設を企画し」、小さくても「各戸に菜園を付属」させることにした。
戦時下ということもあり、菜園のできる庭のある県営住宅
こうして県営住宅376戸(敷地面積2万6,720坪)が1939年から41年に供給された(設計は住宅営団)。加えて41年に設立された住宅営団の住宅が隣接して251戸(敷地面積1万5,316坪)建設されることになった(野坂相如「相模原集団住宅計画に就いて」)。
県営住宅は土地100坪・住宅面積13〜14坪のもの4種類と、土地60〜71坪・住宅10〜11坪のもの3種類、営団住宅は土地70〜79坪・住宅8.7〜15.1坪のもの3種類があり、また2戸建て、つまり1つの建物を真ん中で分割したタイプ(ニコイチともいう)が435戸あった。
戦時下ということで庭は菜園ができるように家の面積から比べると広めであった。また庭にはあらかじめ木が何種類か植えられ、年月が経つと木が育ち、また多くの家が生け垣をつくり、良好な住宅地の景観を形成するようになった。
住宅地を取り囲む街路には植樹がなされ、住宅地内には児童公園2カ所、小公園と隣接する国民学校(小学校)が予定されるとともに、商店、日用品市場、浴場が建設された。
水道はまだ通っておらず。水道ができるまでは井戸を掘り、井戸水を給水塔に貯め、それを各戸に供給したという(「相模原集団住宅計画に就いて」)。
古いが贅沢な空間
現地に行ってみると、たしかに戦前の計画とは思えないように立派な街路樹が整備されている。
名前は星ヶ丘住宅という。昔は星が綺麗に見られたのと、軍の徽章の星からこの名前が付いたらしい。
住宅地の土地も分割されたものはほぼなさそうである。もともと縦長の土地なので分割しにくいのかもしれない。
だから昭和50年代以降にできた郊外住宅地と比べると庭が広い。生け垣もわずかだがまだ見られる。
平屋のままの家もまだ少なからず残っている。広い庭に木造の日曜大工でつくったような物置を置く家も多く、サザエさんの家のようである。
「庭付き一戸建て」という言葉はあるが、現実に今の東京圏では、土地の値段が上がりすぎ、ガレージもつくらないといけないので、ちゃんと草木のある広い庭がある家は珍しくなった。星ヶ丘は古い庶民的な住宅地なので高級感はないが、今やこの空間はとても贅沢である。
広くて安い土地を買って平屋の家を建てて、子どもの成長とともに増改築を何度も行い、子どもとともに家も成長していく時代というものが、たしかに戦後25年後くらいまではあった。値段は高いが庭もない、増改築もしようもない家をただ買うだけの今の時代は、逆に貧しくないだろうかと思わされる。
そんなふうに感じた若い世代が星ヶ丘に引っ越してくるという可能性もあるのではないか。
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