環境と共生する田園都市づくり

柏の葉の緑豊かに整備された街区(撮影:大野秀敏)柏の葉の緑豊かに整備された街区(撮影:大野秀敏)

柏が住みたい街として人気上昇中だという。都心から30分ほど。商業集積もあり歴史もあり自然も豊かな郊外だからであろう。

人気の一端は今は柏の葉が担っているはずだ。柏の葉は、つくばエクスプレス柏の葉キャンパス駅を中心とし、公・民・学連携のまちづくりが進められていることで知られる。区域内は広大な柏の葉公園、東京大学、千葉大学、UR、千葉県住宅供給公社、三井不動産などの住宅地、警察庁科学警察研究所、国立がん研究センター東病院、財務省税関研修所、千葉県立柏の葉高校などがあり、駅周辺にはタワーマンションが立ち並ぶ。簡単に言えばつくば研究学園都市の千葉県版のような場所だ。

柏の葉では、柏市と千葉県、東京大学、千葉大学の4者が連携・協働し、2008年3月に柏の葉国際キャンパスタウン構想をとりまとめている。まち全体が大学のキャンパスのように緑豊かで質の高い空間となり、知的交流の場となることが、柏の葉国際キャンパスタウン構想の目指す都市の姿だという。
同構想では、環境・産業・国際・交通等に関する8つの目標を定めているが、その最初が「環境と共生する田園都市づくり」である。

手賀沼にあった白樺派の村

柏と田園都市というと、ちょっと意外という感触を持つ人も多いかもしれない。田園都市という言葉には、豊かな緑、きれいな空気というだけでなく、どこか文化的な要素が含まれるからだ。

だが白樺派の創始者・武者小路実篤は、1916〜18年(大正5〜7年)に我孫子の手賀沼近くに住んでいた。ここで志賀直哉や柳宗悦などと交流し、「新しき村」の建設を唱えたのである(旧武者小路実篤邸は、我孫子市船戸地区に今もある)。

手賀沼の南側は柏市であり、柏市民にとっては今も美しい自然と親しむ場所である。昭和初期(1930年前後)には中流階級の人々が柏や我孫子の分譲住宅地を競って買っていたという。昭和20年代までは底が透き通って見えるほど水が澄んでいて、夏には子ども達が泳いで遊び、漁師は漁に出るとき沼の水をすくって飲んだという。

手賀沼は高度成長期以降、手賀沼流域で宅地開発が急速に進むと大量の生活排水が沼に流れ込み水質を悪化させ、環境庁(現在の環境省)の調査が始まった1974年度から2000年度まで27年間日本一汚濁した湖沼という不名誉な記録を続けたため、まだ水が汚いイメージが残ってしまった。
だがその後の対策により今は、水はかなりきれいになってきている。

詩情豊かな手賀沼の風景(撮影:大野秀敏)詩情豊かな手賀沼の風景(撮影:大野秀敏)

戦前にあった田園都市構想

柏市の前身である柏町は1926年(大正15年)の町の成立以前から、柏駅周辺を中心に発展をし始めていた。陸軍の飛行場と高射砲連隊の建設が37年に始まり、軍人などの人口増加が予想されるようになった。
そこで町の有力者の間で、柏の新しい都市計画づくりをしようという機運が盛り上がり、1938年1月に田園都市計画を策定し、千葉県を通じて内務省に認可を申請した。

それは、手賀沼に面した戸張・呼塚地区は住宅地とし、豊四季地区は工場地帯、高田地区は田園地帯とするというもので、将来的には周辺各村を合併して人口3万人の田園都市を建設するというものだった。
しかしこの申請は内務省が認可せず、再度作成された都市計画が1939年1月に内務省の認可を得た。
それは我孫子市および富勢・手賀沼南町・風早各町村の一部を含み、柏駅から各町村に通じる放射状の3つの道路を新設し、風早村付近を工場地帯、手賀沼沿岸一帯を公園住宅とする計画であった。

また計画実現のために、1940年9月に柏振興会社、10月には富勢振興街葉が設置された。振興会社は軍人やサラリーマンに住宅を建設・供給し、宅地を斡旋することを最大の事業としていた。
新聞には、これによって 「理想的な住宅地が出現するものと大いに期待される」と報じられた。

柏の葉駅からバスで数分で豊かな自然がある柏の葉駅からバスで数分で豊かな自然がある
柏の葉駅からバスで数分で豊かな自然がある柏市合併概観図(出所:柏市ホームページ)

ただしこの田園都市計画は柏町の正式な文書に残っているわけではなく、新聞記事にあったものであり、当該の申請書に果たして本当に「田園都市」という言葉が使われていたかはわからない。1930〜60年代の新聞を見ると、こうした田園地帯の都市づくりを取り上げた記事に「田園都市」という言葉がしばしば使われるのだが、それは見出しとして便利だからで、本文を読むと「田園都市」とは書かれていないこともある。

たとえば読売新聞データベースを見ると、「印旛沼を中心に理想的田園都市」(1933年)、「深谷市誕生 田園都市建設へ」(1954年)、「東金 田園都市へ着実な歩み」(1954年)、「戸塚に大田園都市」(1955年)、「ハマの田園都市実現へ」(1955年)、「田園都市のモデル地区へ 上瀬谷通信隊施設周辺」(1965年)といった記事が見つかる。だから地元有志の計画に新聞が「田園都市」という言葉を使っただけの可能性はある。

軍人、サラリーマンが増加し住宅地化

すでに1938年3月には富勢(とみせ)村に文化住宅20戸が建設されていたが、40年7月には日立製作所柏工場の着工、同年10月の富勢・我孫子地区への国産精機株式会社(日立精機株式会社)の着工、さらに気象学校、気象台柏工場の新設などにより、柏町に勤務する人々が増えていた。
また常磐線の輸送力増強により、東京に通勤・通学する人々の数も増え、柏は急速に東京のベッドタウンとなっていった。

だが軍隊と工場が増え、戦争が激化すると、常磐線全体が工場地帯の性格を強めた。そのため柏も、北千住の向こうにある常磐線沿線の町というイメージが強まり、白樺派に象徴されるような田園都市のイメージはうまく形成されなかった。

三井の住宅地は柏の葉の開発初期からある三井の住宅地は柏の葉の開発初期からある

戦後は田園調布を意識した住宅地ができた

戦争が終わると、柏の住宅地化は次のような順序で進んだ(鈴木均『近郊都市』による)。
まず現在の柏駅東南部の千代田地区に5万坪の住宅分譲地ができた。戦時中は東京機器の軍需工場であったが、戦後は(どういう事情かわからないが)畳会社が買い取り、次に電電公社(現NTT)が買い取り、1952〜53年に宅地分譲されたものだという。
行ってみると今もNTTの社宅があり、カーブする街路に沿って広い敷地の戸建て住宅が並び、なかなかよいところである。
おそらく当初は平屋の住宅が並んでいたものと思われ、今でも古い平屋がけっこうな数残っている。しかしどれも荒れた感じはなく、壁のペンキを塗り替えたりして愛着を持って住まわれている印象である。
柏市ホームページによれば、ここは田園調布をイメージして開発されたという。田園調布とは街路が違うが、田園都市をイメージしたのは間違いないと思われる。

千代田の次には、緑ヶ丘や常盤台が開発された。戦時中は日立製作所だった25万坪のうち4万坪が分譲地化されたのが緑ヶ丘である。緑ヶ丘も千代田同様、平屋の戸建てが残っており、当初はこうした平屋戸建てが分譲されたものと思われる。
4万坪のうち2万坪は東急不動産が買収し常盤台住宅地として分譲された。
また日立の土地は広大な公園、運動場として今もあり、柏レイソルの本拠地もそこにある。

千代田、緑ヶ丘の家並み千代田、緑ヶ丘の家並み

URの団地としては千代田の東側の荒工山(あらくやま)団地が1956年にでき、その周辺の東町、大塚町も住宅地化した。荒工山団地は2階建てのテラスハウス11棟を中心とする可愛い団地だったという。杉並の阿佐ヶ谷住宅のような感じだったかもしれない(今は四角い団地に建て替わった)。 

URは、他には光が丘団地を1957年に入居開始し、64年には市内最大規模の豊四季台団地を建設した。
また、殖産住宅が松ヶ崎、十余二(とよふた)に住宅地を建設、先ほどの緑ヶ丘に隣接するひばりヶ丘も発展していった。

このように柏は、戦後を代表する郊外住宅地としての長い歴史がある。現在の柏の葉は、田園都市を目指した歴史を総括する柏最後の夢の都市といえるかもしれない。


<参考文献>
鈴木均『近郊都市』日本経済新聞社、1973
『柏市史 近代編』

千代田、緑ヶ丘の家並み1965年の柏市住宅地。右上が住宅公団荒工山団地。真ん中のひよこのような形の街路が千代田の電電公社分譲地。左下のホームベースのような形の敷地が緑ヶ丘である。(国土地理院データベースより)

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