場所の制限がなくなることで、遠隔地の在住者にも参加の機会が開かれる
コロナ禍による社会変容にも、前向きな側面はある。その一つが「リモート」の普及ではないだろうか。もちろん、リモートワークやオンライン呑み会には立場や環境によっていろいろな意見があるし、学校やキャンパスで行われるべき授業のオンライン化には課題があるだろう。しかし、自由な大人の学びの機会としてのトークセッションやセミナーは、場所や人数の制限がなくなることで、広く門戸が開かれる。少なくとも、地方在住の筆者にはありがたい。
建築史家、建築ジャーナリスト、建築家などで構成する一般社団法人東京建築アクセスポイントは、建築文化の振興、教育プログラムの開発、研究調査活動の3つをミッションとする団体だ。2016年の設立以来、専門家がガイドする建築見学や街歩きのトークツアーを数々開催してきた。現在はオンラインを通じたイベントにも積極的に取り組んでいる。代表で建築史家の和田菜穂子さんが主催するバーチャル・ツアーに参加してみた。
北欧建築の専門家のガイドでアルヴァ・アアルトの自邸をバーチャル訪問
『北欧モダンハウス』(学芸出版社刊)、『北欧建築紀行』(山川出版社刊)などの著書がある和田菜穂子さんは、北欧建築の専門家。国際巡回展「アルヴァ・アアルト-もうひとつの自然」展の日本展コーディネーターを務め、日本語版図録の編集も手掛けた。筆者が参加したバーチャル・ツアーは、その和田さんが自ら撮ってきた写真でアアルトの自邸を案内してくれるという贅沢なもの。日本にいながらにして、遠くフィンランドの建築をバーチャル体験できる。
和田さんのバーチャル・ツアーはオンライン会議アプリを利用し、リモートながら定員15人の参加人数制限を設けている。これは、和田さんが教鞭を執る大学での、リモート講義の経験に基づいて設定したものだ。
「参加者が100人単位だと、こちらが一方的に語るだけの講義になってしまいます。オンラインの双方向性を生かして参加者とキャッチボールしながら進めるには、15人が限度。どちらの良さもあるけれど、私自身はこぢんまりしたツアーが好きなんですね」と和田さん。15人は、東京建築アクセスポイントがこれまで実施してきたリアルなトークツアーの定員でもある。リアルなツアー同様、バーチャル・ツアーも、原則として参加者全員が顔出しで、互いに自己紹介を交わしてからスタートする。
20世紀フィンランドを代表する建築家・アルヴァ・アアルト(1898~1976)は、日本でも高い人気を誇る。ガラスの花瓶「サヴォイ・ベース」や木の丸椅子「スツール 60」など、ふだん使いできる家具やガラス器、照明器具などのデザインも手掛けた。そのアアルトが、公私にわたるパートナーであった妻・アイノとつくりあげた自邸(1935-1936)には、自然と暮らしを愛したアアルトの設計のエッセンスが詰まっている。「そこには、どこか日本文化に通じるものが感じられます」と和田さんは言う。
リアルでもバーチャルでも、和田さんがガイドする建築ツアーは、まず建物の外観を観察するところから始まる。
「アアルトの自邸は、ヘルシンキ郊外のムンキニエミという町にあります。これが道路から見たところ(下の写真)。窓が少なく、閉鎖的な印象を受けますね。この建物は、庭に向かって開かれているんです(下の写真)。ゆるやかな高低差のある庭には、池や樹木が配置されています。このランドスケープは、妻アイノがデザインしました」
直線で構成された外観はモダンだが、白く塗装したレンガとダークブラウンに着色した木の壁には有機的な質感がある。外壁には縦棒がいくつも取り付けられており、そこにツル性の植物を這わせている。「あらかじめ、緑も建物の一部になるように計画されていたわけです」
日本の伝統的な住宅を連想させる、植物性の素材を用いた温かみのある内装
「では、中に入ってみましょう。アアルトの自邸は現在、アアルト財団が管理しており、見学することができます。私はこれまでに10回は訪れたでしょうか。しばらくは海外旅行も難しいけれど、皆さんもいつかぜひ、現地に行ってみてください」と和田さん。バーチャル・ツアーの参加者も、その日のための予習が目的だという人が多かった。
建築当初、この家は、家族の住まいと仕事場を兼ねていた。2層吹き抜けのアトリエと1階のリビングは、床の段差と木の引き戸で仕切られている(下の写真)。引き戸によって空間をつないだり分けたりする手法は、日本の住宅に似ている。
アアルト自身は、階段の上にのぞく中2階の小部屋で仕事をしていたらしい。吹き抜けに面した2階部分は物置だったそうだが、注目は壁の仕上げ。「何か植物性の材料を編んだような、自然素材でできています。この壁材は、ダイニングにも使われています」。筵(むしろ)や畳を連想させる素材だ。
庭を望むリビングには、アイノや娘が弾いたピアノが置かれている。家具や照明器具は、いずれも夫妻がデザインしたものだ。「その他にも、アアルト夫妻が自宅にどんなものを飾り、何を使っていたかが分かって興味深いんです」。親交のあった画家フェルナン・レジエの作品や、ル・コルビュジエのポスターが飾られているほか、のみの市や旅先で買ってきた雑貨類も面白い。「ダイニングのアンティークな椅子は、アアルト夫妻の新婚旅行のお土産だそうです。部屋の隅に置かれているワゴンは、アアルトが商品化した『ティトローリー』の元ネタになっています」
窓にかけられたロールスクリーンは、日本の簾(すだれ)に酷似している。「建築当時からあったものだそうなので、フィンランド国内にこういうスクリーンが流通していたのでしょうね」
ダイニングとキッチンの間には、両側から使えるキャビネットが設けられている。キッチンも含め、機能的なデザインはアイノによるもので、「彼女が合理的なデザインができる、とても優秀な女性だったことがうかがえます」と和田さん。しかし1949年、アイノは長い闘病の末、アアルトを遺して世を去る。アイノ亡き後、アアルトは2番目の妻エリッサと再婚し、生涯この家で過ごした。
愛妻アイノ亡き後、自邸の近くに建てた新たなオフィス棟
1955年、自邸のアトリエが手狭になってきたため、アアルトは自邸から歩いて数分のところに新しいスタジオを建てた。L字形をした中庭形式の建物だ。
「ここで面白いのは中庭で、敷地の傾斜を生かして段差を設け、円形劇場風につくりこんでいます。正面の白い壁に映像を映そうと考えたらしいのですが、実際に使われたという記録はないそうです」
この円形劇場に接した製図室は天井が高く、ハイサイドライトから自然光が入るようになっている。「スタッフ一人一人のデスクが広くて、働きやすそうだなあと思いますよね」
L字のもう一方の翼は2層吹き抜けのギャラリーで、円形劇場に面して開口部が弧を描いている。「吹き抜けにはアアルトがデザインしたさまざまな照明器具がぶら下がり、いくつもの椅子が展示されていて、ショールームのように使っていたようです」
1963年にはさらに増築し、スタッフのための食堂とキッチンを設けている。「この頃のアアルトはすでに大家になっていたはずですが、オフィスとはいえアットホームな雰囲気で、アアルトがスタッフ思いだったことが伝わってきます」
アイノとともに自邸を建て、自らのスタイルを確立し始めた頃から、世界的に名前を馳せて広いオフィスを持ち、1976年に78歳で永眠するまで。ムンキニエミには、建築家アルヴァ・アアルトの軌跡が深く刻まれている。
バーチャル・ツアー終了後には、希望者が残って和田さんと自由におしゃべりする懇親会も用意されている。ツアー中に尋ねきれなかった質問やアアルトのほかの建築についてなど、同じ関心を持つ参加者同士のなごやかな交流が行われた。
リアルのトークツアーも徐々に再開。山の手線を巡りながら身近な町を見直す
和田さんと東京建築アクセスポイントは、今後もオンラインによるツアーを続けていきたいと語る。
「予想していたよりも大きな反響をいただいています。リモートの利点は場所を問わないこと。いずれは、フィンランド現地にいる友人とつないで、海を隔てたセッションをやってみたいと思っています」
一方で、状況を注視しつつ、リアルのトークツアーも新たな企画で再開している。「定員を10人に絞って、街歩きの企画を始めました。高輪ゲートウェイ駅からスタートして、山手線を1回に一駅ぶん歩いて周辺の町と建物をガイドするというものです。1ヶ月に2回歩けば、1年ちょっとで山手線を一周できることになります」
新型コロナウイルス感染の心配から、建物によっては内部見学を頼みにくい事情もある。「東京から遠出するのが憚られるこの時期は、身近な町を見直すきっかけになるのではないでしょうか。きっと、今まで見過ごしていた、掘り出し物の建築に出会えますよ」
なお、和田さんはYouTubeでも動画を無料配信している。オンラインセミナーやトークツアーの予告編のような位置付けで、アアルトの作品のほか、日本の近代建築の傑作を紹介する。6〜7分程度にまとまった見やすい動画なので、是非こちらもチェックしてみてほしい。
東京建築アクセスポイント http://accesspoint.jp/
けんちく博士なほ子(Dr.Nahoo)のヴァーチャルツアー
https://www.youtube.com/channel/UCPFj3Jpdipa-OSkbgDohRFQ
2020年 08月14日 11時05分