村野の色彩感覚を育んだ“製鉄の街・八幡”を象徴する“鉄さび色”の建築

20世紀日本を代表する建築家のひとり、村野藤吾。初期の代表作「宇部市渡辺翁記念会館」(山口県宇部市、1937年)や「世界平和記念聖堂」(広島市、1954年)は国の重要文化財に指定され、1974(昭和49)年には迎賓館(2009年国宝指定)の大改修を監修した。ほか、東京では日比谷の日生劇場(1963年)、大阪では難波にあった新歌舞伎座(1958年、解体)が印象に残っている人も多いのではないか。

その業績は、昭和の歴史とほぼ重なる。独立し、自らの事務所を設立したのが1929(昭和4)年。それから、バブル前夜の1984(昭和59年)年まで仕事を続けた。リタイアしたのは、命が尽きたからだ。享年93歳。亡くなる3時間前まで事務所で働いていたという。 

福岡県北九州市にある「八幡(やはた)市民会館」は、その村野の作品年譜と昭和史の、ちょうど中頃にあたる、1958(昭和33)年に竣工した。東京タワーと“同い年”と考えれば、時代の空気がイメージできるだろうか。現在の北九州市ができる前、旧八幡市の市政40周記念事業の一環として計画されたものだ。

1891(明治4)年に佐賀県唐津市で生まれた村野藤吾は、12歳頃から八幡に移り住んでいる。建築家を志す前、しばらく「八幡製鉄所」に勤めた経歴の持ち主だ。八幡市民会館の設計を託されたのも、地元出身ゆえだと本人が語っている。

後年、村野は、自らの「感覚的な面」には八幡の影響が「かなり強かったようです」と述懐している。

「私の作品のシルバー・グレイというか、ちょっとブライトではない色調。これは八幡の煙の多い空、それから鉄、あの感じです」(昭和40年12月 美術出版社『建築年鑑』所収「わたくしの建築観」)

八幡市民会館の特徴のひとつは、その鉄さびを思わせる、赤みがかった外壁タイルの色合いにある。

八幡市民会館外観。外壁には、今はもう製造されていない「塩焼きタイル」が貼られている。1枚1枚異なる微妙な色合いと、柔らかな光沢が特徴だ。写真右側の煙突は、上下の断面が八角形で、中ほどは四角く絞られた、不思議な造形(撮影:笠原一人)八幡市民会館外観。外壁には、今はもう製造されていない「塩焼きタイル」が貼られている。1枚1枚異なる微妙な色合いと、柔らかな光沢が特徴だ。写真右側の煙突は、上下の断面が八角形で、中ほどは四角く絞られた、不思議な造形(撮影:笠原一人)

重いものが軽く見え、モダンなのに古典的。その“両義性”が村野流

JR八幡駅前から南にまっすぐ伸びる、幅員50mもの大通り。八幡市民会館は、その終点の環状交差点に面して建っている。ホールを内包した窓のない建物は遠目にも量感があるが、わずかに膨らみを感じる独特のフォルムと、折り紙の笠を被せたような薄い屋根によって、どこか愛嬌のようなものを感じさせる。

大阪市立大学教授で建築家の宮本佳明(かつひろ)氏は、この建物の模型制作を通して、造形の不思議に気付いたという。「正面の壁は、上端中央が張り出すと同時に、少し手前に倒れている。なのに、下端は水平。一方で、側面の壁は手前が傾いているのに、奥の端は垂直なんです」。建設時、この三次元に変化する壁面に隙間なくタイルを貼るのは、さぞかし困難だったことだろう。

この茶褐色の塊は、下部に連なるガラス窓によって、まるで宙に浮いているかに見える。台座は、それ自体がステージのような打ち放しコンクリートのバルコニーだ。シャープな水平線が際立つバルコニーは、古代ギリシャの神殿を思わせる列柱に支えられている。全体が三層になった構成も、古典の様式に見られるものだ。

京都工芸繊維大学助教の笠原一人氏は「この建築には村野作品の特徴が端的に表れています」と語る。「重いはずの塊を軽く見せる。モダンでありながら古典的でもある。相反する要素の両立、その“両義性”こそ、村野の真骨頂なのです」

2014年11月に撮影された遠景。中央が八幡市民会館、左に見えるのが解体された八幡図書館、写真右手がロータリーになっている。手前の銀杏は小伊藤山公園(撮影:笠原一人)2014年11月に撮影された遠景。中央が八幡市民会館、左に見えるのが解体された八幡図書館、写真右手がロータリーになっている。手前の銀杏は小伊藤山公園(撮影:笠原一人)

機能を奪われ、工事現場に取り残された建物の存続は実現するか?

戦後復興から高度経済成長への転換期に建てられた八幡市民会館は、築後60年を前にして、存亡の岐路に立たされている。

2012年頃に持ち上がった市立病院整備計画のため、北九州市は八幡市民会館近傍の敷地を指定。その範囲には、同じく村野設計の八幡図書館(1955年)も含まれていた。市は、老朽化した2つの建物の維持には多額の財政負担を要するとして利用停止を決めた。

八幡図書館は2016年に取り壊されてすでにない。八幡市民会館は2016年3月に閉鎖、今は工事の仮囲いの奥にひっそりと建っている。笠原氏が「戦後民主主義の公共建築の特徴」とする前面の広場は、建設中の新病院の駐車場に充てられる予定だ。

建物の取り扱いは、それこそ宙に浮いている。北九州市は「自ら活用する考えはない」とし、当面は民間の提案を待つ構えだ。地元企業や団体が構成する「八幡市民会館リボーン委員会」は、建物外観の保存を目指してコンバージョン(用途変更改修)案を検討中。一方で、ホールとしての存続を望む「八幡市民会館の活用を求める連絡会(以下、連絡会)」も運動を続けている。

市民会館周辺の象徴的なロータリーや広幅員道路は、「戦災復興都市計画」によってつくられたものだ。旧八幡市は空襲で既存市街地の6割以上を焼失し、その痛みから立ち直るために、地形を変えるほどの区画整理を行った経緯がある。市民会館向かいの小伊藤山公園は、空襲で約300人もの命が失われた防空壕の跡地だ。その山を削った土で焼け跡を埋め立て、現在の街並みができあがった。図書館や市民会館の建設には、平和で文化的なまちづくりの願いが込められている。

八幡市民会館の竣工から5年後の1963(昭和38)年、五市の対等合併によって北九州市が生まれ、「八幡市」の名は消えた。市全体でみれば、八幡市民会館の存続問題に対する関心は高いとはいえない。減少する人口に比して多すぎる公共施設の整理が、市政の重い課題になっていることも事実だ。

2017年3月22日、連絡会は市長と市議会議長あてに存続を求める陳情書を提出した。リボーン委員会も、まもなく提案書を出す予定だ。今度の行方を見守りたい。

柔らかな雰囲気のホール、明るいホワイエ、ピアノの鍵盤を模した窓。質感豊かなディテールも、今は閉ざされて見ることができない(撮影:笠原一人)柔らかな雰囲気のホール、明るいホワイエ、ピアノの鍵盤を模した窓。質感豊かなディテールも、今は閉ざされて見ることができない(撮影:笠原一人)

2017年 04月04日 11時03分